先日、秩父と東京、一関から
仲間が遊びにきてくれたので、

石巻方面を案内してきました。

途中、染殿神社へよったら、
赤沼に大きな蓮が

咲いていて、

みんな、大きい蓮だね!と
大喜び。

 



こんな風にみせてくれる染殿明神に感謝です。

 

 

 

 

 



さて、2019年の10月に訪れたのですが、
まとめておきます。(gooからどんどん移動)

この神社との出会いもいろいろありました。

ご祭神に「戸辺」の名があるのですが、
なぜ、トベとトジにしているのか、わかりません。

 



ここに戸辺がいたとしたら、
後からきた藤原家が、宮廷の文化をもってきた
ようにも思う。

2019年の秋に、ナグサトベの著者である
なかひらまいさんが、
名取老女とのコラボ談話のイベントで仙台にきており、

そのイベントの数日前に
「マキメ」との関連がある
染殿神社を調べるためにたちよったのです。

それで、戸辺の名があったのには、
驚きました。

いつも、そういうタイミングで繋がることが、
驚きなのですが。

 

 

ラーメン屋の看板が目印。

こーいうとこが、宮城。

 

 

  染殿神社の由来

 

『仁寿年間(850年頃)、摂政公の姫君が、
わけあって世隠れの身となり身重の体で、


 はるばる旅枕を重ねてこの地にたどりつき、
里人に一夜の宿をと申し出られました。

里人たちは身につけている衣装はきらびやかで、
頭髪には宝冠が光っていて、
あまりにも身分が高い様子に返事も出来ませんでしたが、
ある老夫婦のはからいで、


近くの経塚のお堂にて一夜の宿を借り、
その晩急に産気づき、玉のような女の子を 無事安産しました。

 



実は、この姫君は文徳天皇の后という身分で、
この赤ん坊は清和天皇の妹君の 儀子内親王でした。

その後里人たちの情けで、
ささやかながらも雨露をしのげるような日当たりの良い処 
に草葺の仮屋を作ってもらい、


そして朝な夕な食物をみつぎ、
おかげで赤ん坊はすくすくと育ちました。

姫君は里人の深い愛情に心から感謝し、
京で習い覚えた手芸、手習いの文字などを教え、


そればかりでなく着物にする布の染め方などを
里の若い娘たちに授けるようになりました。

 



それは、この山近くに野生する「刈安草」
材料として色々な色彩まで出すと言う全く女神のような姫君で、
里の娘たちはみな喜んで教えを受けました。

やがて、二年も過ぎ、赤ん坊もよろよろ一人歩き
をするまでに育った頃、 姫君は都へ帰るときとなり、


はるかに京へ旅立たれるその後姿を見送り、 
里人たちはみな涙を流したといいます。

のちにこれらの事を振りかえり、
あの姫君の教えは神様の教えであったと里人たちは感激し、
その御霊をこの地に祀ったのが
この染殿神社であると伝えられています。』

 

 

神社の建築が、珍しい飛騨高山にあるような

合掌造りだそうです。

 

  刈安草

 

「染」とあるように、
染殿神社は近世まで「刈安明神」又は
「染草明神」
などとも 呼ばれていたそうです。

「刈安草」とは、イネ科の植物で、茎や葉を乾燥させ、 
煮詰めると黄色い染料となるので、
キハダと並ぶ古代からの黄色の染料の代表の一つ。

八丈の染料になる コブナグサ の別名もカリヤスですが、
刈安草が本家です。

良く似たものに ノガリヤス 、
 キリシマノガリヤス があります。
 (「四季の山野草」より)

カリヤスの黄色色素はフラボンといい、
紫外線から細胞を守る目的で植物が生成するものである。
産地としては滋賀県の伊吹山が古より名高い。

 

こちらに刈安の染色がみられます。

 

 



三陸自動車道の近く

 



面影残す道

看板にあるように、

赤沼大明神(大戸辺命、太苫辺命)
 太苫辺命を「弟」としているのは謎です。

トベ研究の津名道代氏によれば、

 「大戸辺命」も「太苫辺命」も漢字が違うだけで
「オオトノベ」と読むのですが、

『日本書記』によると、
「大戸之道尊」(一に云ふ大戸之辺)・大苫辺尊」とある。

 男神の異称は「大戸之道」の「道」となり
「オオトノヂ」や「チ」という読み方をする。

大戸之辺命の「之」がつくと、
「トベの在る」意味になる。


『古事記』では、「別天神御五柱」に次いで、
「神世七代」の神々の名 が記されているが、

そのなかに、
『次に意富斗能地(オオトノヂ)の神、
 妹・大斗乃(オトトノベ)の神』と、
男女一対の形で登場している。

神世七代は、他に、

ウヒヂニ・(妹)スヒヂニ=泥
 ツノグヒ・(妹)イクグヒ=具体的生命
オホトノヂ・(妹)オオトノベ=男女
オモダル・(妹)アヤカシコネ=会話
イザナキ・(妹)イザナミ=誘い

※『トベ達の悲歌』津名道代著より

しかし、赤沼大明神について、
『利府町誌』によれば、

明治維新に、
中山屋敷の組頭によって祀られた
塩釜神社別当の法蓮寺(相応院)によると。

 

※赤沼

 『赤沼明神:塩釜の末社。
赤沼郷の鎮守で染殿明神とも呼ばれる。

このお寺も天台宗だった。

 

辰砂の赤=丹生ですね。

気になるのは「赤」の地名。
とても多いです。

悪玉のアクは、アカ=閼伽ではないかな~。

いろいろ妄想できる赤ですが、
女性の象徴でもありますしね。

赤沼とは、多賀城の瓦を作るために掘った人工的な沼であり、
赤は鉄分を多く含んだ土とも言われます。

このあたり、関東系横穴石室も多いです。

垂水は瀧との事。

 

垂水ダムが名取にありますが、
あの場所も、安倍貞任の伝承がありますね。


いろいろ地元の方から、
コメントで教えてもらいました。



塩釜神社に近いので、
利府にもいろいろ伝説があります。

悪玉姫と塩釜さま。

なんかあるね~。


オオトノヂとオオトノベは、
最初の男女対偶神としている
ので、

坂上田村麻呂と悪玉姫の男女像を牧山に祀っているのも、
古い男女神となりそうです。

  

 

※零羊崎神社にある坂上田村麻呂像と、
木造悪玉御前坐像(室町時代):石巻文化財だより
 


古来の母系社会から律令制度が崩壊されると、
長→庄と名乗る。

荘園地の支配化になると、
長のいるムラの概念はなくなり、 
土地の権利をもつのは、有力な寺院に代わります。

豪族の長の妻が住んでいた
マキメにも関係していそうな話です。

後に、渡来した人たち(藤原家など)に
よって支配された地といえそうです。

 おそらく染殿明神は、古来の先住民が
住んでいた青麻神社があるように、
麻や楮などの植物染色・織物の技術を、

ススキなどの簡単に手に入る植物から、
日本ではあまり衣服には使わない色、
黄色を伝えたものかもしれません。

 

  田村語りの悪玉姫

 

さて、もうひとつ

宮城の九門長者として伝わる
伝説の舞台。

染殿神社には、
こんな物語の舞台になってます。

『田村三代記』によると、

これは悪玉姫が千熊丸を産む際の 血がかかって生じたものゆえ、
この明神に悪玉御前を祀ったという


産室原、悪玉が出産にあたり産屋を建てた所。

子安観音や安産祈願の守り神として伝承され、 
九門長者屋敷、悪玉の主人が住んでいたという屋敷跡や、
 乙沢の化粧坂など、
利府周辺の伝承(九門長者伝承)に関係する。


『~肌の守の十一面観音を与えて祠に子安観音と祀らせ、
 若き婦人の安産祈願とさせた。

人々は悪玉御前のお姿を木像に刻み染殿大明神と崇めた。
 今に至る赤沼村の鎮守である。



架空の人物 「坂上田村丸」をめぐる言説で
および能『田村』・室町物語『鈴鹿の物語』
『田村の草子』・奥浄瑠璃『田村三代記』

など田村文芸として結実したものを
包括的に対象としている。

 

 

※歌川国芳画『東海道五十三対 土山』 
左より鈴鹿山の鬼神、鈴鹿御前、坂上田村麻呂。

京都では清水寺の縁起や鈴鹿峠などに、

東北では「達谷西光寺の縁起」
「達谷窟毘沙門堂、

並びに「姫待が瀧」などに起源を持つ。

 

坂上田村麻呂や藤原利仁がモデルになっています。

 



姫待滝(一関)

 

滝に向かって建つ石碑たち。


なぜか、竹駒のお稲荷さんが・・・


東北に伝わる多くは、
藤原俊仁の子で幼名を臥と称した田村丸俊宗が
静御前を味方にして大武丸を退治する物語です。




『田村三代記』『田村草子』の鬼退治(坂上田村麻呂と静御前)
の中に登場する悪玉姫は、

染殿神社が産屋とありましたが、

その悪玉姫は、牧山に祀られている
悪玉御前のことだという。

その田村語りと並んで、

『田村三代記』の悪玉姫は、

立烏帽子になっており、
他の説だと、巫女、神に精通する人、山神など。

 

魔鬼女(牧山)=悪玉姫=静御前。

 



蜂子皇子とも関連づけられて、
シャーマニズな霊的能力を宿している
ことがあげられる。

出羽三山を開山した蜂子皇子は、
役小角の母、あるいは利仁の母など、
いろいろな姿になっています。

地方の伝説では、
阿久玉、飽玉、阿久多摩、阿口陀

など、いろんな呼び名があります。

この物語から、
マロの母は東北出身では?なんて憶測まで。

郡山市田村町徳定に建つ
「伝 征夷大将軍 坂上田村麻呂公 生誕の地」碑

 



う~ん・・・田村明神てなんだろうねぇ。


ちなみに、坂上家は、百済の人で「東漢人」です。

秦氏との関連もあります。

おそらく、新羅系の秦氏は「秦」、
百済族に入った秦氏は「波多」という漢字にして
区別している模様。



さて、
その悪玉姫伝承地が、
岩手県の紫波姫を筆頭に、

宮城県が最も多く、
秋田、山形、福島にも伝わっている。

なぜ、こんなに東北中に悪玉姫伝承が
ひろがっているのか・・・

でも、この物語は、藤原家が書いているので、
いったい、なぜここまで執着するのか?真顔

それには、
藤原家の内乱がある、と思う。
その背景に、皇女たちがいる。

藤原家の皇女たち。

 

※斎宮歴史博物館より

彼女たちがもたらした物語なら、
興味深いこと。

でも、皇女たちも内乱に巻き込まれて大変な時代を生きてきた。

 

そのような話は、
東松島にある「新山神社(にいやま)」で書いてますので、
参考に。

 

 

染殿神社の由来の看板から、

 

藤原良房の子に藤原明子という人がいて、
文徳天皇の女御と関係していそうですが、

実際には来ていないでしょう。

母(良房の正妻)は、「源潔姫」という。

藤原明子は染殿が里邸だったので、
染殿后と言ったそうです。

藤原明子の『恋の鬼』-今昔物語「染殿の后」が
原作の仮面劇戯曲にあるそうですが、

「鬼」の話しになっています。

村人には、
姫の教えは神様の教えであったと村人が感激し、
その御霊をこの地に祀ったのが、染殿神社と言われます。

 なお、姫は文徳天皇の皇后という御身分だったので、 
帝に変わって陸奥地方の政情視察の時の旅途中であったと。


藤原家の動乱で、逃れている藤原一族はいますので、
末裔たちが広めた物語かもしれません。

 

ということで、染殿さんはおしまい。

と、言いたいところなのですが、

やっぱり、マキメ(悪玉姫)のところへいくと、
不思議な夢をみます。

寝る前にメモを書いていると、

だいたい、不思議な夢を

みてしまうのです。

 

今回も、寝る前に考えていたから、
夢の中に登場してきました。

あれは、悪玉姫なのだろうか?

 

 

だから、また歩いてきました。

神秘的な夢だったので、
後でまとめて書いてみます。
(限定記事で)