五ノ宮嶽登山からの帰り、
時間があったので、大湯ストーンサークルへいってきました。

 



始めてここを訪れた時は、
熊の出没が多くて入れませんでした。

 



やっと、近くまで見ることができたー。

 

 

 



以前から、靄山(もややま)や茂谷山という山名
気になり、このあたり多い山名なのです。

 

十三湖の靄山、藤里町の茂谷、
田沢湖の南にある靄森山、
八峰町の母谷山、
八甲田北部にある雲谷山など。

 

その時、こんな妄想をしてました。

 

 

鹿角が大体、中心にあると思ったから。

 

 

 

 

茂谷山に日が沈む。

 

 

 

 

春分日と結ばれる茂谷山は、岩木山にも繋がる。

大湯ストーンサークルの石は、
安久谷川を使い、青緑石にこだわっているそうです。


八郎太郎は、夏の陽を司る。
辰子姫は、冬の陰を司る。

 

そんなストーンサークルが多い

八幡平周辺に、上毛野田道将軍の終焉地(埋葬)が伝わっています。



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資料館があるのですが、

すべて縄文土器は本物で、

とても薄いのが特徴。

 

こんなに薄い土器を作ることは、

技術的にとても難しいと言われる。

 

 

蛇紋様が特徴の縄文土器。

そんな蛇に関する将軍の伝説を。

 

鹿角の猿賀神社
 

田道将軍は、
過去にもたくさん書いてきました。

この方の話もたくさんありますよ!

途中、Nさんが猿賀神社に気づいてくれて、
(私は反対側に乗っていたので)

すっかり忘れてました。。。

 


帰りに田道将軍を祀る猿賀神社へ
訪れることができました。

 



たみっちゃんのことは、
いっぱい書いてきました。

親しみを込めて、たみっちゃんと呼びたくなるけど(←勝手に呼んでる)
wikiで紹介されているたみっちゃんは、つよそー。

上毛野田道

 

弓をいつも持っていたそうだ。

 



【御祭神】

猿田彦命、
田道将軍、
天宇都女命




「社伝によれば、元亀3年申年5月に申ヶ野・五軒屋村にて創建したとされる。

また、仁徳天皇55年に蝦夷の討賊に来た

田道将軍の遺骸を葬った処に

建立されたものとも考証されている。

青森県の大社、猿賀神社は、
この鹿角からご神体が

流れついたものを祀ったとも伝えられている。

明治44年字申ヶ平八幡神社、

同45年字沢尻八幡神社を合併する。」

詳しいところまでわかりませんが、

青森県にも立派な猿賀神社があります。

 

田道将軍の伝説

 

簡単に説明。

百済系。

遠祖は、荒田別(あらたわけ)という人。

荒田別は、新羅征伐の時に、
百済にいた王仁(和邇)を連れて帰って来た人。

神功皇后側にいた。

 

(将軍田道の碑)

エミシ征伐に狩りだされたのですが、エミシによって殺される。
亡くなった場所は、伊峙水門(いしのみと)といわれ、
千葉県と石巻の説がある。

 



後に坂上田村麻呂が、田道将軍の後を継承するようになる。

兄の竹葉瀬は、白鹿を得て天皇に献上した後、 
朝鮮出兵した話しがある。
(白鹿は人物とみる=捕虜)

『仁徳55年、蝦夷が反乱を起すと田道が遣わされるが
敗れ伊峙水門(いしのみと)で戦死した。

 従者は田道が手に巻いていた遺品の玉を妻に与えた。 
妻は悲しみ縊死した。

 後に蝦夷が田道の墓を掘り起こすと、
 その中から大蛇が現れ次々と噛み付きほとんどの
者が死亡したという。 』

 

※田道将軍戦?之地

 

 

電気の灯りで反射してうつったのが、勾玉みたい。

 

伝説の玉は、翡翠?

 

最初にこの伝説を聞いたとき、
エジプトみたいだな~と思ったのです。

エジプトのファラオ並みな感覚。

死と再生の儀式のような。。。 

もーそう。

墓を荒らすのではなく、
あばく、という意味に置き換えるならば、

再生したいほどの、田道将軍が
どんな人だったのか、気になります。

 

 

 

津軽の猿賀神社

 

 

青森の猿賀神社とは、
50キロくらいなので、そんなに遠くはなかった。

 



津軽の猿賀神社由縁より

伝説は同じですが、ちょっと細かいうえに、

亡くなっていない・・・?

『日本書紀』より田道命は
「仁徳天皇五十五年(西暦三六七年)勅命を受けて
北夷の反乱平定のため東北地方に兵を進めたが、
戦利あらず、伊寺の水門で戦死なさる。

後に大蛇の姿となって平定した」とある。

又社伝によれば「五十六年蝦夷の毒手に敗死なされ、
従者その屍を仮葬し、賊を捨て帰京す。

蝦夷その墳墓をあばくに、
たちまち遺体大蛇と化して毒気を吐発す。

土人大いにおそれて鹿角郡猿賀野に祀って産土神となす。

その後、二百年の星霜を経て、
欽明天皇二十八年(五六七年)

に大洪水あり。

この時、田道命の神霊、

白馬にまたがり漂木を

舟として流れにしたがい、
当地に移遷し給う、当地住民神霊を
迎え奉て古木(鍋木)の洞穴に祀る」

と、云われている。


なかなか興味深い伝説です。

御神体がなんだかわかりませんけど、
「川を使って何かが流れついた」感じがします。


「大洪水」

「田道命の神霊、白馬にまたがり」


なるほど~。

だから、猿田彦命を祀るのですよ。

まるで秦氏が、自分がそうである!と言いたいように。

白髭の神は、猿田彦命と同一にされているけど、

不老不死の徐福が、
それは私の姿である!と言いたいように聞こえる。

神社の由縁はこちらを。

 

 



それに「深砂大権現(しんじゃだいおう)」となっている。

蛇王といわれますが、よくわからないモノです。

日光にもあるのですが、
「辰砂」ではないかな~。

「砂」を漢字につかっているし。

「大同二年(八〇七年)八月十五日社殿を造営、
奥州猿賀山深砂大権現として勧請し、
神威天長、国家安穏、黎民豊楽、悪鬼退散を祈願した。

以来猿賀の深砂宮(神蛇宮)と崇められた。」

 

そうそう、丹党は、蛇族なんだって。

 

 

鹿角に埋葬された理由はなんだろう?

縄文の地だったから?

 

渡来だけど、縄文の末裔ってことも、

十分ありえるよ。

 

 

十和田の方々によって建てられてました。

 

 

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朱色は辰砂(水銀)を使って色を出してました。
水銀は、各地の古墳に多く見つかっています。

水銀の川ができているという
秦の始皇帝の墓場もそうだし、

クレオパトラも水銀を使って
化粧をしていたなど。

エジプトはミイラが有名ですが、
遺体の腐敗を防ぐために水銀を用いています。

水銀を飲むのは毒ですが、
解毒作用があるため、薬として用いられていました。

それを徐福ら大集団が日本にもたらした
風習というか、エジプトから影響されているのでしょう。

縄文時代でも「水銀朱」が見つかっています。
徐福の子孫は、元は、縄文人だったかもしれない。

だから、徳島県!!

 

 



縄文人は強かったらしい。

大和民族は、おとなしい。

 

 

 

帰化人(もとは日本に住んでいた)

人が多いため、日本の皇室にも長い間、

仕えていたことがある渡来人。

 


で、伝説を紐解くと、
田道将軍は白髭神になったのか?

洪水を意図していることはあります。
けっこう、このような話は多いです。


白髭神と洪水のことが、
またここで繋がる。

「鹿角の神々の争い」伝説を紹介しておきます。

 

 

クロマンタ。指差し

 

つづく。

 

※宮城県にも伝わる田道将軍

 

 

 

こちらも読んでみてね。

石巻の上毛野田道伝説