栗駒山について。
先日、山頂の奥の院がボロボロになっていたことを知り、
奥宮再建をよびかけておりましたので、
ご協力できる方はよろしくお願いします。

 

 

栗駒山山頂は風がとても強いことで知られています。

ということなので、栗駒山のことを
過去記事(goo)にあったのだけ

まとめておきます。

関東にも深く関わりのある所です。

震災前の2008年6月14日、
岩手・宮城内陸地震があった所では、
栗駒山周辺の巨大な地滑りで地質学者の注目を浴びました。

 



その2年後、当時、登山サークルに入っていて、
地震以来の栗駒山初登山に連れいってもらい、
栗駒の神様ともお会いできました。

 

 

十六八重菊

 

土砂災害のあった場所は、今、こんな感じになっています。

 

 

遠くからでも栗駒山周辺の崖崩れが見える時に
地震以来の山開きに登っていたのですが、

その地震の時、近くにいっており、

タクシーの運転手からこんな話を。

当時、避難する人も大変だったそうだ。
避難所がいっぱいで近くのホテルに泊まらせてほしいと頼んだが、
部屋は既に市長や行政機関に関わる人たちの為に確保していたようで、
地元の人たちはほとんど野宿だったと、タクシーの運転手から聞いた。

しかし、その時東京から自衛隊が早く(当日中に)到着してくれたので、
自衛隊の活動には救われた。と言っていました。


戦争の破壊の仕方を学ぶわけではなくて、
戦争であっても何でも壊された地は「災害」と呼ばれるわけですから、

私の解釈ですけど、

災害があった地を復興し促すことが自衛隊の役目で

あったわけですよね。

そこが最も重要だと思いますが、今は、違いますね。

だから問題は、「その後」なんです。
「起こった後」をどうするか。

単純な人々が多いけど
現地の声は、大事だな、と思います。

そこまで足を運ぶ勇気があれば、
その声をひろうことはできる。

発信するのは簡単だが、
それだけでは信頼には至りません・・・

まあ、その後の、311ですからね。
311の時も震源地は「栗駒山」と出た。

 

■駒形根神社について

 

さて、古代より後の鎌倉時代にあたり、
ここで秩父の名前をきくとは思わなかった。


どこかで繋がっている栗原と秩父平氏の関係。

駒形根神社は山頂に祀られているがここが奥宮であるとされる。

 

※7、8年前

宮城県側では「栗駒山」と呼び、
岩手県側では「須川岳」とよぶ。
秋田県側では「大日岳」と、それぞれ違う呼び名です。

里宮の由縁では、日宮(ひるみや)・大日社・駒形社と称し、
『お駒様』と親しまれている。

社記に、
『日本武尊御東征の折、
大日ルメ尊外五柱の主神に祈願創建』

奥羽鎮護の一ノ宮として駒形嶽(栗駒山の古名)を奥宮、
沼倉の地に里宮を祀ったと誌され、太古より日宮と呼称。

栗駒山山頂の奥宮の由縁

延暦20年(801)坂上田村麿奥羽鎮定を祈願。

四大門(東は一関三島・西は花山・南は尾松大鳥
・北は秋田(仙北)を建て、自ら駒形根大明神の大額奉献。
次いで仁寿元年(841)神階正五位贈、
清和天皇貞観元年(849)勅使下向正一位を贈られる。

 


 

 

また、

 

日本武尊東夷征伐のおり、
六柱の神々を、栗駒山山頂大日岳に斎き祀り東国鎮護の祈請をしたのが当社の起源。


後、桓武天皇の延暦年間、坂上田村麻呂東夷征討の際、

本社に祈請し、平定の後には報賽のため剣を奉納したという。


また、多治比真人・源頼義父子・源頼朝等奥州下向の際にも当社へ祈願。
平泉の奥州藤原氏の崇敬が篤く、社殿の造営した。

当社は、栗駒山山頂の嶽宮を奥宮とし、

東麓の沼倉に、里宮(あるいは麓ノ宮)を置く構成。
東奥の一の宮とも、日の宮とも称された古社。



奥の院縁起の中に

「多治比真人」がありますが、
秋田県鹿角の阿保氏がいます。


五の宮岳に登った時にいっぱい妄想して、
Nさんのご先祖様でもありますが、関係しています。

 



多治比彦王の系譜の子が土着して、
武蔵に配流したと言われた人が桑名峯信。


この人が丹党首になり、一大勢力となる。

ここから、武峯→経房が秩父中村郷に住み
「白鳥氏」を名乗っているのですね。

これは、物部氏か安倍氏の白鳥の方かもしれない。

ヤマトタケルじゃなくて!


というのは、関東からではなく、
元は秋田から関東へ「南下した」方が正しいようだ。

この系譜で元をたどれば、多治比彦の安保氏に繋がるのです。

武蔵が関係しているのは、和銅(秩父)を開拓した
丹生一族が金を求めて陸奥までやってきたことがあるからです。

 

 

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馬信仰もそうで、北関東地方一帯(特に茨城県)に
「駒形神社」が非常に多く、
蝦夷征伐のある地には駒形を祀ると言われます。

 

※茨城県の駒形神社(赤い部分)

駒形「根」神社と、

「根」がつく神社は栗駒山麓に多い。

平泉衣川にある三峰神社も、
南部駒を献上してようやく建立を許されたと聞いたので、
武蔵の馬がそれだけ陸奥国にとっても貴重でした。

群馬県がとくに馬の産地としてあったので、
秩父もそのひとつ。

秩父夜祭に馬をひいて歩くのは、馬を神格化しており、
その馬に神が鎮座しているといわれ、
かつて馬を献上した先祖を祭ることが由来にあるため。

武蔵国を強大にしたのは「鉄と馬」

その鉄の技術は、元来、一関周辺からもたらされ、
全国各地に刀鍛冶を派遣しています。
もちろん、出雲にも。

なので、秩父和銅黒谷に蕨手刀が祀られているのです。
※刀の発祥は、東北地方(一関舞草説)

馬はどこから来たか?というと、
はっきりしてませんが、朝鮮半島から日本に渡る時に、
一緒に連れてきた説があり、

北方からやってきた説もある。

対馬海流に乗って北から南へ下り、朝鮮半島に上陸。
後に日本海へ上陸した氏族がいます。

 



大和建国前にすでに東北地方ではエミシが馬を使用していたこともあり、
大和朝廷は鉱石だけではなく馬も必要としていたそうです。

先日、細倉マインパークにいきましたが、
その地域に伝わる伝説を紹介します。

 

■馬ヶ淵の伝説(鶯町)

 

むかし、鶯沢の八沢に「カゲ」という名馬を飼っていた長者がいた。

里人は鎌沢長者とよび、長者は馬に乗ると目にも止まらない速さであった。
この長者には、「おさよ」という美しい娘がいた。
おさよは、誰よりもカゲを可愛がり、カゲもおさよには言う事を何でもきいた。

細倉の南側の小高い山の上に、秋法館というお城があった。

秋法館の城主である橘さまの家来に、伝吉という若者がいた。
伝吉は馬乗りが上手でどんな馬があっても乗りこなすことができた。

この伝吉の耳に、カゲの噂が入りぜひ乗ってみたいと思い、
ある日、伝吉は殿さまにひまをもらい、長者屋敷をたずねた。

たずねてきた伝吉に長者は、馬を貸すかどうか、娘に聞いてくれという。
娘は伝吉の願いを許し、カゲを貸すことにした。

伝吉は身もかろやかに馬にまたがり、だんだんと速く走るようになった。
まるで鳥が飛ぶように素早く、その手綱さばきも見事であった。
やがてこの噂は殿さまの耳に入った。

その名馬とやらを見たいものだ。

と、長者屋敷へ使いの者を走らせお城へ連れてくるように命じたが、
カゲは一歩たりとも進まない。

殿さまの命令といい、村の人も手綱を引いてみるが動かない。
そこへ娘のおさよがやってきて、カゲに優しく声をかけ、手綱を引いた。

すると大人しく歩きだした。
しかし、他の者が手綱を引くと動かないので、仕方なく、
おさよと一緒に殿さまの屋敷まで来てしまった。

殿さまは名馬をみて大喜び。
馬も名馬だが引いてきた娘も美しい。
と言ってたいそう褒めたと。

それから2,3日すると鎌沢長者の家に、
秋法館の殿さまから使いの者がやってきた。

長者の家では、大騒ぎになりその侍を奥座敷へ通した。

「実は、今日は我使いで参った。
先日、馬を引いてきた娘を大変殿が気にいり、

奥方にほしいとのことでござる」
と言って、深く頭を下げた。

喜んだ長者は、おさよの気持ちを聞くと、
カゲと別れるから嫌だ。
およめには行かない。と拒んだ。

カゲは長者では宝なので、おさよと一緒にお城へやるわけにはいかない。

何とかおさよに言い聞かせ、やっとのこと、
お殿さまのもとへお嫁にいくことになった。

おさよがお城へ嫁入りする日がやってきた。

迎えの籠に乗って家を出ようとしたら、
それまで静かにしていたカゲが暴れだした。

おさよはカゲをなだめ、
「わたしはお嫁にいかねばならない」というと、また大人しくなった。

仕方なく暴れないように、カゲを太い綱で木に結わえ、
おさよはかごに乗って出発した。

ところが、行列が滝不動の前に来た時、
木に結わえていたカゲが突然、狂ったように暴れだし花嫁の後を追いかけた。

滝不動の前あたりは、昔はかなり深い渕だったそうだ。
カゲがここへ着くと、おさよの乗った籠が淵の向こうに見えた。

カゲはおさよの乗った籠をめがけて渕を飛び越そうとしたが、
渕へどぼーんと落ちてしまった。

これをみたおさよは、籠から飛びだしカゲの後を追うようにして渕の中へ飛び込んだ。
名馬カゲとおさよはこの渕深くに沈み、再び浮かびあがってくることはなかった。

多くの里人はこの知らせを聞いて、大変悲しんだ。
こうしてこの渕は「駒ヶ渕」とよばれるようになった。

 

 

※鶯沢の山の神楽

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オシラサマと同じような話が伝わっていました。

馬の名前の「カゲ」は、
蚕影(こかげ)から由来しているかもしれないですね~。

 

 

 

サンカに興味がある方は

五木寛之著「風の王国」が、おすすめです(小説)

 

 

秩父の大血川がでてきますが、

太陽寺の方です。(三峰)

 

飯能~吾野~秩父地方には、実際、サンカはおりました。

二股になっている川の丘に住む傾向があるようです。


丹党一族の中の氏族が「東北出身」であり、
かつ騎馬民族(渡来系)の王族だとしたら、
サンカ説は適当な話でもなく・・・

騎馬民族とは、織物と車輪(馬車)を象徴とし、
生駒氏(二ギハヤヒを祖)の家紋があるように、
車輪を家紋とする者は、中東の方からでしょうね。

ということで、6月14日がもうすぐなので、
栗駒の話がまだ続くのかどうか・・・

ひとまず、おしまい。