やっと念願かなって五の宮岳
登ることができました!

どれだけの思いを温めてきたことか。
感無量。虹


 

登山の話の前に、まず、鹿角(かづの)とのご縁を
説明しておかないと、よくわからないと思いますので。

書くことたくさん。

 

鹿角への道

 

まずは、歩き方。

盛岡駅から秋田行きがおすすめ。

西口がバスのりば。

 

 

 

 

 

 

岩手山がみえました~。

岩手山をみてからの出発が安心する。

 



盛岡駅から「みちのく号」(高速バス)で、
1時間20分くらいで「花輪駅」に到着。

 

観光案内所

 

 

 


花輪駅のひとつ前、
道の駅(あんとらあ)には、
レンタルサイクルもあるよ~。

無料!笑


観光案内所も!

 



さて、そんな鹿角ですが、
どこですか?
ってなりますよね。(岩手にちかい)

 



八幡平の方で、
縄文の大湯環状列石がある所です~。

 



そんな所に繋がるご縁が不思議です。

 

鹿角市について

 

古くは鹿角ではなく、
「上津野」と表記していました。

上の(神)の津です。

海なのです。
(なぜ、鹿にしたのかは、わかりません)

 



花輪盆地には、花輪・十和田の市街地が形成され、
稲作やリンゴ栽培が盛んな地区も、この付近である。

主な山々だけでも八幡平、五ノ宮嶽、
秋田焼山、三ノ岳、三方高、四角岳、
中岳、八森、山毛森、
十和利山など多数の山々が存在する。

温泉もたくさん。

「焼山」という山があるように、
市内の所々に地熱地帯が存在しているため。

「後生掛温泉(ごしょうがけおんせん)」

は行ったことがないけど、

『登喜盛(ときもり)長者屋敷物語』に、

アテルイの生まれ変わりといわれた
若い族長と称されていた人がいた。

悪路王ともよばれ、朝廷軍と戦った時、

逃亡の後を大和がつけていたので
後生掛温泉あたりで追いつかれ全滅となったそうだ。

 



後生掛の地名由来は、
登喜盛一族が大和の追手に近づいたことを察知し、
聖山モッコ岳の神に向かって、
「後生(来世)」の祈りをささげた所と伝わる。

 

 

鹿角とのご縁

 

しばし、エピソード談話を。

 

Nさんは仙台に住んでいますが、
たまに山いったり
フィールドワークしたりして、
一緒に遊んでくれます~。UFO


出会いは、じょーもん。指差し

青森の柴谷さんと一緒につくった
小さな縄文土偶。

 

Rさんが声をかけてくれて、

Nさんを紹介してくれました。

有難いご縁を繋いでくれているのは、
このブログのおかげ。

そのイベントで、初めてNさんに会い、
実家が「安保なんです」と言われた時に、

ええっ!と何かの衝撃を受け、

「その節はお世話になりました」

と、武士みたいなやつ
口から出てきた。

以前から、
「横瀬の安保氏」のことを書いていたからです。

まさか、私のふるさとから
鹿角が繋がっていたなんて~。

そんなことが起きたのは、
6年も前のこと。

---------------------

鎌倉時代、横瀬を治めていた横瀬氏の
祖先が、安保氏でした。

(秩父郡横瀬郷)

 

※安保領家(泰実・光泰系)所領

また、Nさんの系譜に横瀬の名があったらしい。
驚き!

なので、今回、初のご実家探訪となり、
秩父錦の酒と「しゃくしな」を携えて(笑)
の鎮魂登山となったわけです。

 

 

秩父といえば・・・

このセットがおすすめ。飛び出すハート

やっぱ、秩父錦うまい!!


Nさんのお家で夕飯までごちそうになり、

山頂でのお昼は、おいしいおにぎりを頂く。


宿泊先では、のほほ~ん秋田の温泉に浸り、
またもや、お世話になってしまいました。てへぺろ

ちなみに、私の実家の家系は、
丹党ではないので、直接の関係はないのですが、


うちの先祖は、約300年前に名主になるために

横瀬に移りすんできたので、
責任感は強いのです。真顔 ←ガチ

また、Nさんのお母様は歴史が好きで、
大里周辺をいろいろ案内して下さいました。
それも後で書いておきます。

 

 

乳銀杏が繋いだこと

 

まず、簡単に概要を説明。

五の宮岳については、後で記録しておきますが、
興味をもった理由は、皇子伝説。


継体天皇の五番目の皇子五の宮岳
入ったきり帰ってこなかった伝説の山です。


山頂には皇子を祀り
母は吉祥姫の「たらちね」であった。

 

 

乳銀杏がお寺に保存されています。

 

この伝説を知ったのは、何年も前で、

なんとなく実話じゃないか、と思っていて。

 

継体天皇はとても古いので、

時代が定かではないが、後に書かれたものであったとしても、

とても気になっていたら、Nさんも同じ心境だった。
 

ふと、

銀杏の秩父を思うのです。

チチブヒコの墓と伝わる所に
植えられているのも、大銀杏なのです。

 



秩父の地名由来も「乳銀杏」説があり、
古来は、「チチフ」と呼んでいた。
(昔は濁らない)

 

※国神の銀杏(秩父)

 



※秩父神社境内の乳銀杏。

------------------------

大里城跡(本丸)のある所が、
ご先祖様のお墓があるそうです。

 

Nさんが、秩父錦をもってお墓参りを

してくれました。(ありがとう!)

 

 

 

Nさんは、ご先祖様に対する思いや愛が深いです。

先祖を大事にする人は、その土地も大事にします。

 

だから、実現できたことです。

当然、私ひとりで出来ることではなかった。

 


この看板に登場する「大里修里親基(おおさとしゅうしちかもと)」
の子孫をたどると大里の鹿角安保氏系譜は、
武蔵七党のひとつ「丹党」で、

その父:綱房は後の「新里恒房」と名乗った。

 



また、大里修里親基(祖父)の系譜には、
秩父基房の名がある。


他、一族の系譜の中に、
加治、白鳥などのタタラ由来の名もあった。

鹿角四頭(かづのしとう)とは、

成田氏、奈良氏、安保氏、秋元氏。

鎌倉時代に地頭として、
現在の秋田県北東部にあたる


陸奥国鹿角郡に入部した
鎌倉武士団庶流の国人衆である。


成田氏は、武蔵国埼西郡(さきい)成田郷を本拠とした
崎西郡司の武藤道宗の長子 助高が成田氏を、
三子 高長が奈良氏を称した。

安保(阿保)氏武蔵国賀美郡阿保郷を本拠として、
この三氏は同族であった。(wikipedia)


鎌倉時代、横瀬郷に領土を得た安保氏は
横瀬氏に名を変え、
他の安保氏は鹿角安保氏となった。

 

 

武甲山がよくみえるこのあたり棚田に居を構えていたそうだ。

ここも縄文遺跡が見つかっています。

 

ただし、長い間住んではいなかったと思われる。


だが、内乱で九戸政実、大里修理も、
南部藩(現:盛岡)に処刑されている。


そのお墓は、なぜか、宮城県の栗原に眠っている。

 



鎮魂しきれないことが、
秋田にはたくさんあるのです。

 

 

九州の銀杏

 

登山当日の朝、ニュースで九州で

少し大きめの地震があり、

 

「大隅」の文字がみえた。

 

特に揺れた所が「宮崎県日南市」

かつての大隅国。

九州の卑弥呼発祥説がある。

 

Nさんの母方のご先祖様は、九州なのです。

 

日南市に、「宮浦神社」という有名な神社があり、
神武天皇ゆかりの場所と伝わる。
 

この宮浦宮に2本の銀杏があり、
「神武天皇が東征に出発するときに
記念として自ら植樹した」
と伝わる。(画像下)

 

 

現在は、その伝承を重んじて代々、植えているそうです。

 

その大隅の大塚古墳群に「秩父彦」を祀るよう命じたのは、
畠山重忠。

秩父彦と大隅、そこに符号する「銀杏」

 

秩父に祀られている若御子神社。

「若皇子鼻」は故事からつけられた神武天皇の幼少期の名前。

 

 

この神社がある所は、

「ブラタモリ」でも紹介されたチャートがある所。

 

九州、宮浦神社の由縁にも、「若尊鼻」という岬がある。

 

秩父は、丹生郡比売命を祀る神社がとても多い。
丹党は、丹生(水銀)だから。

 

大隅古墳に「水銀の石室」があったという。

天皇一族は、日本の資源を求めて
開拓をしていたことがわかる。

鉱脈ルートをたどって。

地震の揺れで、それが繋がったことでした。

 

 

思いをのせて達成感を極めた山

 

ということで、長い先祖の歴史をたどると

「金」にあたる。

 

 

武蔵七党は、なぜ、鹿角へいったか?

「丹生の金を求めて」

に、決まっている。

秋田は炭鉱がとても多く金採掘をしていた
「尾去沢炭鉱」があります。(矢印の崩れているところ)

 

 

上からみると、その広大さがよくわかります。

東洋一とも称され、とてつもないほどの穴を掘っている。
(これも後で記録します)

 

 

 



どれだけ武蔵が掘り尽くしてきたことか・・・

 



でも、ここではみんな優しく
受け入れてくれるのです。


登山ガイドを勤めてくれたのが、
阿部さんでした。

 

互いに敵どうしであったかもしれない。

あの時、いろいろあったけど、
今は、こうして皆で一つの達成感を極めた山になったのです。

 


それが「五の宮岳」であったこと。

素晴らしい山であることに、
間違いありません。

 



喜びの先祖供養なのでした。照れ

 

詳しいことは、また後で
まとめておきます~。

 



次は、五の宮登山へGO!コアラ