初めてこの石をみたのは、ずっと前になります。
震災よりも前のことで、
その後、主人といったことがあり。

 



しばらく行ってないのであまり思いだせない。

 


過去記事をまとめておきます。

中央の役人と地方の娘の恋話という設定は多いです。
相手は、藤原実方であることも。

もちずり石は、光源氏のモデルとされた源融
の伝説があります。

 

 

しかし、実際、本人がきたことはないです。

光源氏のモデルとされる人が、
大体、悲恋話として陸奥の豪族の娘が相手になるねぇ。

これには、陸奥国に対する都人の関心の高さ、
があると思います。

(ネットから)
『あさきゆめみし』
読んでたな~ぁ。

なつかしいっ。



ここにもお寺の境内にどーんと巨石あり、
松尾芭蕉が訪れているほど、有名な所です。

 




■虎女の伝説

遠い昔、9世紀頃のこと。

陸奥国から源融公が、おしのびでこの辺りまで参りました。

夕暮れ近いのに道もわからず、困り果てていると、
この里(山口村)の長者が通りかかりました。

公は、出迎えた長者の女・虎女の美しさに思わず息をのみました。

 



虎女もまた公の高貴さに心をうばわれ、
二人は愛しあい一カ月あまり公の滞留まで過ごしました。

やがて公を迎える使いが都からやってきました。

公は始めてその身分をあかし、また会う日を約束して去りました。

再会を待ちわびた虎女は、
「もちずり観音」に百日詣りの願をかけ、
満願の日となりましたが、都からは何の便りもありませんでした。

 




嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと
「もちずり石」の面に、公の面影が彷彿と浮かんで見えました。

懐かしさのあまり虎女がかけよりますと、
それは一瞬にして消えてしまうのです。

遂に虎女は病の床についてしまいました。


「みちのくの 忍ぶもちずり誰ゆえに 
みだれ そめにし我ならなくに」

 




公の歌が使いの手で寄せられたのは、ちょうどこの時でした。

もちずり石を、一名「鏡石」をいわれるのは、
このためだと伝えられています。

虎女はこの後も会うこともなく、亡くなったと。

 

 

虎女と源融の墓とある・・・。

モデルはだれ?びっくり

 

 

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この伝説は、「小倉百人一首」に採られた
源融の和歌から生まれたものと考えられ、

10世紀頃に藤原滋幹女が陸奥に旅立つ
紀友則女(きのとものりむすめ)へ遣わせたような歌もあり、
「しのぶの里」「会津の山」も歌枕として詠まれていました。

都人との恋話に藤原実方がいるのですが、
同じ時期に赴任したのに、源重之という人がいる。

 



この方が、陸奥守として長い間、安達郡に居住しているため、
紀友則女を陸奥へ下向させた理由は不明ですが、

源重之の本拠地であった安達によるため、
活発な都との交流があったことが、
これらの伝説をもたらしたのではないか、という。(飯野町史)

推測でしかないですが。


この近くにある「鳴き石」という巨石も、
夜になると女性の鳴き声が聞こえるという。

 



大体、石には女性の話がつきものなので、石信仰が女神信仰で
あった意味もあるでしょう。

 

女性と石の関係、

それは、職人の石です!

 




この「もちづり石」には
染色をする際に用いられた石だったそうです。


そして、そのもちづり石がすごい。

 


■安達絹と信夫毛地摺

もちづりは、毛地摺と書くのですね。

『吾妻鏡』には、
‐文治五年(1189)九月一七日
「一、毛越寺事〈略〉基衡乞二支度於仏師雲慶一、
雲慶注二出上中下之三品一、

基衡令レ領二状中品一、運二功物於仏師一、
〈略〉安達絹千疋〈略〉此外副二山海珍物一也」


とあり、藤原基衡(奥州藤原氏四代)が、
毛越寺本尊造立の謝礼として送った品の中に、
「安達絹」がありました。

安達絹とは、

岩代国安達郡(福島県二本松付近)で
貢物として織り出した絹のこと。


小手姫がいた川俣の絹織物の名称とのこと。

 

 

「綾形石」の名ですが、「鏡石」ともよばれます。


『吾妻鏡』の「安達絹千疋」と、
「信夫毛地摺千端」の記述もありました。

ネット情報から抜粋。


1000疋は、
1疋は長さ15.15m。

幅65cmなので1000疋は15000m(15km)との事。

そんなに長いの?!

何かまちがってる?

 

ママチャリで換算すると、(なんでママチャリ計算?)

15キロは、1時間以上はかかるよ。



信夫もちづりは、「忍摺」ともいい、
忍草の葉を絹に摺りつけて染めた草木染めのことなんですね。

 

「忍」とは、こんな色。

表地に淡萌黄を、裏地に蘇芳を配しています。

樹皮・岩面あるいは古い屋根瓦などに生える羊歯類の一種です。

 

※きもの用語大全
http://www.so-bien.com/kimono/%E8%89%B2/%E5%BF%8D.html

 

シダなの?!

 

 

シノブ科のシダ植物の一つ。

よくみかけますね。

 

なるほど~。

炭鉱と機織のつながりがわからなかったけど、

砂金などがとれる所にシダ類がある、とはよく言われ、

 

そのような植物と炭鉱の知識をもった人が、

染色をすることも学んだのですね~。ウインク

 


大きな石の上に絹布をはりつけ、
忍草を置いて上から叩き、石にある自然の乱れ模様
を利用して摺り染めとしたと考えられる。

そのため、歌枕として成立するのは、
信夫産の織物の成立よりは、後であるため、

9世紀頃までは信夫郡における絹織物生産の発展があった。



陸奥の絹の歴史については、前に書いていた
こちらを参考に。

 

 

■倭文里とは?

しかし、絹織物が古くから有名であったとしても
倭文神社がないのですね。

「しとり」と言いますが、
あってもよさそう。

信夫郡は、静部郷(しずべり)=倭文郷と同じで、
梁川、保原、霊山町の地域。


中国からの織物に日本の特殊な紋様から生まれたことをさし、
忌部氏がいるように、大陸と日本の文化が融合されたものと
考えられます。

しかし、その頃の紋様は、菱形のように線刻が主流で、
錦織のような高度な技術はまだなかったと。

漢織(あやおり)、呉織(くれおり)は、
原始的な技術で、高度な錦織とは区別されていた
ようです。

信夫もちづり石は、「染つけ」からついた名称が定説で、
倭文は、織物を形成したものをいう。


なので、倭文神社が福島にはないのかもしれない。

遠野にはあったと思う。

やはり陸奥に伝わった織物は近畿地方など西に集中しています。

倭文神社の所在地


 ※飯野町史

 

以前、岩沼の滝之入不動尊で、中将姫の話をかきました。

①がその中将姫が編んだ当麻町にあたる。

 

もしかしたら、聖徳太子に関係するかもしれません。

倭文氏の神社。

 

 

 

(画像)二上山は、
平野塚穴山古墳のそば。

(寅の毘沙門天:信貴山とも近い)

 

だから虎女??

 

そうか~

その古墳は、

茅渟王が被葬者といわれる。

 

難しいね。

 

郡山といえば、采女。

葛城氏の痕跡がある。

 

二上山は風の神、科長戸辺、級長津彦を祀っていた。

古代のタタラ製鉄の場です。

 

風がよく通るので、フイゴの役目があった。

 

蛇神の石碑をよくみかけていたので、

古代のタタラを象徴していることがあると思います。


■染殿姫と如意輪観音のこと

もうひとつ染色の歴史がある。

 

その前に、
ひとつ気になったことといえば、川俣公園の
小手姫像がある峯能寺の観音堂のこと。

石碑に秦氏は、
「如意輪観音像」をもってきて観音堂に祀ったとあった。


この意味が聖徳太子のことだったら・・・?

 

如意輪観音菩薩半跏像 

 

東京国立博物館のサイトに、

 

「このお像、実は聖徳太子の

「ほんとうの姿」として信仰されてきました」

https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2021/08/13/_taishi4/
 

 

曽我物語の中の虎御前が登場する話もあり、

それと関係しているか不明ですが、

 

虎女(とらじょ)とは富士の裾野の仇討ち

有名な曽我物語の中の虎御前のことである。

 

と、過去記事にあった・・・

 

 

虎御前の伝承と結び付けられた「虎が石」が存在。

「石化」した伝説ですから、
ローレライ岩の語り部。

禹の治水神のことで書いてました。

 

曽我物語の語り部でもあった晩年の虎女は、

高麗寺の近くに住んだといわれています。

寅の年、寅の日、寅の時に生まれたので、

「三虎御前」と呼ばれた。

 

 

高麗寺とは、埼玉の日高市にある高麗山との事。

 


もちづり石と同じく染めものを広めた源氏がいます。

 



岩切の染殿神社
ここも何度も書いてました。

『田村草子』に登場する悪玉明神が、
染殿明神のことだったんですね。

 

そーいえば、源融さんの子孫「源綱(渡辺綱)」は、

鬼退治した人だった!!チーン

藤原家が書いた物語だし。

 

川崎町に伝わる渡辺綱の鬼の手形石。

 

 


染殿神社によれば


その染め物を「刈安草」といい、
イネ科の植物で、茎や葉を乾燥させ、 
煮詰めると黄色い染料となるので、
キハダと並ぶ古代からの黄色の染料の代表の一つ。


黄色なんですね~。

イネ科とシダ科の違い。


これらの話は、信夫の虎女、名取の道祖神、岩切の染殿明神と、

共通している物語です。

東北に根づいてきた織物の歴史背景には、
藤原家や源氏の策略が、宮廷の派閥を生み出した。

逃れたか、追放された皇女たちは、
村人や子どもたちに技術や教育などの
知識を伝えてきた歴史があり、

織物だけではなく、染色もあったのです。

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他、境内にはいろいろ見どころあり。

 

 

 

 

 

 

 

足止め地蔵:家出人など、この地蔵の足をしばると無事帰ってこれるという。

 

 

 

 

不思議な文字の石碑があり、春日文字?

 

これは、「甲剛碑」といわれ、「北斗」のことで、北斗七星と伝わる!?
この文字を書いた人が、北畠顕家の父親、北畠親房の書であるとも。

 



北畠顕家は、霊山にいましたしね。

 

長くなりましたが、

こちらを参考に。

 

 

おしまい。