鳥海山に降臨したのは、
二ギハヤヒと伝わります。

正式に「天照国照彦火明櫛玉饒速日命」

「天照国照彦」=光は天地にあまねき行きわたる。(領土)
「火明」=太陽神
「櫛玉」=神霊魂
「饒速日命」=豊穣、天と地の支配。

「光は天地にあまねき行きわたる」とは、


『エミシの国の女神』の菊池氏によると、

海照神と同じで天照の原型である姿。
三輪山の神であるとされる。


もと三輪山の大神(おおみわ)神社のご祭神は、
「倭大物主櫛甕玉命(ニギタマ)」といい、大物主神。

元々、ニギハヤヒは「天照」だったのが、
「神武の天孫」により「大和に寝返った」ことになる。

「和魂(にぎみたま)」とは、
大和に帰順、服属した神の比喩で、
「大物主と事代主」のことであり、帰順した酋長。

また、「荒魂(あらたま)」とは、
大和に帰順しなかった人々を差す。

つまり、大和に抵抗した神は荒魂といわれ、
アラハバキ神とよばれるようになった。

アラハバキ神は、国ゆずりの神で大国主の別名、
大己貴(オオナムチ)の荒魂とも言われる。


■物部氏と蘇我氏の対立

懐かしい、昔に買った冊子。

 


物部氏は蘇我氏に負けた後、
出羽国へ蜂子皇子を保護するために逃れていた。

阿部比羅夫遠征は、658年頃。

この頃にはすでに物部氏は、
出羽にいたようです。

「それ以前に何がおこったか」は、
歴史にもよく登場する
仏教派(蘇我氏)と神道派(物部氏)
の対立と言われます。


仏教が伝来したのは、522年、
司馬達止(しばたっと)より、
自由な礼拝だった
そうだ。

584年頃~疫病が流行ると、
仏教礼拝を天皇が認めたことに
罰があったといわれるようになる。

蘇我稲目~馬子までの間、天皇に仏教礼拝をすすめているが、
疫病がある度に、物部氏は仏像や礼拝堂を焼き払っている。

 

(東京国立博物館)

強引な物部氏の仏教排除は、
あったと考えられます。


しかし、最後は、蘇我馬子も物部守屋にも疫病にかかり、
用明天皇も疫病が原因で亡くなる。

 

※守屋大連:安田 靫彦(愛媛県美術館)

天皇が亡くなると、今まで疫病は仏教を天皇が許可したせいだ、
と言われていたのが、神道でも疫病も抑えられないとなり、
物部氏の排仏派の立場が弱くなる。

 

※菩薩半跏思惟像


587年物部守屋は舎人により殺され、
翌年588年、崇俊天皇が即位。

その後、崇俊天皇が暗殺され、

593年、丹波国の由良港から、
佐渡~出羽へ蜂子皇子が逃れる。

 

※蜂子皇子

596年蘇我馬子は法興寺を建立(飛鳥)。

 



と、ざっくりとこんな歴史になっています。

天皇を殺害した人が、「東漢人」という人で百済系です。

本拠地が奈良。

 



大阪は、西漢人だった。
なるほど~。

京都は、秦氏。

 

※蘇我馬子の系譜

いろいろな説があるのですが、
蘇我氏の娘を崇俊天皇に嫁がせているのですが、

蘇我氏の娘と東漢人とは恋仲だったので、
二人で計画した暗殺だったとの説も。

また、天皇の最初の妻が、大伴小手子です。

小手姫が、夫が蘇我氏の娘と正式に結婚してしまったので、
その恨みで殺害した?

なども・・・

ですが、「崇俊天皇の暗殺はなかった」説もあるほど、
謎が多い、というか、実際、わからない。

 

※最後の舞台が八尾。

 

大阪府八尾市にある「黄檗宗」のお寺、

最も古いお寺「梅岩寺」がある。

 

587年(用明天皇2年)聖徳太子による開基で、

日本で最も古い仏教寺院の一つと言われています。


黄檗宗なのですね。

 

隠元隆琦」が開祖した黄檗宗。

元は、聖徳太子のお寺だったとは。

 

※宇治川岸に建つ隠元隆琦上陸地の記念碑

 

鶴と亀のネストリウスです。

黄檗宗にも、大きな魚が。

玉をもっている!

 

 

そういえば、木魚と言いますね。。。

木魚の原型。

 

 

 

蘇我馬子と物部守屋の間に、秦氏(秦河勝)がいました。

 

でも、八尾市に聖徳太子がいて物部守屋の痕跡が。

本当に対立していたわけではなかったと思う。

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ところで、
崇俊天皇の息子:蜂子皇子と、
物部守屋の子(ナカヨ)が逃れる時期が重なるような。


はっきりと守屋の子が逃れた年はわからないのですが、
崇俊天皇が暗殺されたことがきっかけであれば、
蘇我馬子と物部守屋が対立していた時代です。

 


 

 



崇俊天皇の墓が有力視されているのが
「赤坂」とよぶのですね。


赤坂といえば、和邇氏の痕跡が多い
地名にあるものです。

 

この頃は、まだ「大王(おおきみ)」とよばれていた。
天皇(スメラミコト)とは呼ばれていなかったはず。

その後の「天武天皇」(大海人皇子)から、

大祓の修正や歴史の改変が行われ、
天皇とよばれるようになったといわれる。

スメラミコト=シュメールの王。

それ以前の古来の天皇の役目は、
血統ではなく「聖(ひしり)」とよばれ、

言霊のような奥儀を知っている者、
またその力を備えている人が、大王でした。

 



キリスト教では「主」とよんだ。
日本で言霊を学んでいます。

 

(飛鳥)

ユダヤとして君臨した神官は、
当時の大和では物部氏でした。(物部流の祈祷)

しかし、蘇我氏や中臣氏と共に

新しい政策をもつため、すべての祈祷、武術の秘宝など

一族で伝わるすべてを、天皇へ献上したという。

 

 

物部氏は自ら、

神官から退いたと考えられるのです。

6月の大祓祝詞にそのことがみえてくるのですが、
長くなるので、ここでは割愛。

 



■東北のアジール


なぜ、歴代の天皇家や迫害された貴族、豪族は、
東北へ逃れるのか?

ナガスネヒコの聖地だから?

環境が良かったのだと思う。
聖地としてのアジールという世界が。

 



アジールの定義は、
「統治権力が及ばない地域」

 



日本では、平泉が治外法権であり、
アジールとしての聖域があったと考えられる。

 



罪を犯しても許されるという意味合いもあるから、
源義経は平泉へ逃れたのだろう・・・

出羽や陸奥国などは、外国とみられていたので、
律令国家に及ばない地域でした。

 



物部氏の祝詞も、政治的影響を受けていない祝詞
であり、神話的要素を含む、ということから
旧約聖書のように聞こえてきます。

だから、蝦夷征伐が行われました。

その最初の「鎮守府将軍」として出羽と陸奥の
道を繋いで、柵を設けてきたのは、
「大野東人」でした。

 



「鎮守」というのですが、
軍政を司る役所のこと。

それが修験の派閥に関わることで、東北に
熊野の瀧神をもってきたのは、大野東人の命で、
行われたことでした。

 



穂積氏の祖が、二ギハヤヒですから、
瀬織津姫をもってきたかったのでしょうか・・・

でも、私には妹を連れて逃れた兄がいるから、
「三炊屋媛」の存在を感じます。

 




出羽三山の開祖時期を考えると、
その前は大和に対抗した人たちがおり、


その後に蘇我氏に敗戦した人々が逃れた
アジールの世界は、

鴨家が引き継いでいたと思います。

 


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蘇我氏は強引に仏法を人々に、
順守させたわけではなかったのです。

単に、自分の礼拝を持ちたかっただけと思います。

物部氏が天皇家の礼拝が仏教になると立ち場が危うくなるから、
案の定?疫病が流行ると
「それみたことか!」と、焼き払うのである。

結局、どちらも疫病が流行り、
神も仏もないとようやくわかったところで・・・。

蘇我氏は天皇の許可だけはちゃんと
認めてもうらよう計らっていたことがわかる。

蘇我稲目がなくなった後も信頼を得るために、
行政や財務に力を入れる。


物部氏は軍事の方が得意で

神官だったから、
蘇我氏のようにはうまくいかなかった。


しかし、蘇我氏も藤原政権により
迫害されていきます。

 



■スピリットの時代へ

「物部文書」より、
「虫おさえ」という癇(カン)の強い子の法というのがある。

天の巡りの渦巻き状を書くのだが、
かなりシャーマニズムで宇宙の運行と人間の体の
巡りあわせの融合をあらわしている。

魂が星の運行からぶれると病気をする(精神的な病気)。
それは魂の分離でもある。


そのようなスピリットが受け入れられない時代がやってくる。

時代が変わり人口が増えると、
争うことより邑の長に自然を委ねてきたのが、
国家として「ひと括り」にするリーダが必要になってくる。

蘇我氏、藤原氏などはその時代に乗れたのだが、
物部氏は長く古い原始シャーマニズムの掟にずっと
執着してきたのかもしれない。

東北は北方と南方の民族が融合している。
西洋も東洋も交っている。

秋田湾を眺めていると、

混沌とした世界が浮かびます。

 



まだ地が固まらない
中津国のようなフツフツとした世界。

物部氏は「もののふ」のまま、
混沌と浮上することなく、
またぼんやりとかき消されてしまう。



■豊饒の夢

不思議な夢を、昨晩みました。

とても広い田んぼがみえて、
もう稲の収穫をしてました。

 



トラクターが5台くら稲を刈り取っていて、
大きな稲刈り機のようなものが、
ぐわんぐわん機械音をたてていて。

物部氏は、東北へ逃れて農民として
細々と暮らしていました。

 



一部の物部は、争いを好んでいましたが。


「鳥見の里を治めるようになった饒速日尊は、
水が豊かで稲作に適したこの土地に水田を拓き、
大きな実りをもたらすようになった。」

 



「物部氏の大祓」と「延喜式」に違いがあり

物部氏の大祓は、「豊葦原の水穂国」とあります。

水穂とは、「稲穂が実る意味」で、
国家的祭祀の稲を結びつけるものです。

物部氏は、「豊葦原の水穂国」と、
統治の地を稲穂の実る国と設定している。


しかし、「延喜式」では、その部分が
「大倭日高見の国を安国」とあり、

大和朝廷は、日高見国を平定することを
前提とし、朝廷が律令国家の中心にしている事。


だから、

東北が、いつまでも豊饒であることを

願う物部氏がいたと思う。

 



世界中の熱波と食糧難。

でも、豊饒は約束されるでしょう。

長々とありがとうございました。