昨日の大雨は1カ月分に相当する大雨、
とかニュースで言ってました。

各地で冠水などがあった様です。

今年は中国で大雨の大洪水がおきているように、
(毎年ですけど今年はひどいかも)


亀が甕をもつ水神であることを、
実感する年になりそうな・・・

「亀岡」だし。

 

東北は、丑寅の金神というし・・・。

それにしても、仙台は寒い(-"-)

 



■鬼石があるところ女性の講あり

さて、


スサノオ(出雲)崇拝の秦氏に、
猿田彦命が入ってきたわけで。

梁川八幡神社境内に、
観音堂があります。

ずら~と庚申碑があるところです。



信達第三十三番結願札所 

鬼石観音の由来(看板より)

 



「延暦年中(782年~806年)のこと、
征夷大将軍坂上田村麻呂が
奥羽鎮定の命を受けてこの地にやってきた折、
賊徒軍に囲まれて危うく
命を落としそうになりました。

そのとき聖観音菩薩におあずかりしたところ、
突然、大鬼神が現れ賊徒軍を追い払ってくれました。
田村麻呂は観音様に感謝して御堂を建立しました。

龍宝寺(光明寺の後身)は伊達六十六惣社梁川八幡の別当として
伊達氏の保護のもとに発展しました。

時に伊達成宗(梁川城主)は、
文明3年(1471年)に鬼石観音を再建。
本尊に三十三体の観音像、中尊に父持宗が京都であつらえた
阿弥陀如来を安置しました。

当時、鬼石観音は

信達三十三ヶ所観音巡礼の

最終満願礼所

として、
郡内外から厚い信仰をあつめていました。
(以下省略)

たまたま奥羽巡錫の途中にあった空道上人がこの地を訪れ、
草庵(光明院)をむすんで観音堂の堂守となりました。

現在、梁川橋の袂に見える大きな石は大鬼神の化身と伝えられ、
鬼石と呼ばれています。

観音堂もいつしか鬼石観音と通称されるようになりました。

永観年中(983年~985年)には梁川八幡がこの地に勧請され、
また承安年中(1172年~1175年)には
三重塔が建立されるに及んで、
境内は一段と賑やかになりました。」

 



ところで、貝田という地名があります。
和歌神子にも登場する貝田和歌神子の巫女伝承がある。

しかし、
「貝田」という人の実態は不明で、
梁川八幡宮にその由来があると伝承されていても、
その痕跡はありません。

しかし、伊達政宗が片目であったということで、
目に障害をもっていたことから、
盲巫の間では、障害があっても天下をとった人であると。


伊達政宗のおかげで、
目に不自由な人たちが自立できるようになったことで
口寄せたちには、伊達政宗は有難い存在になっていた。

 



この地域に、
貝田和歌神子、旭神子の口寄せ伝承があるので、
女性の講が中心となって信仰していた場とも言えます。

庚申碑は女性の講の証です。

これ全部、庚申碑ですよ。

 



※桑折町大聖寺(名取老女の名を記した鐘がある)

白根、五十沢、山舟生、の地区は
そんな地域になっていたと考えられます。

この地域、熊野神社もありますので。

嫁に入ると女性の仲間入りとして
講に入る場合もあります。

 

■丹塗り矢のこと

話は変わり、

これをみると、石切りさんを思いだす。

 




よくあるといえば、あるかもしれないが、
矢の奉納。

 



ハート型になってるし。

丹は赤なので(辰砂)
関東武士が崇拝していたため、
赤石が梁川では貴重になっている。

そのまんま「赤穴」八幡神社というのがあります。
場所は島根県。

地名も「飯」なのですね。
イイです。

主祭神として

別雷神(わけいかづちのかみ)
玉依姫(たまよりひめ)、


健角見神(たけづぬみのかみ)、
大鞆和気命(おおともわけのみこと)、
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、
帯中津彦命(おきなかつひこのみこと)を祀っています。

本殿裏に雷神がありまして、

 


 

こんな置き方ってあります?(↓)

 


みえなくしてません?

かわいそうだよ。

逆に目立つ・・・

で、
赤穴八幡によれば、
770年(宝亀元年)に現地に
社殿を建立して「松尾神社」と称したと。

でた、
また松尾が。
月読さんね。

だから亀なのか?

これ、知らなかった。

 


 

本殿の庭にあった。びっくり

 



亀が甕をのせている~。


けっこう、古い?

コケが。

 

 

いろんな角度から撮ってみたけど、

亀だよね~?

亀岡八幡宮からうつしているから
亀なんでしょうけど・・・。

その、出雲の赤穴八幡地域には

「丹塗箭神話」(にぬりやしんわ)という
赤穴八幡宮(松尾神社)の創建に
かかわる神話
が伝えられているそうです。


なるほど!

玉依姫とは、玉によりつく姫の総称ですが、
下賀茂神社の河合神社です。

鏑矢と丹塗矢と2つの呼び名の

伝承があります。


松尾大社と下鴨神社に。


鏑矢→音が鳴る矢(雷神、鳴神)
丹塗矢→賀茂別雷神、三輪山など(辰砂の赤など)


いずれも「雷」が関係します。

なので、菅原道真が関係していることです。

雷が鳴った時「原(くわばら)」

と言うと助かるという言い伝え。


雷神の菅原道真は、桑には落とさなかったことから。

秦氏の松尾にも丹塗箭伝説が伝わっていることから、
賀茂家と秦氏の婚姻関係を結んだ意図がある。
→同族にした。

それに菅原道真が関係しているのだと思います。

玉依姫という女神が丹塗りの矢に姿を変えた
大山咋(おおやまくい)という神に触れ

別雷神という子神を生んだ伝説。

島根県飯南さとやまにあ(参考)


松尾大社は、秦氏が祀る神様で、
亀を多くみかけます。

大山咋神縄文の土着神)と、
渡来系の稲作農業の神である

市杵島姫と合祀している。

渡来人(天津神)と国津神の神々の婚姻。

八幡神の前には、イワクラ信仰があったと思われる。
祭祀場があった場所には。

「三光稲荷神社」というのが犬山市にあり、
「姫亀神」というのがあるとな。


やはり、猿田彦命だった。

もしかしたら下鴨にある「糺の森」は
祭祀場だったのでしょうね。

遺跡がみつかってます。


川がY型になっている所に、

下鴨神社があります。

 

 

鴨川の源流は、桟敷ケ岳(さじきがたけ)という山からで、
「サシキ」から桟敷になったそうです。


サシキとは、「焼畑」の意味もあるといい、

 

「火」の畑に、

「水」の稲作の転換期。

に、秦氏と加茂家の関わりが。

 

(高野川と鴨川 この先で一本になる)

山からの川の流れを分けることで

農業用水として発展させたと思います。

治水の技術が、下賀茂で見える。


ひとつにしていることに、

理由があるのですね。


どちらも、矢を射る(ハートに)伝承があることは、
結婚の意味をもっているからです。

大山咋神は『古事記』には、
日吉大社であると。

 

重要なカギとなるのは、大山咋神。

日吉大社の使役が「猿」です。

イワクラ信仰があり、ピラミッド型。

 

スサノオより偉い人。

佐太大神。

 

 

---------------------------

鶴というのは、白い鳥ですから、
白鳩なども同じで、白鳥や鷺なども。

 

それに赤を繋げるものです。

海民の亀との婚姻関係をしめしているでしょう。

稲作と海という文化を融合させている。

猿田彦命には、鮎漁が深く関わっているから。

 



海民は、船上で生活していたという。
土地をもっていない海民が多かった。

それに目をつけた秦氏は、
海民たちと結んで土地を所有させる。

もしくは、海民たちが秦氏を受け入れた。

かつて大陸で同じ人生を歩んできたから、

海民を保護したいことがある。

捕虜にしたのではない。

漢民族のハプロをもつ秦氏は、
京都へ定住したと思います。

藤原家が中国式で都をたてますね。
京都は、ほぼ中国の基盤がある。

大阪は、石工が多い。
優秀な石工は散らばっている。

難波経由できたユダヤの秦氏は、
たくさん東北にきてると想像。

秦氏は人名より
「地名の方が」多く残されているからです。

「ハタ」のつく地名は、東北の金採掘に
点々とあります。
岩手、宮城県北部などに。

そのように点々と移動しながら
土地を開拓していったのだから、
なかなかつかめない。

 

平家はジプシーだったときく。

そうかもね。

 

 

 



----------------------

そうそう、
天神社の宮司さんが

梁川八幡神社が国指定になるそうで、
教えてくれた。

そうなると、都合よく変えられたり
しないだろうか・・・
そっちが心配。

「ここに、これがあるのは、ふさわしくない」

と、明治時代、東北にきた宮内庁が
貴重な文化財産を東京や京都へ持って帰った。

宮城の国宝になっている縄文土偶もそうでしょ?
研究のため、といって。

上野にあんねん。

そーいうことにならないように、
今のうち、どんどん見つけたものは

ひろっていく。

 

■明るい大黒さん

こんなきれいなフォトが撮れた。

 



大黒さん、いきいきしすぎ。ニヤニヤ

何かを伝えたいのだと思います。

「主役は、わしやで~」?

お腹が光っているね。

生魂。

なぜか、この大黒さんだけ
クリアにとれました。

--------------------------

「かごめかごめ」の歌がありますね。
あれは、33文字なんだそうです。

戸(扉)をあけるのはだれか?といった歌の内容ですが、
三十三の観音霊場は、その意味があると思います。

しかし、室町時代頃に、
99ではなく「100の完結にしたい」
と考えた熊野信者がいた。

全国の大本である札所三十三観音霊場の
「西国」「坂東」の最後に「秩父」があり、
その秩父を34箇所にして、
100箇所にしたという。

 



今の秩父札所の巡り方は、
変えられており、

当初は、最後の結願に武甲山を置くための

巡礼だったと考えられるが、熊野の補陀落思想だ。

昔は、札所を巡る前に、船に乗った観音様がある

茂林寺(懺悔堂ともいう)にいくのが習わしとも。


猿田彦命を祀る武甲山の麓だからではないか?

と妄想する。

 

 

※横瀬町資料館

 

ここで懺悔してから札所を巡る仕組みだったという。

武甲山は、補陀落山であるため、
亡くなった後の審判をするのが、


武甲山、おそらくスサノオ=シバ神
であったと思われます。

完結にしたから、

武甲山が壊されたと思っている・・・。

ククリヒメの出番がない。

 

完全なる人類を拒む存在がいる?

 

--------------------------------

象徴となるものを、
鶴と亀で表現してきた。

でも、望むだけでは見えなくて。

受けとる人によって違うものに変わる。

正しいと思って現地にいっても
違うモノが語りかけてくる。

「答えはない」

 

・・・大あくび

 


ほんとに、今回の梁川が
美しかったのだよ。カエル

 

 

 



行く時は、激しい雨と落雷だったのに、
帰りは、こんなに晴れた。

会津藩と伊達藩が少し近づいた。

どこかで、何かが、
繋いでほしいことが、よくわかった。

あの奇跡を無駄にしないために。

梁川は、ひとまずおしまい。ヒヨコ