今日は、宮城・岩手内陸地震があった日。

なんだかな~、
そのことをすっかり忘れていたのに、

アザマロが繋がってしまう。
そんな日でした。

後で書きますね。

調べものがあって、
国見町(伊達郡)へ。

 

「観月台」

 




広いところに施設があり、
初めてきたのですが、気持ち良い所でした。

 



国見町観月台文化センターといい、
月を観るのですね~。


「国を見渡せる」高台の所には、
国見という地名をつけます。

車でいくとわかりますが、
福島盆地を見渡せる所です。

まさに、国見です。

1189年、源頼朝軍VS奥州藤原軍が
ぶつかった「阿津賀志合戦」の地
です。

信夫佐藤氏がこのあたりを治めていたので、
甲冑堂がそうですね。

 

※田村神社

奥さまの話ですけど。


ここで坂上田村麻呂が賊を倒した伝説があり、
その時の甲冑を「斎川」で清めたという。

 

 

信夫佐藤兄弟のお嫁さん。

夫が亡くなり、義理母を元気づけようと

義理母のために甲冑をきて迎えたという。

(嫁はいろいろ大変なんだ・・・絶望

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「国見駅」に源頼朝が本宮を置いたとするのが
初見で『吾妻鏡』による。


藤田城というのがあった。

 

観月台は古くからあったんですね。

 



※PDF 国見町の維持向上すべき歴史的風致
https://www.town.kunimi.fukushima.jp/uploaded/attachment/2396.pdf

 

 

近い!

頼朝さん。

 

 

 

 

もうあじさいの季節ですね~。

 

 

 

 

 

旧佐藤家住宅

 




■国見町の義経伝説

きれいなのよ~。

 

 

緑に映える義経さんが。

りりしい。

 

 

源九郎判官義経 指差し

 

 

地震は大丈夫だったようで!

 

それにしても、大きい石!びっくり

 



国見町のサイトより

牛若丸(源義経)が鞍馬山を出奔(しゅっぽん)し、
奥州平泉の藤原秀衡を頼って東下りする折、
この地でひと休みしたと言われています。

(腰掛け松のこと)
 

詳細は、こちらを。

 

 
名取熊野堂の何かの資料に、
 
義経が、名取熊野別当鷹舘城に隠れていたという。(高舘山)
 
「義経主従山伏姿となり」
 
「名を行敬と名乗り、
一切経等の直書を熊野社内の文殊堂に納め置けり」
 
とあります。
 
調べようがないのですがね・・・
 
一切経のことは、相当な深い話ですけど、
これを大量に収めようとしたのは、
三浦一族ではないか?の説。
 
天皇家や貴族、義経のように
追われた人々は、山伏の姿になって逃れた、
というのはよくあったようです。

 

吉野の南朝もそうですね。

マタギ集団がすごかったらしい。

 


■弁慶の硯石

ついで、こちらも紹介。

2018年11月にいった時のです。

 



『硯石山の頂上に、弁慶の硯石といわれる石がある。

「信達二郡村誌」によれば、


「石面に縦二尺余、横一尺四五寸許りなる、
硯の海を穿って常に水を湛へたり、

百日の旱魃にもいまだに會って、
涸るることなしと、相伝いて弁慶が硯という。
(中略)

 

 

 



源義経当国の軍勢を集め賜う時、
(弁慶)法師筆を採りて着到を付けられし
所成べし・・・・」
と、


水谷亭等舟漫がこの石の由来を載せている。

また、西側に流れる滝川の対岸には、
弁慶の踵清水と称する湧水があり、


阿津賀志山の南麓には義経の腰掛松など、
この地には義経、弁慶にまつわる
伝説が多く残されています。

かつてこの山には装飾を施した横穴古墳群が、
山頂から南麓部にかけて分布がみられ、


戊辰戦争に仙台藩が構築した砲台場跡もあったが、
凝灰岩の採掘によって破壊された。
(省略)

 



1189年の八月、

奥州合戦に源頼朝が率いる鎌倉軍と、
藤原秀衡の奥州軍が阿津賀志山麓で戦った
古戦場の跡を垣間見ることができる。

 



この戦いは閏四月三十日に、
義経、弁慶主従が衣川館で泰衡に襲われて
謀殺されてから、約百日後の出来事であった。





水田を隔てたこの山北側の眼下には、
伊達氏の重臣石母田氏の居館で、
土塁や水濠遺構が残る石母田城跡、
そして宮城と県堺をなす長嶺の山々、


北西に目を転ずれば、
羽州街道の難所とされた小坂峠、半田山など、
スケールの大きな眺望は人々を魅了してやまない。』

(看板の説明より)


また、この硯石山では、平泉にいた義経は、
兄頼朝が平家討伐の兵を挙げたことを知り、
急遽、鎌倉へ向かいます。


その時、弁慶、伊勢三郎義盛、佐藤継信、忠信
といった郎党300余騎がこの地で休憩し、
「閲兵」した所
とも伝わる。



閲兵とは、軍隊を整列させて
軍事パレードをするような事です。

何か儀式的なことを行っていた場所のようですが、
詳細はわかりません。

 

すご~いところなんだよ~。

 

 

※あつがし山


■占いの石=力石

弁慶と石にまつわる話は全国にあります。

重軽石があるように、石が重いか軽いかで、
占いをする石占いは、
今でも神社に置かれているように、
広く知られた信仰です。

米沢の上杉博物館保管の
「上杉本洛中洛外図屏風(国指定重要文化財)」に
「力石(石銘弁慶石)」が描かれているそうです。

山形の最上川の伝説では、
弁慶が女性みたいに書かれている。

お産婆さまになっている弁慶。

義経の妻(誰?)が産まれそうになったので、
赤ちゃんをとりあげた、
トリアゲバアサンになっている。

伝説ですけど、
弁慶が女になっていることがある。

義経が逃れている仲間に、
女性がいたことは不思議ではないですけど。

 

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このあたり古墳が多いです。

 

 

※大野田の王ノ壇と同じ命名の古墳があった。
王壇古墳。6、7世紀頃。

 

 

 

岩淵遺跡。

 

炉はそのまま時代を経ても利用され、
鎌倉時代に足鍋という3本の足がついた
土製の鍋が発掘されるようになります。

ここで、足鍋を大量に生産していたことがわかっています。

鍋は、中国が由来ですが、
道教では、先祖供養のために香炉を炊くためのものだった。

末法思想にも関係する祭器だったかもしれないですね。

 


■富士神社

さて、観月台には、義経の他、

富士神社と聖徳太子を祀っている珍しい神社がありました。

 

なんだか、もー富士王朝な匂い。ニヤニヤ

 


「観月台ため池の湖畔には、
商売繁盛の神を祀る聖徳太子神社
富士神社が所在し、農業市と同日(5月5日)に祭礼が行われる。

 



聖徳太子神社は、

古来聖徳太子が大工道具の曲尺(かねじゃく)
を発明したという伝承があるため、


大工の神様として信仰を集め、
町内では「国見地区建設業組合」が
氏子の中心となっている。

社殿は、昭和 45 年(1970)に遷座したものである。
富士神社は、宝暦5年(1755)に
浅間神社から「富士権現」として現在の場所に勧請。」

 



石工の信仰らしい徐福と聖徳太子。

 

半分太陽と三日月。

 

 

富士神社の両脇に、

牛と兎の彫刻が。

 

 

うさぎ

 

 

牛、みえますか?

兎は、東
牛は、北東

兎→震(しん)は八卦の一つ。
陽。

牛→艮(ごん)、陰。

陰陽の意味な感じはする。

 

 

神社の創建記念碑。

 

地震だと思いますが、

倒壊しているものがたくさんありました。

 

残念ですが、壊れているのを見るのは、

慣れてしまいました。真顔

 

 

海の記憶。


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東山道は白石~平泉へ続く道で、
貝田の地と県境の峠を通る必要があり、
国道4号、東北自動車道、東北本線が重なり合う場所です。

交通の要としては、とても重要な場所でした。

 



また、山もせまっているため、峠がとても深く、
ここまでやってくるのは、山に狭まれて大変なので、
東山道をさえぎるための防御としてこの地が選ばれ、
鎌倉軍を阻止する拠点とされていた。

阿津賀志山防塁は、約4kmにわたって延々と
築かれていたのですが、労力は25万人、
6カ月以上もかかったと推定されるそうです。


古墳について、
ちょっと興味深い塚の話を。

つづく。