久しぶりの里山へ。

寒波がすぎ、やっと平年並みの気温に戻ったので、
そんなに山歩きは、寒くはないです。

 

 

千貫・深山(みやま)

 



動かせば体が暖かくなるので、
そろそろ山歩きをしていきたいな~。

 

 



深山という名が多い地域ですが、
大山津見神を祀っていることが多いです。

 

 

※千貫神社の奥の院(大山津見神)

 

 

 

阿武隈川



三輪の説もあり、
修験者だけではなく、
都から左遷されたのか、
何かあって宮廷や藤原家の一族たちが
やってきている所でもあります。

→藤原仲麻呂の乱。

 

 

 

明治二十六年の碑(深山の山頂)

 

 

ずっと眠っているイワ。

どなたか笹を置いてくださいました。

 

よかったね。

 

さて、この麓にあるお不動さんのこと。

瀧之入不動尊付近から海側は、古くは湿地帯だったそうで、
葦の原野になっていたと想像されます。
あまり人が住めるような土地ではなかったようですが、
人口が増え内陸に住む人が多くなり、古墳(円墳や石室)が増えてきました。

 

 

■瀧之入不動尊

 

2019年2月の記事内容です。


岩沼の千貫・深山の麓に、
「瀧之入不動尊」があります。

裏手が深山(みやま)で、
このあたりに斎宮伝説もある所です。

大日堂などの御堂をかまえていました。

瀧之入不動尊へ行く目安は、
「竹倉部」という場所になります。

 




曹洞宗東安寺があります。

 



山中へ向かって歩くこと10分もかからず到着します。
入口には、「瀧之入不動尊」の看板があるのでわかりやすいです。

 

 

 




由来など詳細はわかりませんが、
なんとなく、高舘山の熊野那智神社の滝に雰囲気が似ています。

本殿の中をのぞいたら、小さな木像のお不動さんが鎮座してます。
川の水量はとても少なく、寂しい小川です。

 




この先へはまだ道が続いていて大きな溜池があり。
金蛇水神社周辺の山中には、
このような溜池がたくさんあります。

 

 

 

 

 

何か建物があった様子。

石垣かな?(↓)

 

 

 

上からみた瀧

 



瀧之入不動尊の背後には、
ちょうど、まっすぐに伸びた先に
あの深山の石碑があった。

 



瀧之入不動尊は東の海を向いており、
西に向かって祈願する形になるので、
背後の深山を拝むようになっている。

 

 

この上をいくと、深山の石碑。

 

 

 

 

はっきりした「たまゆら」コアラ

よくみると、玉はふたつ。


ところで、珠(玉)が続きます。

気になったこの図。

 

震災後、話題になった飯沼勇義氏の著書、

『解き明かされる日本最古の歴史津波』より

 

※飯野氏はかなり前から津波の啓示をうけていたので、

この本を残したのでしょう。

 



~豊葦原の中つ国に天降り坐して 
御倉棚(みくらだな)に鎮づめ置きて~


という十種神宝にありますけど、

「みくら」と聞いて、「みくらだな」が・・・気になる。


ホツマツタエの図にある「みくら」というのは?

(青森と岩手)

 

『日高見の 御座(みくら)の跡に

また都  遷して名づく

多賀の守(こふ) 壺若宮(つぼわかみや)の・・・』(ホツマツタエ)

 

ホツマツタエでは、多賀は多賀大社からとった解釈が

なされているようですが、

 

名取熊野三社がある高舘山も、

「多賀館」→多賀城の別名であったとも言われる。

 

多賀城ができる前?

 

深山は高舘山の前身なので、

斎宮伝説が残され、深山(みやま)にしていると思います。


また、「みくらだな」の意味は、


「伊邪那岐命が黄泉の国より帰ってきて禊祓をして」
最後に「三貴子」を生んで喜んでいる場面で登場する神であると。

その後、

「ただちに御首の首飾りの玉の緒を、
ゆらゆらと揺り鳴らしながら


天照大御神にお授けになって仰せられるには、
「あなたは高天原をお治めなさい」と御委任になった。」


「御倉板拳之神」の名は、
御首飾りの珠の名の別名という。


ずっと玉(珠)が続くけど・・・

こちらを参考にしました。

 

 

でも、いろいろある説の中、

「ウカノミタマ」のことともあり、

稲を保管する倉との解釈も。

 

この子のことかしら?飛び出すハート

 

 

かわいくて、ぱくっといってしまいます。

 

 

初めて入ってみた~金蛇水神社にあるカフェ

 

 

■中将姫の伝説

そんな、ヒタカミがあったような所に

斎宮に関係している伝説があります。

このあたりに「中将姫」がやってきた昔話があります。


「昔、この里に、亀屋敷という屋敷があり、
ある日、旅をしている美しい女性が、
この亀屋敷の主人に、一夜の宿を頼んだ。

この主人は、たいへん 意地悪 だったので、
その女性の身なりから、

お金をもっていそうだと思い、女性の頼みをのむ。

その夜、その主人は、

その女性が寝たのを見計らって殺害してしまう。

すべての金を奪った後、無残にも遺体 を草むら 放置した。


ところが、ある日、その女性が 中将姫 であったことを知る。

さらに、「 京の都から中将姫を 捜しにきている者がいる 」
という噂を聞くと、主人は、屋敷の近くに中将姫の遺体を葬り 、

「 残念なことに…、

中将姫は病気で死んでしまいました… 」と言って、
弔った ふりをした。

しかし、不思議なことに、その後の亀屋敷には、たいへんな不幸が続いた。
その後も不幸が続き、ついに、この一族は 断絶 した。

里人 たちは、「 金のために、高貴な方を殺害した祟りだ」と噂し、
中将姫をねんごろに弔ったという。」


『岩沼市史』に、「中将姫の墓」とあると
以前のブログに書いてましたが、

中将姫の墓は、

「大同道の道沿い(東海道のこと)、三色吉東安寺前の路を通り、
民家の脇を登って山路にかかり、屋敷と呼ばれる家がある。
その細い一本の杉の木」と、書かれていました。

このお不動さんの近くなのですが、

民家があり、詳細わかりません。

この話しの意図には、道祖神で落馬した
藤原実方と巫女の話しが関係していると思います。

また、三色吉(みうるし)と言う地名は、
金蛇水神社も三色吉です。

大蛇信仰に関わっているから、
三輪系の氏族もあったんじゃないかな~。

という妄想しかできないけど。

 

伊勢神道の神は、豊受大神(伊勢外宮)としており、
元は三輪山にいた大巫女のことであると言われ、

その後に倭姫により京都の元伊勢から伊勢に持ってきたとされます。

 

岩沼の岩蔵寺は、女性たちの修行場で、

深山の地名もあり、禰宜内という地名も。

 

 

岩蔵寺も、清水があります。

■中将姫とは

そこで、なぜ「中将姫」という名が
語られているのか?

中将とは、役職名で、姫とあるので女性です。

765年頃、設置された役職で、
13歳の時に内侍をさずかる天皇の側近をしていた
女性をさしています。


wikipediaには、内侍とは、近代以前の女性職種と。

・令制下における、後宮の役所である内侍司
(ないしのつかさ)に勤めた女官の総称。

・斎宮寮の女官の1種。
・斎院司の女官の1種。

・安芸国の厳島神社の巫女。

ということなので、位のあった女性が何かあった
ような話しですが、武士政権時代の
「白拍子」のような気もします。

 



白拍子→主に男装の遊女や子供が
今様や朗詠を歌いながら舞ったもの

起源は、
「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)
和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである」


む~ん、
千歳(ちとせ)と千歳(せんさい)・・・

神を憑依させた時、
男性は女性に。
女性は男性に性が変身する作用があったことから、
白拍子となったそうです。

 


この近くに、道祖神があり、
藤原実方の伝承があるので、それと関係するならば、

相当前になりますが、
藤原仲麻呂の乱に遡るのでは?


山形県千歳山にある「阿胡耶姫」の伝説。
何度も書いてますが、「あこや姫が妹」

となっており、「姉が中将姫」

となっている伝説です。


なぜ、そのような話しになっているのか?

妄想するに、ここにいきつく。


藤原仲麻呂(恵美押勝)の兄が、藤原豊成です。
兄と弟のバトル。(異母兄弟)

 

藤原家のクーデターで左遷された人で、
陸奥にその時に関わった藤原家が逃れています。

その仲裁にあたったのが、
坂上刈田麻呂(マロの父)となり、
こちらに来ていますね。


関係しているかは不明ですが、
何らかの奈良の都人の痕跡があり、
後に藤原家がおとずれているわけです。

しかし、伝説では、
あこや姫の父が「藤原豊光」とありますが、
豊光という名はみあたりません。

 

十六夜姫になっている。


この千歳山に「阿胡耶の松」をたずねに
藤原実方がやってきたが、時代は後なので、
すでに陸奥ではなく出羽国に変わっていた。

その松をみにいく途中で落馬し、
亡くなっている設定で創作されます。


源氏物語のモデルにされているのだから、
美系だった→白拍子っぽ。


落馬は「隠語」と考えられ、
確かに沼地でありましたが、そう簡単に
馬に乗り慣れている貴族が一人で亡くなるのは不自然では?

落馬の伝説は、各地にあるため、

織物や機織に関係する気が。

例:秋田県唐松神社に伝わる佐竹氏の落馬
  福島県飯舘村の小手神社に伝わる伊達政宗が落馬

いずれも、馬が暴れることになっていまして、
馬が暴れるのは、神気が強い場として解釈されていることも。

ちなみに、奈良県の中将姫は、
曼荼羅を編んだ女性として有名です。



 

当麻曼荼羅(根本曼荼羅、国宝)部分
(wikipedia)

 



当麻曼荼羅(平成本・中之坊蔵)
(wikipedia)

先染めした絹糸を用いたものであり、
総合的に見て錦や刺繍ではなく、綴織と見られるとの事。


日本にはこの技術がなかったので大陸製であるという。

ということは、中将姫は、大陸からこの曼荼羅図を
もたらした人であると?



しかし、中将姫の伝説は悲しい話しになっている。

継母に追いだされ(殺害されるところだった)
「雲雀山(ひばりやま)」へ連れて行かれたのだが、

家臣が不憫に思い、そのまま帰らず保護して、

庵をおき、暮らしていたという。

時がすぎ、父である藤原豊成が狩りをしに
その山へいき、そこに暮らしていた娘と会い、
再会するという物語です。(能にもなっています)

雲雀山に青蓮寺があり、場所は滋賀県ですが、

蓮で編んだ(実際は違う植物みたいです)
中将姫の曼荼羅は、当麻寺(たいまでら)といい、
奈良県葛城です。

開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とも言われる。

二上山の麓にある山で、
「三輪山(桜井市)と相対する位置にある。」

 

 

だから、ずっと二上山は気になっているのです。


奈良の都から陸奥へきた人たちが、
ふるさとを偲び、伝説を残したことを

語り継いでいるのかもしれません。

 

都人の足跡も東北には残されていますが、
残念ながら、ほとんどが悲恋話しで終わっているのは、
葛城王朝を築いた、葛城一族のことでもあるのか?

郡山の采女ね。

 

供養になれば、と思い

書いていた伝説でしたが、

 

語り部は、その役目でもあるから、

古くの先祖を偲び、語り継いでいる。


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ここは、それだけ津波、地震が多い歴史があります。

 

「地蔵森山(新地町)も千貫山も、同じ整合性のある津波ということになれば、
2つの津波伝説は信ぴょう性があるのです。
津波伝説にも10のうち1つは必ず真実がある。
それを解明するのが、我々の役割です」(飯沼氏)

 

 

日本の火山活動が、
「大規模噴火の準備段階入り」

 

どれだけ地震と噴火の「ふるえ」に影響されずに平穏な心でいられるか。
大変な作業ですが、どうやら、

人間は霊的にパワーをもっている存在だと感じる日々です。

 

 

 

 

蔵王がみえない~

 

そんな深山に、毎年、おとずれてしまいます。

 

春が待ち遠しい~。