今年は青葉祭を開催する、
との事なので、タイミングよい計らいと思います。

前にこの道を通ったことがあると思うんだけど、
気づきませんでした。

初めて訪れた支倉常長の終焉地。

 

 



聞いたことはあったのですが、
場所がどこかなのかわかりませんでした。

 

 

 



支倉常長がローマから戻ってきた時は、
キリスト教弾圧が激しい時で、
亡くなったことにしたそうです。

その後、
密かに大郷に晩年を過ごされたこと。

 



支倉常長の墓は、3か所ありますが、
中でも大郷町について、
残された文献をもとに検証した結果、
終焉地として、有力な説となっています。

 

 

光の柱ですって。照れ

 

 

静かできれいな森でした。

 




■生涯をとじた大郷町

 

渋すぎます。。。

こちらの冊子は、お墓の側においてあります。


「伊達政宗は常長から報告を聞いた後、
功臣がキリシタンとして捕らわれ
処刑されないように、

義理の弟である支倉新右衛門常次が
治める黒川郡大谷成田村(現:大郷町)
に隠棲するよう命じたと推察されます
。」

 



「帰国後、2年目に常長の病死を
幕府に報告したといわれています。

その後、成田村鍛冶屋沢御林にて
世の中との接触をさけ静かに暮らした常長は、
承応3年2月17日、この地において
84年の波乱に満ちた生涯を閉じたと伝えられます
。」


 

 



こちらがそのお墓です。

鍛冶屋沢御林で亡くなった碑があり、
地元では古くから語り継がれてきました。

誰にも常長の墓とわからないように
「支倉氏」とだけ刻み、

常長の義弟新右衛門常次の家中の人々により
代々、守られたそうです。


伊藤家五代目善三郎の方まで

墓を守り続けてきました。

 

 

 

しかし、明治になり
常長の功績が脚光をあびると
同時に墓論争が高まる。

それを危惧した善三郎は晩年、
東成田の墓が常長のものであること、
伊藤家が墓守をしてきたことなどを、
後世に伝えるべき書き残したそうです。

 



・・・墓論争ね~。

北仙台にもあり、ずっと前に
知人に案内してもらった記憶があります。


「信頼できるかっこいい人」
て、います。

軽々しく語らない人。

そんな人がいいな~と。


私はがんがん語りたい派なので、
そうじゃない人をかっこいいと思うのです。

 

なので、そんな人を捕まえてしまったら、

がんがん言いますので、

そういう人とは、ご縁が最初からありません。

支倉常長がそんな感じの人な気がして、
尊敬します。

 



だから、子孫もそれを
守っているのです。

墓論争など、常長さんが、
望んでいるはずがありません。

伝えたいのは、そこじゃない。


常長さんは、いっぱい話したいことが
あったと思います。

もっともっと、家族や子孫、
ここに住む人たち、

信者たちに、た~くさん
伝えたいことがあったと思います。



・・・だがしかし、

私はこんなブログを書いている。
書いてなんぼ、と思っている。真顔

ここに来たのは、初めてだ。

なぜ今、ここにきたのか?
と、思う。

 

一度、通りすぎたのです。

 

でも主人が、行ってみたい、気になる。

と言うので、Uターンしてきたのです。




この後、北上して大崎へ行ったのですが、

やはり、クリスチャンの話が
けっこう増えてきますので、

支倉常長が過ごした地であるため、

こちらまで逃れているキリシタンがおり、

信仰を広めていたと思います。

 


ここに行ってみたかったけど、
お寺の場所がわからず。

寄らずに帰ってきてしまいましたが、
ネットからの情報ですと、

こんな興味深い話が。

「この観音像は幕末の頃、
隠れキリシタンが糟川村の南から
吉田川を渡って密かに持ち込み
T家に預けて姿を消した。

T家では観音像は「子安観音」だと思い、
自宅内にお堂を作り、
地域の人々と共に崇拝してきた。

明治6年に禁止されていた
キリスト教が自由に信仰出来るようになり、


それまで地下に潜っていた信者達が
T家に安置されている「子安観音」は、
キリストのマリア観音であると言い出した
ので、

個人的に所有していては
後日問題が起きては困るので、
T家では観音像を糟川寺に預けることにしたのである。」

 

 


といったことでした。

しかし、台風19号の洪水で大郷町が
かなりの被害を受けました。

それによりマリア観音が流出される。

が、見つかったそうですよ!

こういう話を聞くと、
想像するに、

水(川)は供養するものなので、

洪水で亡くなった方と「同じ体験」をした
マリア観音様が、水で弔いをして、
供養が終わって戻ってきた、

と、想像します。

 

 

ムスカリ

ヨーロッパでは、青い花は、悲しみの象徴。

 

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余談ですが、

慶長18年(1,613年)仙台藩主伊達政宗の命を受け、
支倉常長ら慶長遣欧使節がローマを目指して出帆した地。

を、「月浦(つきのうら)」という。

月なんですよね。


支倉常長の先祖は、関東平家にあたるそうで、

相馬氏や伊藤氏に関係した武蔵の人たちが
遠祖となるそうです。

川崎町の支倉を由来とする支倉家ですが、

元は、伊藤姓です。

 

支倉の地に住み名前を変えたと。

ここに何があるかと言えば、
川崎町の支倉には新羅の郷がある。

前にも書きましたが、青森にいった新羅三郎がいて、
青森に「えんぶり」を伝えた人の関係者らしい。

 

 

■五色の伊達家

伊達家、

特に伊達政宗を深く追求すると、

シャーマンなところに繋がります。

巫女系の話になってしまう。

 

なので、あまり歴史が入ってこないので、

伊達家がよくわかりません。

 

竹と雀の家紋は、

上杉家と同じですが、

元々、伊達家の家紋だったとかいう話。

 

こちらに詳しくのってますので、

興味ある方は。

 

 

 

伊達家は、シャーマニズムな思想を

政治にも取り入れていたと思います。

 

これは、

「地羅背板五色乱星」といって水玉は星です。


紫地に赤、青、緑、黄、白の五色の円形をちりばめ
伊達家を代表する
家紋「竹雀(たけにすずめ)紋」を金糸で刺繍。


 

「紫」の地にしているのは、

高貴な色を意識しているのでは?

そこに五色を含めていることから、

いろんな意図があってつくられた羽織と思います。

 

紫は「聖人」の色です。
 

伊達政宗も、

全人類の統一を目指していた人かもしれません。

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ところで、
仙台の「雀」踊りが
雀なのは・・・

これも大阪から気になっていて。
 


藤原実方も雀にされてます。

 

※入内雀(「藤原実方の執心雀となるの図」)

 

あんまり良い話ではないのです。

 

京都に帰りたい一心で実方の怨霊が

雀にとりつき、内裏(天皇の私的部屋)

に侵入したという。

なぜ、雀なのかわからないのですが、


大阪難波で崇拝されていた仁徳天皇の
諱(いみな)を、

「大雀命(おおささぎ)」といった。

(大鷦鷯尊)とも。

雀!!

なんで、雀なのに「サギ」なの?

仁徳天皇も鳥なのです。

 

モデルみた~い ニヤニヤ

仁徳天皇は、税に苦しむ村人を、
救った人。

聞いた話しですと、
大嘗祭というのは、前の天皇を降ろす
儀式なんだそうです。

でも、降りてくる天皇が誰かは
その時じゃないとわからないそうです。

それに降ろせる人でないと、
降りてこないのだそうです。

徳仁さまは、その儀式を受けることができるから。

というか、それが大嘗祭の重要な儀式とか。


大嘗祭の時に虹が出たとき、
海外メディアでも、
とりあげたそうです。

海外はこの現象を、
どう想うのだろう?

 

AIの時代とかくるんでしょ?

そのAIは、虹が出せる?

大嘗祭の時に、

夢でみた岩手山の闇の中の虹が蘇る。虹


なぜ、岩手山なのか?

まあ、いつも答えはありませんが、

こっちは、ほんとに表に出ない方だよね・・・。セキセイインコ青

 

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さて、もうひとつ、
重要な印。

を、けっこう前に妄想してました。

支倉常長が、
ローマに残したかったこと。

以前書いた内容をまとめておきます。