明日は、秩父夜祭です。
今年も祭はやらないそうで、神事のみのようです。

妙見さんが降りてくるのですよ~。

 



となると、丹党一族がざわつく!
だから、こんな話しになる・・・コアラ

帰省した時に、面白い情報をみつけました。

『新編武蔵国風土記』』の中に
面白いのがあった。

かつて、武甲山山頂に
「日本武尊命の石碑」

があったという。

コピーするのが面倒だったので、
ページをスマホで撮ったのですが、
途中で切れてた・・・

「山神社
日本武尊碑奥院ノ側ニアリ

撞鐘堂四ノ~」


ということで、あまりわからない。
なんそれ。

が、ちょっとメモっていた。

金玉寺(阿弥陀山念仏寺(通称金玉寺)というのがあり
これに関係していそうなことだったか。

これが武甲山麓にあった持山廃寺のこと。
52代、嵯峨天皇にさかのぼる話しだと。

 

 


どうやら、隠居したお坊さんに関係していそう・・・

そのため、武甲山麓の持山廃寺に伝わる
松平長七郎の伝説が残されているのです。
松平家は、愛知県だね。(豊田)

古くに一族が尾張から移り住んでいたから、
長七郎伝説は架空とされるものの、
こちらに逃れている説。
(本来、徳川家を継ぐ人だったかも)

松平長七郎伝説は、各地に伝わりいろいろあります。

 

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さて、石碑の話しの前に・・・

武甲山と同じ話が青梅市にあったことを。

かつて山頂には、蔵王権現=熊野大権現が祀られており、
守屋越前吉田家の配下であったという。

祭日に、ヤマトタケルの木立像を
丹塗りの神輿にかつぎ、納めたという。

蔵王権現像は、押武金日尊ナリ
又は、少名彦の薬師像
とも。



押武金日尊とは、

「広国押武金日天皇」のことと思われ、
安閑天皇(あんかんてんのう)
ですよ!
(6世紀頃)

恵美押勝の乱の頃かな。

美濃・三河・尾張の御三家。

武甲山に関しては、守屋姓という名の、
神官とすると決まっていたようだ。

守屋姓を派遣しているということ。

(神を守る意味があってつける)

熊野大権現を武甲山山頂にも祀っていましたが、
守屋左京~という名があり。

「左京」なんだろうな~。
たぶん、妄想するに、

時代が古いので、安閑天皇との関連を
示しているのであれば、

かつて、道鏡で揉めていた時代の物部氏側(道鏡側)
の系譜をもつ人が、物部姓を名乗り
神官として務めるようになったのかなぁ。

(お彼岸に道鏡と伝わるお墓にいったしな・・・)

 

 

これがネックな歴史・・・



でも、これは面白い。
地元ネタですけど。

そもそも、壊されているから、
武甲山の奥の院がなんだかわからない。

 

この奥の院とはどこか?

 

■青梅にある岩蔵住居説-----------------

ネットに関係していそうな情報をゲット。

※岩蔵鉱泉について参考にさせて頂きます。

(勉強になりました)
http://okachan.blue.coocan.jp/nanatsuyu/01iwakura/0102ooiwa/iwakura2.html

 

 



岩蔵住居跡は、縄文中期の竪穴式住居や遺物が発見され、
青梅市の史跡になっています。



伝承では、ヤマトタケルが岩蔵温泉で身を清め、
天神地祗を御嶽神社に祀り、
岩をたたみあげた蔵へ鎧1領を納めたので、
岩蔵という名がついた
という。


※岩蔵住居跡

 

 


ということで、武甲山の伝承と同じ。


『新編武蔵国風土記』に「岩蔵古跡」があるので、
そのことだろう、と。

実際、ヤマトタケル(実際の人がわからないが)
大碓命・小碓命と、言います。

 



岩を積み上げて倉庫としている場所で、
昔、誰かがそうして倉庫の中に鎧を納めていたもの
という。

だんだんすたれていく鎧をみかねて、
多摩郡御嶽神社へ納めたとのこと。

その地域の名前に大串や渡邊姓があるため、
子孫の可能性あり。


鎌倉時代、大串次郎重親という武蔵国出身の
丹党一族、横山党がいました。

比企郡におり、吉見町とあるので、
吉見百穴あたりでは?

(幼稚園の時登っていた墓場だ…)

その鎧が、大串氏のものではないか?とも。
真相は謎。



※青梅資料館:紫裾濃鎧(むらさきすそごのよろい)国宝。

弘安の役(1281年頃、
惟康(これやす)親王より
蒙古撃退祈願のため奉納されたと伝えられる大鎧です。


で、この比企郡が繋がる・・・。


ちなみに、武蔵御嶽神社の奥の院「甲籠山」が、

甲冑を納めた伝説になっている山です。
 

 

 


甲の籠??

ということで考えると、


「武蔵国」という名をつけるための由縁として、
日本尊命が冑(もしくは鎧)などを置く「岩蔵」にしたく、

武甲山に冑を置いた伝説にした、ということです。

この伝説を武蔵国に流布させたのが、
丹党の一族と思われます。


関係ない人には、関係ない武甲山だった・・・

別に武甲山でなくてもいいのだが、
古来は、イワクラ信仰にあるので、
後に、ヤマトタケル伝承としている。

紀州の熊野があることを考えれば、
トベの風習にもみえる。

 

※「トベ達の悲歌:津名美代」 ・・・埼玉県比企郡

 

比企→日置部(古代太陽信仰)、

和歌山県西ムロ郡「日置川」

→忌部日置部が居住。

 

この事から、

吉野派修験者(伊豆に配流された役小角)

から、熊野修験がやってくることに。

 

かつては、蔵王権現と熊野権現だった。


それまで、武甲山は、神奈備山なので、
名はなかった。

その聖山を、武士の勲章とすることで、
名を、武甲山にした丹党一族がいる。

自分たちの先祖を、武甲山に託したのか。

甲冑を着ている武甲山なのか・・・
だから、重たい。


これには、畠山重忠の存在が大きく関わると思う。
奥州征伐で東北にきてるからね~。

 

やっぱり九州。
大串とは、薩摩にもあるね。

そのため、徳川家康の家臣に「日下部氏」がいたのも、
「くさかべ」と言いますので、


日置部の系譜をもつからと言われ、

鹿児島県(薩摩)がルーツなんだ。

熊襲の方?

和銅黒谷がとれた時「金上无」という人がきており、
津島朝臣堅石と、日下部宿禰老の名がある。

新羅系の渡来人。

和銅がとれた事から、
丹党が生まれ

水銀(金)の丹生一族がうまれる。

鉱石を得るものが、国を統治できるとな。

武甲山がそんな丹党の聖山と
みられていたから、徳川家康も敬意を示したのでは?
 


秩父には古くから多治比氏がいます。
「しんじんorまひと」というカバネが影響してます。

 

※武蔵国の歴史より

 

多治比氏の出生由来が、イタドリの花が産湯に落ちたので、

多治比=虎杖=イタドリから由来するという。(産鉄用語)

 

虎の「杖」なんだよ~。

 

 

丹治比氏の後裔を名乗る武士が、武蔵丹党になっています。

 

 

 

羽をもつ羊の人・・・和銅黒谷の伝説。

その「真人」の背景には、
道教思想があるので、秦の始皇帝のことになっており、
仙人の高級者という。


妄想するに、道教の思想を受け継いだ者の意味で、
その真理は、カバラを熟知している人のことだと思うが。

 

鉱物資源→卑金属を金へ。

 

こーいうことなのね。ニヤニヤ

(楽しそうなんだけど)

 

 

中国:渡来人の図・・・(八仙人。真人ともいった)

 

船をこいでいる女性は、たぶん、「嫦娥:じょうが、こうが」

といい、「月の女神」あるいは「天女」です。

※さきたま古墳群で登場してた。

 

・・・ある夢を思い出したけど、

震災のすぐ後に所沢に住んでいた頃、

秩父の友人と武甲山に登った日にみた夢が、

 

片目が大事。

と誰かにいわれて、右目だったと思う。

 

右は、ツクヨミで弓月らしい。

そのメッセージでは。
 

だから隠れるところなんです。

隠居というのは、身を隠す場所ですから。

 

 

サンカぽい。

 


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そんな武甲山に、
徳川家康が・・・

1596年、鉢形城主日下部丹後守に命じて、
武甲山の社前に、神楽装束鏡百面太刀
三十振白銀三十枚、社領三貫文、
および永年太々神楽奉奏という莫大な寄進をした。


これにより徳川家康は勝利し、江戸幕府を開く。


続いて、1615年、大阪冬・夏の陣で
戦った時にも、人を遣わし、
五郎入道正宗の太刀を武甲山社頭に捧げる。

※「横瀬町誌 人と土より」




家康は、関東鎮護の霊山として宝剣一振を奉納、
次の秀忠も奉納したと思われる文書もあるという。

数度の落雷の火災のため確証はないが、
上の図のように宝刀といわれるものが伝わる懸願が現存する。

徳川家康は、武甲山を浄土思想とみていたと思いますが、
依存してますよね。真顔

武甲山は関東武士にとっては、
貴重な山だったことはうかがえる。

なんかあるでしょう。

九州の大串にも、
菅原道真に関係する話がある。

武蔵七党というのよね。

由利十二党とか、
和銅黒谷は十三だし。


そんなことなので、
ヤマトタケルになりたい関東武士はたくさんいたわけですが、

それでやっと見つけたことがあったのです!

さきたま古墳群の事を書いていた時に、
何かのことで、コノハナサクヤヒメと
古墳群が繋がって書いていた気がしたが、

見つからない。

なので諦めていたが、これが見つかった!

(さきたま古墳は関係なかった)


日下部のことだった。

「日下部氏発祥とされる都萬神社(つま)は、宮崎県にあり、
コノハナサクヤヒメを祀る。

この近くにある古墳群「女狭穂塚(めさほ)」は、
九州最大の古墳群といわれ、被葬者は女性。
コノハナサクヤヒメではないか?と。」

 

 



コノハナサクヤヒメは、阿多族の姫のことでは?


なにかあるから、こーーいう時に見つかる!!

と、関心してしまうよ。

日向、熊襲、阿多、などなど。


甲の籠という名も、籠神社→日下部氏。
真名井っぽい気がするし。

それに、前方後円墳の形には、マナというユダヤ説?もあるね。
(食物起源)

全部、この話しのこと。
ずっとこんなことがぐるぐるしてるね~・・・

 

 

真名の話し、空海の日下部(母方)、
藤原仲麻呂の乱、甲山(兵庫)、カバラ、真言・・・


たぶん、私が心底、納得できてない?から、

 

ずっと、鶴と亀が統べりっぱなしで、

統べってるんだかなんだか。。。

それに、この過去に書いた記事には、

雄略天皇のことも書いてる。

 

佐伯氏のこと。

 

 

むむ〜。


妙見さんの亀は、浦島太郎の伝説になっており、
亀の竜宮のことだよ~。

夢でみたのは、とても小さいモノだったが。

 

 

ヤマトタケルが供養(もがり)していた話もある。

 

たぶん、飯盛山はこのあたりと思われ、

飯を盛るの意味は、もがりをしていたことに由来するでしょう。

 

 

いろんな人々を供養してきた山。

 

私だったら、ここの飯盛山に降りてきたいよ。

もう発破されてないけど。

 

 

「氷川どっけかぶり山」

という秩父弁まるだしの名前もあるよ。

 

地元民が勝手にいろんな名前をつけているので、

もう、なんだっていい気がする・・・


そんなことで、
明日は、秩父夜祭りです。