長町の郡山遺跡を歩いてからなのか、
王ノ壇遺跡の大野田から「東平王」という存在を
知ったのは、相当、前のことになりますが、

この人物が誰であり、
何者であるか、

は、重要ではない。真顔

な、かっこいいセリフが聞こえてきそうですが、

あずまんど妄想祭りで、
ドーパミン放出しております。クラッカー

まず、大野東人の基礎知識を。

に、しても長くなります。
相変わらず。

どんどん、吐き出していきますが、
ちょっと難しいです。

つまってます!


■薬師信仰と柵をつくる人

東人のことを「あずまんど」と呼ぶことが多い。
or「あずまひと」

私は、「あずまんど」の響きが好きです。

(アーモンドみたい)

この方には2つの顔をもっていると思い、

薬師信仰を広めたお坊さんのような人と、
柵をつくった軍事の人。

経歴では、
奈良時代の公卿・武人。

大野果安の子。

 



とあるのですが、

大野氏は毛野氏の支族という。

下野国(現:栃木県)

下野国那須郡大野邑に居住した若古を祖とするが、
他にも別氏族に説があります。
(大野の地名は各地にある)

下野国は早くから陸奥征伐にやってきた
毛野氏(上毛野田道など)がいるため、
近いかもしれない。

有名な話では、宮城県北部(加美町)~
山形県(出羽国)出羽国大室駅まで

「道を切り開いた」ことです。


737年『続日本紀』より、
東人は、自ら大軍を引率して陸奥国領主を
4月25日に出発、色麻柵に集合。

 

 

色麻柵付近

 

 

冬の尾花沢(銀山温泉の近く)

陣を立て出羽国大室駅に通じる大土木工事を行う。
石をくだき、大木を伐採し、谷をうずめ、
尾根をきりひらき、奥羽山脈を横断した。


と、あるのですが、

「すでに道があった所を集大成した」

とされるので、もっと古くに奥羽山脈を
横断した先住民がいたようです。
(そっちに興味あるが)

多賀国府→栖屋(すや):現在の利府菅谷
→黒川→色麻→玉造。


もしくは、吉田(大和町)→吉田川→亀岡遺跡~色麻。
七北田川を経由して利府へ向かうルートなども。

 



だいたいこんな感じ。

いくつかのルートがあったと考えられますが、
マップをみても、現代の地図とは比べられないから、
どんな道だったか、想像するしかありません。

現在の347号線の付近

 

 

前は冬季は道が閉鎖されていましたが、

現在は、冬でも通過できます。

 

前、この道で、湧水の美味しいコーヒーを売ってましたよ。

今はやってないのかな~。

 




出羽国の玉野駅は、

現在の尾花沢丹生の地区と考えられると。

丹生ですから鉄民ですよね・・・
そこから秋田へ。


いずれの川、谷ルートにしても、
必ず黒川は通ることになると。

古来は、余戸郷の地名があり、
辺境地につけられる地名であることが多い。

737年『日本書記』に、色麻の名前が登場します。
初めて、色麻柵を設けたのが、大野東人と言われます。


東平王が誰か?

3人の人物名があげられていました。


鎮守府将軍の大野東人
または恵美朝狩(あさかり)
あるいは百済王敬福


これ、すべて当てはまると思う・・・
同じ時代にいた人たちだし。

大野東人と
藤原朝狩の共通点は、
多賀城です。

百済王敬福は、涌谷町で金を発掘し、
東大寺大仏建立に必要なためと言われ、
これも藤原不比等が絡んでいます。

 


※涌谷町黄金山神社(百済人望郷の郷)

日本に亡命した百済王の子孫で、
黄金900両(約3・4キロ)を献上。


現在の金の相場は、1キロ(1000g)
約340~350万円くらい?

その功績がたたえられ、
大阪の枚方(ひらかた)の地を得ている。

 

※敬福が建立した「百済寺跡」(枚方市)

そう、枚方市(交野)は、七夕発祥地と言われる所であり、

元は、五色の糸を垂らすだけだった。


また、アテルイとモレの慰霊碑がある所です。

日向に百済王の一族が漂着した伝承もあります。

 

■大野東人の伝承

大野東人が多賀城へ向かった理由、

724年、蝦夷によって佐伯児屋麻呂が殺害され、
この鎮圧のために派遣されたのが東人でした。


「藤原不比等の部下」として。

729年 陸奥鎮守府将軍となる。

733年 最上川河口に出羽柵があったのを、
     雄物川へうつす。

737年 多賀柵~出羽柵への道を開通すべく、
    関東6カ国 騎兵1000余りを率いる。


ここで、加美町~奥羽山脈を開通したとあります。
今頃の3月1日~3月11日頃の間という。

黒川へ行った日は、3月8日でしたから、
ハマるよね~。

「世界女性デー」の日だったのだから、
なんだか不思議です。


さて、大野東人がどんな人物だったのか、
私は、前からとっても興味がありました。

 

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東人の伝承には、

平泉 白山岳(も草神社のそば)にある
白山神社を勧請した伝承。

→724年、白山妙理大権現と称す。(看板より)

 

 



室根山の室根神社に紀州の熊野神を勧請したこと

 



約1290年前に大野東人が
蝦夷討伐の祈願所として和歌山県の紀州熊野大社より
分霊が奉られてから、室根山周辺の群落の鎮守として崇められ、
坂上田村麻呂や源義経も祈願したと言われております。


加美町の薬莱山に薬師神社(山頂の奥の院)を勧請

 

 

山頂にある薬師さま

 

→737年 出羽国に至る「玉野道路」を開発した際に、
悪疫が流行した為、医療の神、スクナヒコを祀る。


ということで、なぜか、軍事に関わった人なのに、
神々の話と結びつけられていること。

他にも東人の痕跡に、薬師信仰は関係しており、
七ツ森がすべて薬師如来であることも。

ところで、塩釜の梅宮神社の歴史と繋がっていそうなのです。

私たちの選んできた道は、
大野東人たち、藤原政権との対立に関わる
場所を巡っていたことになる?

 

■藤原政権との対立

多賀城で佐伯という名の人が、
蝦夷に殺害される、とあるのですが、

梅宮神社で書いていたように、
「橘奈良麻呂の乱」が気になっていました。
(橘氏を祀る京都の梅宮大社)

この原因が「金」であり、聖武天皇ともめていたそうです。

ちょっと複雑なのですが、

橘奈良麻呂は、
藤原不比等の藤原氏出身者→藤原仲麻呂
との対立でした。

その時、藤原氏についていたのが大野東人で
淳仁天皇を推す光明皇后が
藤原氏出身であった為でもある。

(東大寺大仏にもからみます)

 

※淳和天皇と淳仁天皇と似ているので勘違いしてましたが、
七ツ森のは、東人がいたより後の淳和天皇で、
今回とはあまり関係ないかも。
 

 

農民たちを大仏建立に費やしたことが

きっかけの反乱だったと思われますが、(中国でもそうだった)

その時活躍していた人が、行基です。

(金が足りなくて陸奥へ)

 

東北各地にある行基伝説

 

福島市

十万劫山の由来

 

 

「行基は多賀城を目指してはるばる陸奥深く分け入り、

大川(阿武隈川) の流水に沿って下った途中、

山に臥し野にいね、幾山河を越えた。」

 

その時、美しい山々をみて、

「この地は聖地なり。

永劫に鎮り慈悲を垂れ給え」と祈念して

背負ってきた地蔵尊を祀ったという。

 



ところで、

大野氏の名前に(東人の孫)
大野熊麻呂、猪手、馬養、
という動物の名がつけられている人がいるのです。

動物名をつけるのは、当時は珍しいことではなく、
動物の力を依り代のようにつけて名をもつことは
大陸でも朝鮮でもありました。

先住と思いきや、渡来人の可能性あり。
そこが蝦夷と似ている。

しかし、そんなに強引な人だったようでもなく、
寺社の伝承に残され、後世は、家臣たちに慕われたのかもしれない。

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ここで、
橘氏のことをもう一度、ふりかえる。カエル

 

 

橘氏VS藤原氏

梅宮神社が「酒」を祀る意図があるため?
これも裏で秦氏(新羅)が操っていた可能性あり?真顔


東平王が誰か?の中の一人に、
百済王敬福がおりましたが、

大野東人の子(横刀)が、小田郡で黄金を発見したことに関わっており、
百済王敬福と「佐伯金成」という人も関係していた。

この佐伯金成という、名前からして金の王さまみたいな人は、
聖武天皇が崩御した後、藤原仲麻呂がおす淳仁天皇が即位して
藤原側の人だった様。


それに反対した橘氏や大伴氏(佐伯氏)がおり、
黄金を発見した百済王(百済国)への反発があった、
と想像するのです。

※新羅ではなく百済が金を横取り?

この佐伯金成という人は、船師といわれたそうだ。

 

ひとつ、気になったこと。

 

佐伯氏の名が大野東人と似ているのだよ。

名前が。同族?

 

大野東人の父:大野果安(後ろにいるのは、田辺氏という人)

 

同じ名前「果安」をもつのが、エミシに殺害された

佐伯児屋麻呂の兄弟にいる・・・混乱

 

そして、その児屋麻呂の子どもに「東人」

それって大野氏のこと?

 

 

wikipedidaには、大野東人が?

海道の蝦夷が反乱を起こしたので、

佐伯児屋麻呂を殺害した、とある。

 

・・・混乱。

ここがなんだか、おかしい。

 

まあ、大野氏と佐伯氏は、

今でいえば、同僚だった?けれど、

最後は、橘奈良麻呂派の者たちは次々と拷問を受け、
謀反に無関係であった反仲麻呂派の者も数多く捕らえられ、
流刑になった人も多いという。

佐伯金成は、結果、自害したと。

といった歴史があったのですが、
大野氏がその時どうだったか、よくわかりません。

時代を確認すると、

活躍していた時代のおおよそ、

724年 大野東人
749年 百済王敬福
757年 藤原朝狩

 

大体、同じ時期にいた軍人、役人だったので、

東平王は、陸奥開拓=金の確保のために活躍した人となる。

 

だから、すべての業務を行った、

計画通りなことだよ。

 

「道」を開いた、→大野東人

「金掘り」をした →百済王敬福

「蝦夷と開拓」した →藤原朝狩

 

 

もう少し、藤原家について深堀りします。