御薬園について書く前に、
ここに繋がった経緯を。

■秩父と会津の「影の力」


ある時、

「秩父 会津 天皇」

で、検索したら

「御薬園の始まりと歴史」がトップにあがった。

 



御薬園(おやくえん)?と、思って
読んでみたら、知らなかった、というか、

そこまで意識していなかった秩父と、
会津との繋がりを知ったことでした。

 



しらなんだー。

秩父人として、知らない。

いや、知らされていないのだ。

きっかけは、
会津若松の旧家の生まれ、
Мさんが、
「秩父は会津にとって重要」
と言ってました。

最初は、あまりピンとこなかったけれど、
会津と秩父は、どこか似ているとは思っていました。

御薬園のサイトにこんな事が書かれていました。

「秩父宮妃殿下と重陽閣~会津の夜明け」


「1928年(昭和3年)1月18日、
昭和天皇の弟宮 秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王殿下と、
アメリカ大使(当時)松平恒雄氏(まつだいらつねお)の
長女松平節子(まつだいらせつこ)姫とのご婚約が成立し、
宮内省から正式に告示されました。

 



秩父宮雍人親王はその時皇位継承第一位の皇族で、
従来ならば皇族か華族の子女から
妃殿下が選ばれるならわしでありましたから、
この告示は会津の人々を感激と熱狂の坩堝に巻き込みました。」

会津の人々は長い間苦しい時代を耐え忍んできましたが、
「旧藩主の孫姫様が皇族になられる」

という報に会津は甦りました。

 

 




・・・会津の夜明け。
ほんとだ。

 


Мさんが言っていたのは、このことでした。

戊辰戦争後の会津藩の復権のためか、
天皇家に会津藩の血をいれている。

(元々、御二方には面識がありました)

 

※松平容保

紀子様の父方の曽祖父も会津藩士です。
池上四郎氏。

 



会津の人たちは、こんなに喜んでいるのに、

天皇家が秩父の名を記していることの意味を知らず、
関心は非常にうすい。

 

いろんな憶測があるんだろうけど。

なんだか、会津の人たちに対して
申しわけなく思えてきた。

だから・・・
何かが私をここに連れて来た?

会津が教えてくれた秩父との関係。

秩父神社には、こんな事が書いてある。

「秩父宮家」のご創立

明治35年6月25日、
大正天皇と貞明皇后の第二皇子としてお生まれになられた
淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王殿下には、

大正11年6月25日、ご成年に達せられた折り、
大正天皇より秩父宮の宮号を賜り
「秩父宮家」をご創立されました。

 


(雲取山のレリーフ)


皇居よりみて乾(西北)の方角にあたり、
荒川の水源地域でもある秩父連山は武蔵国の名山であり、
遠く日本武尊の伝承など、


神話の時代より皇室とのゆかりも深く、
これに因んでの宮号であると言われています。



神話って・・・たとえば?

「大正11年11月26日に、秩父神社にご親拝されたほか、
広く秩父地方をご視察されました。

昭和3年秋には、駐英大使や初代参議院議長などの
要職を歴任された松平恒雄氏のご長女、
勢津子姫とご成婚、昭和8年夏には両殿下お揃いで
およそ一週間にわたり秩父地方に滞在されました。

 

 

 

 

勢津子様の誕生日が、9月9日!
ククリヒメじゃないの!

 

だから、重陽なんだ!!!

 

えええー、びっくり

これは、数々の不思議体験、事象を・・・

考えてしもた。

 

ああ、昨年の重陽はすごい力だった。

だから、ほんとにお疲れさまでした。

と、伝えたい。

 

 

プリンセスチチブ。

 

 

バラの名前にもなっているのに、

うんでもすんでもねーチチブ。

 

咲いてませんでした・・・

 



でもなんで、地味すぎる秩父?

 

皇室との繋がりを見せられない、理由があるかもしれず。

 

大正天皇は女子が多く、皇位につく男系がおらず、

秩父宮をたてたとか。皇位は正式な位を与えられてなかった?

また秩父か、と思うかもしれませんが、
しつこく嫌われるくらいで書いてます。


これ、どこかで書いておきたかった。

徳川家康の頃、西北は神が坐すと言われた為、
秩父を特別視していたことがある。

江戸城の本丸付近に最初に館を築いたのは、
この付近の豪族江戸氏(秩父氏)であった。



東京赤阪にある山王日枝神社。

写真は、Mさんから。

 


「国会の先生方用」に
エレベータつきの神社。
(まるで中国・・・)

 

 

 



日枝神社は、猿ですよ。
猿田彦命も裏に祀られており、
八坂神社です。

だから、スサノオの子である
大歳神を祀るのですね。

 



御祭神が、大山咋神(ぼやかされている神だが)

もしかしたら、これも賀茂一族かも、

と思ったらやっぱり!

 



賀茂家の神紋ですからー!

しかも、偶然なのかな。

「神威赫赫として、
江戸の町の繁栄の礎を築きました。」

と、日枝神社のサイトの由縁に書いてあって、


「神威赫赫」の言葉、

今までみたことない。

けど、前回の蚕養国神社の額にあった
言葉と同じ・・・


 

むむーーん。

言葉のシンクロ。


「赤赤」という「かくかく」
とは、

赤赤と照り輝くさま意味だけど、

カカの大蛇の目か、
猿田彦でしょうかね~。

あと、新羅王の子とか~。


「秩父重継が主神としたとあるが、

秩父重綱の子供。

父、重綱は平将門の来孫」

来孫→5親等の直系親族
ちゃんと血統が繋がっている。

で、居住地が、
秩父の吉田だった!

ばあちゃんち!ニヤニヤ

じゃ、

重綱さん、つぇーよ。


秩父の吉田は、豊かだったとは聞いている。

そこで何があったか?

秩父事件でしょ?

火薬を扱うことに長けている人たちが
集まっている秩父なので、

武器をもたせたら、大変だ、と思われていた。

片手に鍬、
片手に鉄砲。

と、よく言った。

何かあれば、一揆鎮圧にとんでいける。
一揆が得意な秩父なため、

いざとなった時に、江戸城を
守れるために、帰農した武士を秩父に置いた。

 

一応、マップ。

「赤坂」の永田町と、
あえて、繋いでおきましたよー。

もうすぐ選挙だっ。

まあ、そういうことなので、
秩父は影ながら、東京を支えている(つもり)

やっぱり、秩父と政治、天皇家と
調べると、平将門に至るね~。

限定記事に書いたので、割愛。


■御薬園について


では、こちらの薬草園について。

 




今からおよそ635年前、葦名七代直盛(あしななおもり)が、
会津の地に初めて東黒川館(後の鶴ケ城)を築きました。

 

 

 

 



館の北の方角に大田谷地という野原があり、
そこには一軒の農家があり、
喜助というものが病気で難儀していましたが、


朝日保方(あさひやすかた)という白髪の老人
鶴の舞い降りた泉の水で喜助を介抱し、
やがて喜助はもとのからだに戻りました。

 

保方老人はそれを見届けるようにしてこの世を去りました。

 


 

秦氏じゃないの・・・

 

追記。

古田織部という人がいて、古田重然のことだそう。

 

この方は、茶の湯で千利休の子を会津にかくまった伝説がある。

織部だから、染織の管轄にいた方でした。

 



喜助は疫病から救ってくれた恩人として、
救い主の保方を霊泉の傍らに手あつく葬り、
祠をたてて朝日神社とし、
霊泉の泉を鶴ケ清水と名付けたということです。


 

※朝日=炭鉱につける。


その後、時代は伊達・蒲生・上杉
・再蒲生・加藤と移り永い戦乱が続いたため、
別荘はまったく顧みられませんでしたが、

松平氏の藩祖保科正之(ほしなまさゆき)は
霊地の由緒を正して庭園を整備し、
保養所として用いられるようになりました。

 



詳細は、こちらを。

 

 


 

白い穂のチガヤ。
千なる茅(カヤ)の意味があり、
矛に見立てられた。

 

 

ちょっと神秘的だったお稲荷さん

 

 



ここにきて、京都みたい!と思いました。

 



他と比べても、ここだけ別格だわ~。

ほんとに賀茂なんだ!と思いました。

上賀茂神社には行ってないけど、
ちょうど、鴨川の「ブラタモリ」を見ていた。

 

 


水(川)に対する執着がすごい賀茂家だが、
センスがよいのか、とにかく清めるのが好きな人たち?

 



その形状が、こことよく似ていると思いました。

 

 

 

 

 



どこからか、川を引いている、
この品の良さは、まるで賀茂家。

 

 



アジスキタカヒコネは、鴨と名を変えたのだよ。
鳥になったんだね。

 



八咫烏の加茂家は、アジさんの妹を守るために、
加具にしたんだ・・・妄想

 




■最高水準をもつ薬草の歴史

薬草の歴史では、古くは奥州藤原氏がきずいた
平泉の前進と言われた「国見山」で、
薬草を育ていました。

国見山極楽寺は、教育、開拓と幅広い分野に及び、
今でいう総合福祉、文化センターだったという。


特に医療の分野では当時の最高水準にあったといわれ、
その理由に「薬草園」があったことでした。

※日高見の時代より

平泉は、呪術をすごくしていたんです。

タララの水銀中毒もあり。

 



単純な医療として使われただけではなく、
毒殺も多かったため、

「解毒」として薬草研究もありました。

 



植物や生物、鉱物のための解毒の研究のための薬草園でも
あったと言われます。

 



薬草、天体と土。

 



これが古くから渡来してきた秦氏のグループで、
錬金術師のような知識人であったかもしれない。

 



禅も。


しかし、毒から守るためには、
毒の知識を得なければならない。

そのため、本当に信頼できる人でなければ、
薬草学は、継承できなかったそうです。

※秦氏にも派閥があったと。
どの秦チームかわからないと、歴史が違ってきます。
けど、どっちがどっちなん?

 



残酷な話、
有名な蒲生氏郷は、優秀すぎて毒殺されたそうです・・・

クリスチャンでした。

蒲生氏のものは壊されているそうです。

財力があったんだそう。

良い方のネストリウスだったのかな・・・
妄想。

 

 



なんというか、

会津藩士は、優秀な人が多かったと思います。
歴史を深く掘り起こしてみても、

なんだろうな~、

古くから、不思議な
民族が住んでいたと思う。

 

そんな説明しかできない。

 

Мさんの知識も、すごいんですな。指差し

ほとんどМさんからの情報。

 

 

エゾエノキ

 

 

ヒイラギ

 



調べれば調べるほど、謎が深すぎて。

石垣についても、
有名な石工がきてますが、近江からです。

近江は、「大巳」と書いて「おうみ」なんだそう。


これは、大蛇の意味ですよね。
滋賀県といえば、琵琶湖がありますから。

石積み技術集団「穴太衆(あのうしゅう)」というのですよ。

「自然の石で」積み上げているのです。

 

ほとんど加工していないのが、
穴太衆の特徴だそうです。

 

 

鶴ヶ城もそうです。

(伊達藩は違うらしい)


古墳の時からいたわけですよね。
石室の技術ですよ。

蘇我氏や秦氏と関わっていた人たちだから。

 

 

 

 




しかし、戊辰戦争で会津が引きうけたのは、
特攻隊と似ていて、

誰かがそれを引き受けないと、
終わらなかった。

 

いつだってそう。

 

 

 

 

お店に遺品が置いてあります。

 

グッズもみているだけで楽しい~。飛び出すハート

 

 

今年の猛暑は、このお茶で乗り切る!

 

奥さまたちの昼さがりの

ハーブティー的なものじゃないので、

 

更年期ではないけど、これからの体質改善として

珍しく食いついた。笑

 

 


ということで、次で会津の話は最後に。

ずっとМさんから話を聞いてましたが、
予定になかったのに、
偶然、その前の道を通ることになった・・・

会津藩士は、
何を伝えたいのだろう?


つづく

 

追記:ちょうどこれを書き終えたら、

すごいニュースがとびこんだ。

 

安倍さん、大丈夫でしょうか?