衝撃の事件を越えて、
またひとつ後世に語られる歴史が
増えていくのですね・・・

(なぜ奈良に?)

さて、風化させないために、
コツコツと記録していきます。

■先祖は語る

Мさんとは、昨年秋のお彼岸の初日に会いました。

出身が、会津若松の旧家の方でした。

私のブログの多くは、
ご先祖様のことを調べてくる人がほとんどです。

「Мさんを通して」
会津のご先祖様が、まるで、かけこみ寺のように
私のブログにアクセスしてきました。

「わたしの話も聞いてくれ」と。
夢に。

一生けん命、夢の中で傾聴してました。

とても疲れたのですが、
最後に現れたのが、暗闇からの虹でした。

最初は、母方の方の阿仁で秋田物部氏と思っていました。
会津と阿仁地方とは、すごいな~と思っていましたけど。

あることがきっかけで、
Мさんもご先祖様のことについて調べるようになったそうですが、
それが会津でした。


しかも、仙台の住んでいるところが、
お互いにご近所だったのです!
これには驚き。

今は、Мさんもブログで会津の歴史を書いており、
吐き出せるようになって随分楽になったそうです。


その後、いろいろ不思議なことがあり、
嬉しい(小さな)奇跡の連続で、

ぜひ、会津若松へ御礼参りをしたいと思い、
先週、法事の帰りに行ってきたわけです。


しかし、今回のこの偶然は、またもや
予定外でした。


■滝沢本陣について
 

この時代の歴史はよくわかりませんので、

Mさんの、お話(語りべ)からまとめます。


実は、目的は、違うところでしたが、
途中で、またもや、主人が気づく。

何かあるよ!と。

ふと横をみたら、「滝沢本陣」

 



なんと、Мさんのすぐそばの家で、
この話をずっと聞いてきたからです!

 



いやいや、ここは訪れることは
考えていなかった。

でも、やっぱり、ご挨拶をせねば・・・
そんなことで、本陣までUターン。

 



ここに、勢津子様がおとずれていた!

 



Мさんは、
代々、飯盛山の墓守をしている旧家のお宅。

(白虎隊が自害した山)

飯盛山は、元は「松山」と呼んでいました。

 



戊辰戦争については、あまり地元の人も話したくないそうです。

 

私は伝説や古代史にしか興味がないので、

ほとんど会津の歴史、戊辰戦争もあまり知りませんでした。

だからこそ、Мさんや○○さんのように、
誰かに伝えたい思いが、
強くなるのではないでしょうか?

 


滝沢本陣は、

地主の農家でその一角が会津藩として家を提供する
(任命される)ようになり、白河~会津藩をつなぐ道路にあったので、
「土津神社」へ参拝する小休止として使われていました。

 

 


堂家は、地主なので地名をつけることを許されていたそうです。
(地名をつけられる人は限られた)

それが「滝沢」の地名。

滝神を祀る傾向があるのか、
近くに滝がいくつかありますので。

Мさんのご実家は、本陣と古くから関わりをもっている家で、
この部屋で、身内の結婚式もやっていたそうですよ!

 



おどろき~ん。

だって、この部屋、柱やふすまに
戊辰戦争の、
多くの銃弾や刀の傷跡が残されていまっせ。絶望

 

 

 

 



お庭があって格式ある家だった面影が残ります。

 


柱に多く傷があるのは、
柱に隠れていたからです。

 



Мさんのお宅の大黒柱もたくさん傷跡があり、
住めなかったそうです。

現在は、改築してます。

飯盛山へは、Мさんのすぐ裏の道から登れます。

 



一応、マップ。

 


飯盛山のすぐ下。

 

 

■二本松少年隊の悲しみ

戊辰戦争の歴史は、有名なので割愛します。

 



九州の薩長藩の西軍・官軍が会津に入るには、
この道をおさえないと入れなかった。

 



会津藩は城下町に入らないように、
滝沢本陣で軍事会議をしていたが、

その頃はすでに薩長藩が入ってきており、
そこで白虎隊とぶつかる。

 

本陣では、松平容保が白虎隊に、

敵を迎えうつべく戸ノ口原への出陣を

命じたところでもある。

 

 

松平容保像

 


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二本松少年隊というのがありました。

 



幕末の二本松藩において、
戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊
のこと。

白虎隊は、少年兵の集まりで、
4つの方角の軍部ができており、

 


年上(年齢が高い)は、「玄武」の北で、
通常は、彼らが対戦するのですが、
白虎隊が少年たちのグループ、

 

「予備隊」だった。

若い兵を出すのは本当に最後の時で、
二本松の少年兵も、とうとう最後は戦うことになります。

 

白虎隊だけではないのです。

 


私が歴史で学んだのは、
飯盛山で自害した白虎隊は、

鶴ヶ城が燃えているのがみえたので、
降伏し自害したと聞いていました。

実際は、もっと違う意味であったと思い、
自害するために飯盛山へ行った、
ということ。

飯盛山は古代祭祀があった聖地でした。



奈良県の考古学関係者が、
数年前に調査にきているほどです。

最後は、故郷の聖地で亡くなるもの。

 

 

 


それは、武甲山も同じ。

秩父事件に関わった人物が、
武甲山で自害しています。

最後の終焉地は、故郷の聖山と決めるのです。

この時代の16歳は、
現代の16歳とは、まったく違います。

当時の16歳は、立派な大人でした。



■武器をつくらせた背景

天皇家を守る(戦争を止める)ために、
会津藩がそれを引き受けた、ことがある。

 

特攻隊と似ています。

勝負はどっちでもよくて、
いずれにしても開国は、するつもりだった。

ロシアとウクライナと同じで、
争いを起して武器を得る。

アームストロング砲弾は、
イギリスの砲弾ですが、

これを試したかった。

 

 

「小山田よりうちこまれた大砲

アームストロング砲は、驚くべきものがあった。」



※上野戦争で使用されたと言われる
アームストロング砲

砲弾をつくり、武器をもたせ、
「自分たちが正義である」

ことをつくりたかった。

佐賀藩が製造を試みていたが、
製造には十分な環境が必要なため、
実際のところ、詳細はわからないと。

しかし、実際に海外からの砲弾を使用した
ものが残されている。

これらの武器を用いた戊辰戦争が広まっていき、
会津に運ばれた。

上野戦争や秋田戦争でも使用されているものです。

だから、あの映画、
「アンダーグラウンド」を思いだすこと・・・

 

■GHQが恐れたこと


死の概念は、1000年前までは
違ったと聞きます。

あの世とこの世があいまいな境界だったと思う。

戊辰戦争の時は、もう考え方は現代と同じですから、
少年兵たちは、怖かったと思います。

GHQが恐れたのは、「日本人の集合意識」にある、
ということを聞くことがあります。

良くも悪くも日本人の集合意識は、
とても強く働きます。

「世界に影響を与えてきたから」

特攻隊のように、
死を恐れない?日本人の集合意識を壊すために、

アメリカ(GHQ)は、日本の思想、
食べ物、宗教、麻なども含めて廃止しました。

例えば、米の代わりにパンといったように。

それは、戊辰戦争のことがあったからでしょう。

戊辰戦争の後に、
GHQが飯盛山にきていたそうです。
(第二次世界大戦の時だったか?)

いろいろ石碑などを壊していったそうです。
 

彼らは、

まだ「会津藩の精神が生きている」と、考えた。

 

その精神が、特攻隊にまだ受け継がれていると・・・

そうなると、象徴となるモノを壊します。



数年前に、飯盛山へ行った時に、
観光しすぎて拍子抜けした。

イタリア、ドイツのわけわかめな慰霊碑があり、
なぜか、ポンペイの柱まであったかなぁ。

Мさんは、古くの飯盛山を知っているので、

本当は、
そんな森ではなかった姿を、

取り戻したい気持ちにかられ、

私も武甲山と重なり、
貴重な会津藩士たちの財産であると、
考えるようになりました。


海外の政治家たちは、
白虎隊を称賛する言葉を投げますが、

それは、誰のためか?

 

 

■世代交代

お金もエネルギーであるように、
思想や民族の思いもエネルギーです。


恐怖を自分でぬぐえないから、
外に悪をつくるのです。

「世代交代」を、とても感じています。

Mさんは、戊辰戦争で亡くなった少年兵のことが

ずっと気になっていたみたいです。

まるで、母のように。

 

こんなことを言ってました。

「いつまでも中心にいたくて、
現役でいたいから、

若い人には教えないし、
ゆずらない。」

 


昔は貧しかったから、これで良かったと、
そう思うのでしょう。

しかし、その時に失ったものが、

何であったか。

会津で犠牲になった少年兵は、

大人たちの独断もあっただろう。


でも、私達も含め
若い人たちの世代は、
戦うことを教えてもらっていません。

だから、守ることも知りません。


先祖も霊統も、生きています。

先祖は、貧しさから戦ったわけではなく、
守りたいその一心であったと言う。

でも、今の若い人たちは、
そのどちらも、わからないのです。

 

それは、歴史を教えないからです。


私たちは、必死に迷いながら、
模索し、見えない存在と学んでいるが、

この声が、どこかに届くのでしょうか?

 

 

私は、またこうして

幼い少年兵たちの悲しみを拾うのでした。


松平家からのメッセージ。

 



「恩は石にきざみ
怨は水にながせ」



水は、情報です。

これからも、許し難いことを許していく。

「戊辰戦争は、今の日本の縮図」です。

 

 


会津と秩父、

 

どちらも重い人々の考え方、

思想が土に染み込んでいる。

 

決して軽くはない。

 

でも、地元だから、話せること、

受け止められることでもある。

 

いろんなことは、言われる。

でも、それもすべて拾う。

 

仙台で。


事実は、小説より奇なり。