ずっと前から気になっていたお寺に、
やっと行けました。

 



7月だったと思いますが、
地元の歴史研究の方からこちらの本をすすめられました。

『関場鏡・足立風土聞老誌』

 

 

村田町資料館にあるよ、と教えてくれて、
あつがし合戦の話が書かれているらしい。

とても興味がある「藤原国衡」
買ってみることにしました。

 



ですが、中身は漢字のみ・・・
古い漢文とかではないので、なんとか読めそう。



この本を読んだ日の晩、
とっても不思議な霊夢をみてしまいました。真顔
けっこう、リアルな物語。

こんな風に立派なお坊さんが登場してきました。

黄色の袈裟をきていた人。

 



内容は言えませんが、
そんなもんだから、すっごい気になるけど、
なかなか行けず。

まあ、夏の暑い日でもあり、
涼しくなったら行こうと思っていたら、

もう寒くなっていた・・・。


一人じゃ無理ぽ、な雰囲気をかもしていたので、
主人をつれて行ってきました。笑

 

に、してもネットで北条氏(北朝)をぐぐったら、
この絵がやばい。


※英雄百首より
(『源平盛衰記』巻20に見える
八牧(山木)兼隆を討ったときの歌)

家紋が鱗紋の北条氏ですが・・・


ああ!
今思いだした。

前にみた夢。
岩に書かれた△マークを思いだした。

そうなのよ~、

ここ最近、全く関心がなかった北条氏が

ぼやっと現れるようになってきたんよ~。

 

母方の先祖が

立派なお坊さんだったと聞き、

北条氏の城に仕えていた。

む~ん、
どういう意味かな。



でも、実際いくと良いのです。
天気がよくてぽかぽか。



お寺には、住職の奥様でしょうか、
まるで私たちを待っていたかのように、
すぐ中にいらっしゃいました。

横穴は見られるのかたずねてみましたが、
ちょっとわからない様子でしたが、
行く道を教えてくれました。


そしてこれを見せて頂き、
「ここは奥州藤原氏で藤原秀衡の時」と教えてくれました。

 



『吾妻鏡』に登場するお寺で、
第二の平泉と称されたほどにぎやかな所だったと。



 

無畏山霊感寺について

 

関場鏡から抜粋。

最初は、天地開闢のことが書かれてます。

『旧事本記』によると古くは、柴田町は
「思田」又の名は、之波太、志羽多、芝田、柴田など。

思田は、古い呼び名。

中世は、柴田は「名取郡」に属していたので、
「名取」が「第二の平泉」と言われるわけです。

名取熊野三社の高舘山もそうで、
奥州藤原氏とは、深く関係しています。

「関場」という所は、昔「高城郷」と言われた。

今は、高木屋敷だけ残り、
いつの時代か、高城から高木に変わっている。

「無畏山」という名前からして何かありそうな、
この山のお寺は、天台宗です。

看板より、

 



龍泉寺から愛宕山古墳にかけてかつて古代末期
から中世にかけて栄えた「無畏山霊感寺」という
大きな寺院があった。

多くの堂塔があったと言い伝えがありも、
寺跡がどこにあったかは、よくわかっていません。

資料も非常に少なく、梵鐘の拓本が唯一のものと。

(東京国立博物館に所蔵)

拓本はこちらの写真。

 



「奥州柴田郡高木郷
無畏山霊感寺大鐘
住持比丘得秀 
旦那沙弥真木
慶安甲寅卯月日」


南北朝時代、1374年に作られた拓本で、
銘文には梵鐘を寄進した「真季(まき)」と
住職と思われる「得秀(とくしゅう)」の人物名がある。
またこの付近が、中世「高木郷」と呼ばれていた。

 

 

 

『関場鏡』によれば、
火災の時に鐘も破損したため、
伊具郡角田にある鋳物師に
相談をしていた。

その破損した鐘を供養のために調べると、
金銀類を施入しているため、
名鐘であるとわかったという。

ただ、天保大飢饉の時に
盗難にあい、実物が行方知らず?


説によれば、青葉神社にあるとか。


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「横穴古墳群」

雷神山古墳が一番、東北で大きいのですが、
3番目に大きい前方後円墳。

 



ここで発掘された埴輪は、東北地方では
最も古いとの事。


今は、森があるだけで何もありません。
神社の裏にあたります。

 

 

 

神明社に祀られている人物は?

 

お寺の上に、「神明社」がありますので

行ってみました。

 

お墓を通ることになるので、声をかけて行って下さい。

(下から神社へいくこともできます)

 

 

 

階段をのぼっていくと、山の中に入ります。

 

 

 

 

神社に掲げられた人物絵図。

 

 

文字がよめませーん。

 

 

 

大きな杉の木がありました。

 

 

この奥に、愛宕山古墳の横穴が眠っています。

 

 

主人が行ってみたけど、何もなかったと。

ここまでで行くのはやめました。

 

 

 

「関場鏡」は語る

 

『関場鏡』から興味深いところを抜粋します。

このお寺は「聖観音」が祀られていました。
聖(しょう)観音は、出羽三山羽黒の本地仏と言われます。

名取の熊野は、千手観音です。
名取高舘山はかつては羽黒の修験場と考えられ、
村田~志賀~名取と流れている。

女性の信仰の場として存在する志賀の岩蔵寺があり、
村田町(菅生)を越えると、ここの関場にあたるわけです。

韮神山合戦(藤原泰衡側)に一味した僧侶が、
霊感寺を兵糧場(ひょうろう)としました。

※軍隊の食糧

韮神山合戦で源氏に負け、
鎌倉勢がおしよせる際に、
数多くの僧侶がこの霊感寺に籠り、
鎌倉軍と防戦したという。

 



お寺は焼かれ、聖観音像は、
畑の中に埋められた。

跡形もなく廃寺になった関場には、
「寺坂」という地名だけが残される。

塔ヶ崎に和田屋敷があったというので、
和田氏(和田義盛関係)でしょうか。
(名取郡を領した)

 



ちなみに、

嘉吉年間(1441年?1444年)に合戦に敗れた小山九郎業朝が
下野国小山から一族を率いて村田に住み、
村田氏を称したのが始まりとされる。


主人が栃木県出身なので、
連れて行って良かったです。

本人は、全く気にしてませんが、
どれだけ下野国が、東北にやってきているか・・・
うちは秩父平家らしいし。

ところで、この大きな八幡神の石碑をみて、

源頼義(or義家)の匂いがします・・・

 



絶対きてる~~っ

帰りにたちよったこれも。

「若宮八幡神社」

 

 



主人が気になるというので寄ってみました。

 



由来を調べてみると、「源頼義」勧請と。
(明治時代創建)

 



 

 

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再び、神明社に戻りますが、

この雷神の碑も気になる。


そういえば、雷神の石碑や高木のことから
思いだすことがあります。

 

こことよく似ていると思った。

 

 
若宮八幡にあった天照大神の立派な石碑。
 
 
それと、神明社の雷神に菊紋様
 
 
朱塗だったのかもー。
 
 
源義経、と
 
伊具十郎(平永衡)が浮かぶ。
 
八竜城跡のこと。
どこか空気が似ているな~。
 
 


ずっと前に読んだ本ですが、七ツ森にいた首長が、
蔵王麓に移りすんだという伝説がある。

「新みちのく古代史紀行-七つ森は語る」 
(只野信男)より。

 

 

ここもたくさんの古墳群があるのですが、
「高木遺跡」とあったのね。

 

図をみると、関場付近に「首長の墓」とあった。

この書によれば、元は、七ツ森にいた首長だという。

「荒川」という川名。


 

 

 

下から登る入口の神明社。

 

 

 

 

まだ、ある!
『関場鏡』の不思議な伝説。

「三日月の化粧をした異人」とは・・・

 



つづいてしまう。