紅葉シーズン。

に、
妄想シーズン。

パート3.
まだ続いてしまいます・・・コアラ

最初に秦氏の名を知ったのは、
福島に養蚕を伝えた小手姫の伝説を知ってからです。

地元に伝わる話では、

小手姫の父と娘、秦氏一族と「少人数」で逃れ、
地元の人に養蚕を伝えていたが、
「名を明らかにすることはなく」静かに暮らした。
という話しでした。


家族が一緒だと全員殺害されてしまうので、
息子だけ、出羽国へ逃れ出羽三山を開いた、という話しも。


秦氏がサポートしていたような話しで、
山形では聖徳太子が蜂子皇子に
出羽へ逃れるように促した、みたいな話にもなっています。


さて、

先に、言ってしまえば、
香野姫(鹿屋野姫)という草野姫は、
別名「丹生都姫(にふつひめ)」になっていると思います。


なので、秦氏が崇拝していたのは、
丹生の姫だったと思います。

辰砂(しんしゃ)です。(後で書きます)

いろいろ繋がるのですが、
まずは、阿波(徳島県)について。

阿波忌部と秦氏の関係は、よくわかりませんが、
東北にきていたと思われる阿波忌部を
秦氏の名に変えているのか、


秦氏が隠しているのか、
何か関係していると思います。

福島北部、宮城県南には青麻神社が
けっこうあるんですね。

もちろん、機織が伝わっている地域にです。


■南相馬の阿波忌部氏------------------


まずは、相馬の話しから。

卑弥呼とは、『魏志倭人伝』に登場する242年~
というかなり初期の頃で「鬼道」を操る巫女と
描かれております。

 

※どっかの大阪の資料館にいる卑弥呼

弟が政治に関わり、
姉の卑弥呼が神託を受けとる→弟が民に伝える。

『神功紀』には、卑弥呼と同じように書かれているので、
神功皇后が卑弥呼と同じようにみられていたようです。

ところで、卑弥呼がいた邪馬台国論争では、
九州説と近畿説があります。

どちらもあったと私は思うのですが、
もうひとつ、徳島県の阿波国が邪馬台国だった、
 

という説があります。


東北に阿波忌部はきていたのか?
以前書いたことのまとめです。


阿波国の卑弥呼→阿波忌部氏
九州の卑弥呼→秦氏

と、想像します。


この場合の卑弥呼とは、いずれも
「丹生」が関係していると思います。

南相馬には阿波忌部の痕跡があります。

 



阿波忌部は「鷲」

だそうです。

(宇宙のメッセンジャーの頂点にある鷲)

 


阿波忌部は黒潮に乗って千葉県(安房)へ到着し、
陸路で南相馬までやってきたようです。

 



祭神である天日鷲命(あめのひわしのみこと)は、
弓矢など武器を司る戦の神であり、
代々、奥州相馬氏から戦場での守護神として
厚い信仰を集めていました。

 

 

千葉に上陸して開拓した阿波忌部の安房神社。

 



今、沖縄の軽石の被害がありますが、
流れをみるとわかります。→「1」

 



海民も黒潮に乗って、沖縄~九州~四国~関東へ。
と考えられます。(軽石はいずれ関東にも到達する?)

 

新しい島ができているから仕方ないことではありますが、

漁師は大変です。

魚が・・・

 

こんな風に、私たちは自然から大きな影響を受けていたんだ、

ということを、気づかされることが頻繁に起こるのでしょう。

 

 

養蚕の碑

 

山津見神社の碑



簡単に言いますと、忌部氏は数多くの
技能集団のようで、それぞれ○○忌部として
部民になっています。


阿波忌部は、主に麻や楮を織物として
天皇家に献上しており、今もその伝統は続いています。


山形県南陽市では讃岐忌部の祖神、
手於気穗於威命(タオキホオイノミコト)
を祀る漆山神社があります。

 

 

その地は「鶴の恩返し」が伝わる所です。
「夕鶴の里」という展示館もあり
機織の地なのですね。


京都へ旅した後、
ここに来る流れになった時には、
秦氏の存在を感じたものです。


そして、漆山神社には、
聖徳太子の像が祀られています。

漆は、縄文の象徴です。


タタラの地には「太子講」が広まっています。
聖徳太子信仰は、
秦氏or蘇我氏が深く関係していると思います。


ということなので、
東北にも忌部氏崇拝の痕跡は、探すとあるかもしれません。

 

 

■阿波国の卑弥呼-----------------------


そんな阿波忌部の発祥といわれる徳島県に、
邪馬台国説があるのですが、
それが「丹生」のことだったのです。


鹿江比賣神社(鹿江比売神社)(かえひめじんじゃ)
というのがあります。

 



『延喜式神名帳』阿波国板野郡にその神社名があり、
祭神は鹿江比売神(命)と見られており、

「かえひめ」の訓から草野姫(かやのひめ)
と同神
とされます。


ということは、

この場合の草とは、大麻のことを指す模様。

阿波国一宮が大麻比古神社で、
天日鷲神を祀っています。



天照大神が天岩戸に入られたとき、
岩戸の前で神々の踊りが始まり、


天日鷲神が弦楽器を奏でると、
弦の先に鷲が止まった。


という神話が、まるで神武東征のトビ(鵄)のようなんですね。

なので、
福島県に伝わる機織伝承地に
香野姫というあまりなじみない東北の女神に

藤原実方をもってきているのも、
辰砂の丹生があったからと思います。
→砂金のこと。


それが、邪馬台国が阿波だったことにも繋がります。

これが面白い。

阿波国が邪馬台国である論争のひとつに、

卑弥呼が中国王朝に献上したとされる
鉱物の採掘場所だった
「若杉山辰砂採掘遺跡」

 

(徳島県阿南市)が、
国の史跡に指定される見通しになったそう。



中国の三国時代の歴史書「魏志倭人伝」には、


倭(日本列島)の山で採れた丹(辰砂)を、
卑弥呼が中国王朝に献上したと記されている。


卑弥呼の時代に、辰砂が発掘されていたことが
わかったという事なんですね~。

 

 

秦氏もこの時代に渡来したのかな?

動画に阿波国の邪馬台国など
いろいろありますので興味ある方は、
参考にしてみて下さい。


その中に、「伊国」とよばれていた事が言及されていたので、

気になっていた「イ」=(阿波の古名という)は、
邪馬台国のことかもしれません。


しかも、「最古の鉱山遺跡?」までもが。

こちらの情報にのってます。

若杉山遺跡

 

 


古代には辰砂を含んだ岩石を砕き、
死者の顔や棺(ひつぎ)、

古墳の石室などに塗ったそうです。

ということで、辰砂がいかに重要な宝だったか。

日本は、辰砂だけではなく、
翡翠や黒曜石もそうで、
日本列島で産出される鉱石を、
大陸に献上しているのですね。



なので、アカルヒメといわれる「メノウ」もそうです。

メノウや翡翠は、
邪馬台国では装飾品だったのです。

 



青森県、津軽地方の海岸沿いで採れる水摩礫。
赤と黄色は周囲の土壌や埋まっていた
地層により自然着色されたもの。(wikipedia)


日本は、鉱石の加工技術がピカイチだった!
それは新羅人の技術でしょう。


新羅の人は衣服に装飾品を
たくさんつけていたと考えられ、

太陽の光に宝石があたる時に、
「キラキラ光ってみえる」演出をするためだったとか?

 

いや、もう~ノリがラテン!


実際、韓国で新羅がいた場所を発掘すると
西洋の(ローマ・ギリシャ)
王冠など装飾品がたくさん発掘されているそうです。

 

勾玉の王冠です!(女帝ですよね)


※朝鮮新報(5世紀、慶州市金冠塚出土)
https://www.chosonsinbo.com/jp/2012/06/kmbi_27/


ちなみに、メノウは「瑪瑙」と書き、
馬の脳に似ているから、というが・・・

古墳時代に瑪瑙はありましたが、
馬ねぇ。→群馬にも関係するよ。

なぜ、そんなに辰砂が必要だったのかは、
水銀と金が関係しています。



丹は、「賢者の石」といわれ、
金に変える(貴金属)ことができるから、と言われます。

 

※賢者の石を求める錬金術師

秦氏といえば、徐福(じょふく)の不老不死が有名ですね。

水銀を飲んでいた秦の始皇帝など。

日本にそれを求めてやってきた渡来人とも言われますが、
「錬金丹」というのがあり、

金を体に入れることで永遠の命を得る、
といった思想があります。


辰砂は、水に解けにくいので「毒性が低い」そうです。


それに対し、メチル水銀など水に解けるものは「毒性が強い」

解毒として使用され、
痛みどめのように鎮痛剤や睡眠薬として用いられたそうです。

他、顔料にも使われていたそうです。

即身仏になるために、湯殿山の水(水銀を含む湯)を飲んだ話は

有名ですね。

 


秩父には丹党一族がおり、
秩父を含め埼玉県周辺には、丹生都姫を祀る神社が多いです。

 

 

赤い点が、「丹生」とつく神社。

群馬県側に多いので、

養蚕と丹生が関係しているから、と思います。

和銅がとれたために祀っていることもありますが、

和銅黒谷の山を「聖神社」(山じゃなかった)
と言いますが、銅がとれた裏手の山を
祝山(ほおりやま)」と言った。

丹生都姫の神職は、「丹生祝」として、
祝(ほおり)の名をつけるそうです。


秩父の場合、多治比がそうであるように、
真人の名をつけるイスラエルの話しをしていましたが、


多治比は武蔵の豪族です。
丹党一族ですから、多氏であったと思う。


また、丹生都姫は紀州の紀の川が発祥なので、
秩父にも熊野信仰が入っていたのは、
丹生の炭鉱を探すためでしょう。


あまり武蔵は金がとれなかったので(奥秩父ではとれた)
東北へ向かったようです。

秩父に阿波忌部はきていないと思われ、
茨城に上陸して利根川を使って群馬へ入ったと考えられます。

群馬県が養蚕の地になったのは、
阿波忌部のこともあるそうです。


秩父は、天皇家(秩父宮)
との関わりがある地です。

※雲取山にある秩父宮のレリーフ

熊野信仰が広まっていたのは、
紀氏=丹生=ワカルヒメノミコト(稚日女)

が、秩父にも関わる。


ワカルヒメは、天照大神の妹神、とか。

ワカル ヒメ?

ワカヒメ?


う〜ん、

幼少の頃の天照神とも言う。

オオヒルメムチなんじゃないの?

てか、天照大神は男性だよね?

「ホツマツタエ」では、確か、
秩父彦に和歌をおくったのが、ワカヒメで、
稚日女じゃなかったかな~。
(ヒルコなんよ)


やっぱり、長くなるもんでね。笑

いままでため込んできた情報を
まとめているので、

どうしても長くなってしまいます。

では、その辰砂について、
東北にも、丹生のヒミコを祀っています。


次にまとめて、最後にします~。