どんどん繋がっていきます~。

 

とにかく、繋がるペースが速いのです・・・

ついていけなくなってきた。

山元町(深山)の帰りに、
亘理町の鹿島天足和氣神社に寄ってみました。

 

 

神社前に広い公園があったので行ってみると、

良いネーミング!照れ

 



あまり亘理町は立ち寄ることがないのでね、

新鮮でした。

 

 

神社は左側の森。

 

 

まだ新しい公園なのかな?

 



住所:亘理町逢隈鹿島字宮前にあるので、
鹿島の宮です。

 



歴史では、藤原経清(初代奥州藤原氏の父)
がこのあたりに居住していた所(鹿島地区)です。

平永衡も関わっている土地なので、

東北の歴史において、重要な地だったと思います。

 

が、ほとんどの人が知らない所だと思います。

 



神社庁による由来が非常に長いのですが、

抜粋します。

 



景行41年(111)辛亥8月6日、神宮寺村の三門山頂に、
日本武尊の創祀と伝えられます。

創祀は、武甕槌神だけであったが、
稜威雄走神(鹿島伊都乃比気神社)を左殿に、
猿田彦命(鹿島緒名太神社)を右殿に奉斎して鹿嶋三社大明神と称した。


神領地は、神宮寺村と鹿島村に2500束あったが、
天正の乱で喪失したといわれる。

延暦元年(782)壬戌5月朔日

鹿島神を祈りて凶賊を討伐するに神験顕著なるもの有り、
望むらくは位封を賽せんと勅して、
勲五等封二戸を授けた。(続日本紀・社蔵文書)

貞観4年(862)壬午6月15日、官社に列し鹿島宮と称した。

貞観8年(866)正月20日、常陸国鹿島大神の宮司、
延暦以来封物を割いて奉幣していたが、弘仁後一時絶えた。

嘉祥元年になり再び奉幣しようとしたが、
聴許されなかったために、
神の祟り止まなかったと言われる。

 



延長5年(927)延喜式の神名帳に載っている、
亘理郡四座のうちの1つの式内社です。

天慶4年(941)に、北鹿島の樫木山に遷祀され、

さらに貞享3年(1686)丙寅年4月6日、
亘理舘主5代伊達実氏公北鹿島に鹿島御殿を建てることになり、
現在地に遷し鹿嶋大明神と称した。


舘主伊達氏累代の崇敬篤く、
寛政2年(1790)庚戌3月24日、

舘主10代伊達村氏公が、南面であった社殿を、
鳥の海を向く東面」に建て替えた。

 



明治41年に鹿島村の八幡社、
高屋村の高屋神社、八幡神社の三社、


明治42年に神宮寺村の春日神社、
八雲神社の二社を合祀した。

明治41年(1908)現在のような社殿改築に当たり、
今まで拝殿にしていた建物を切り離して、
南向きに向きを変え神輿殿にしている。

明治44年(1911)神饌幣帛料供進社に指定され、
祈年祭や例祭に逢隈村長が幣帛を奉った。

 



明治時代までは、4月8日春の例祭典・御神幸祭には、
鹿島吹田の下木戸になる御腰掛場で、


田沢の安福河伯神社の御神輿と合流して、
二基の御神輿が亘理の町並みを南に進み、


山下の八手庭から東方太平洋の吉田浜海岸まで浜降りなされて、
高屋の神休場で休んでから二基の神輿が、鹿島吹田の下木戸まで西進し、
お腰掛場で盛大に分列式を挙げた後、

それぞれの鎮座地である西の鹿島社と北の安福河伯神社に
お還りになったと伝えられている。


ということで、御浜降りをしていたようですね。

 



ざっとこんな神社が並んでいますから、
高天原が、ここまで及んでいるみたいです。

 



①熱日高彦神社
②香取神社
③藤田神社
④住吉神社
⑤諏訪神社
⑥鹿島天足和氣神社
⑦春日神社

 

阿武隈川沿いにある山に連なって

痕跡を残しています。

九州の兄に対し、弟の東北にしている感じはするな~。

そこに猿田彦命が関わっていますね。

猿田彦命を祀っているのは、
栗原地区に多いように、「凶賊を討伐するに」
とあるので、太陽信仰(大和:朝鮮系がルート)

→高天原の子孫?


外国とみられていた東北は、
辺鄙な意味がある「ヒナの国で、
ヒナカムイ→ヒナカミ=ヒタカミ説がある。

 

鹿島神と一緒に祀ることには、

意味がある。

この神社は、物部氏ぽい気がしますが、
フツノミタマ(天羽々斬)としているのは、

本来の意味としては、大蛇の「カカ」が定説。

目をかっと見開くカカの目は、

ほおづきの目をする猿田彦命の伝承にも登場します。

カカ=大蛇ですが、ハハに転じ、アラハバキ説もあります。

想像するに、遮光器土偶の目がカカが閉じている目みたいなので、
これがカっと開くことがあるのかな~と思うことがあります。

 

ちょっと怖いけど・・・・ニヤニヤ

第三の目が「閃く」意味にも、アメノハバキリの意図があるらしい。
そんな説もあり、物質界のものではないと思われます。

 

 

※ヤマタノオロチとスサノオの像(出雲市駅)

国学院メディア

神話でのアメノハバキリとは、

スサノオが出雲国のヤマタノオロチを退治した時に用いた神剣。

スサノオのヤマタノオロチの神話で、
この大蛇の「」を斬ったとき、


十拳剣の刃が欠けたので、尾を裂いてみると都牟羽の
大刀/都牟刈の剣(非常に鋭い剣)が出てきた。

これが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)であり、
その別称が草薙剣(くさなぎのつるぎ)とされる。


スサノオは天叢雲剣を天照大神に献上したとの事。

刀の技術を伝えているようでもありますが、
蛇の尾だから?前回、深山で高魂神社のことにちょっと
触れましたが、地名が「尾山」なんですよね。

ヤマタノオロチの「尾」の部分に関わっているなら、
興味深いですね~。

龍の頭、胴体、尾。

ところで、その剣は、石上神宮では天羽々斬剣とされる鉄刀が、


布都御魂剣とともに本殿内陣に奉安され祭られている。

との事ですが、

岡山県の吉備氏がいたところにも石上神宮があり、
最初はここにいたのを、大和の「布留(ふる)」
に移動した説がある。

吉備国と隼人がいた日向国は、
当時、広大な国が存在していたとされ、

朝廷(大和)と対立していました。

弥生の発展は北九州ですから、
出雲地方~青森へ向かっています。→遠賀式土器


スサノオが平定するには、鹿島神の力が必要で、
フツヌシの剣が登場するわけですが、

物部氏らのもつ霊力を、
スサノオが新しく中臣氏政権に変えた感じもします。
(そういう神話にしている:スサノオに退治させた)

 

■伊豆比売のこと----------------------

さて、もっと深い話しがある。

 



このハバキリのことを別名

稜威雄走神(いつのをはしり)」と言い、『日本書紀』
これを記しているのが、珍しいと思います。

「故、斬りたまひし刀の名は、天之尾羽張と謂ひ
亦の名は伊都之尾羽張と謂ふ。」


ヲハシリの意味は、
刃の閃光が鋭く走ることの形容とする説、
刀剣の鍛造において閃光が飛散する説、

その血が岩に「走りついて」神々が生まれたことに由来し、
これが「走り水」になっていると。

誤字説もあって、繰り返しを表す「〻」と
「之」の字との形が似ているため、
伝写の過程で「乎波〻利」「乎波之利」になった説がある。


※国学院大学古事記学より(神名データベース)
http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/amenoohabari/

波のような字であったため、
水を条件としたタタラ製鉄の意味になっているとのこと。

 



まあ、そうですよね。
このあたりからずっと北上しても
タタラ場の跡地はたくさんあります。

水や水利権も、もちろんそうですが、

もうひとつ隠された意味に「伊豆」があった。

稜威雄走神→伊都(豆)之尾羽張神

「いづの」

ここから、走り水(走り湯)説があり、
伊豆能売(いずのめ)という水の霊力で、

イザナギが黄泉国から帰って来た時に、
禊をした大禍津日神(まがつひのかみ)


の「曲」を直そうとした時の
巫女(伊豆ノメ)ではないか、との話しがあります。

 

神話によるとヤマトタケルノミコトが走水で船を上総国(千葉)へ渡ろうとしたら、

 

海神(ワタツミ)の怒りをうけ、愛后のオトタチバナの入水により

荒神を鎮めたという話が残っています。

 

 

オトタチバナの彫刻と舵の碑。

2012年に行ってました。

 

走水神社

 

■伊豆国造---------------------

この説が、けっこう繋がるのです。

はしょりますけど、
簡単に言えば(にしても長くなる)

伊豆国造は、
『先代旧事本紀』「国造本紀」には国造の祖は物部連の祖。


大体、物部氏の名がみえます。

伊豆氏が後に日下部氏となっている。

日下部は何度も登場してますが、
太陽祭祀をしていた民族。

日置部(九州)から東北へきてます。

この伊豆国造の系譜に
「天足別命」の名があり、「アメノコヤネ(天児屋命)」です。

だから、物部氏→中臣氏へ。

物部氏のフツの剣を中臣氏に渡しているような。
物部氏の復権を待っているモノがいるのかも

 

それ、私だ。ニヤニヤ

ナグサトベのハイヌベレのひとつ、
宇賀部神社というのがあり、蛇体の宇賀神、
ウカノミタマなんですねー。

祭神は、カグツチなので物部氏が崇拝していたのと同じ。
頭の神様といわれます。

ここからが、面白いんだけど、
名前のコヤネが「屋根」だから、天孫。

「屋」です。

 

アマノコヤネは、秩父に多い。

知々夫国造の祖として知られる天表春命・天下春命の二神は思兼神
ですから、秩父神社です。

天表春命(天上春命)・天下春命とは、ウワハル・シタハルといい、

上と下がいて、下の方が弟。

しかし、兄なのかどうか「上」の方が謎。

もしかしたら、古来の卑弥呼のように、
姉と弟かもしれない。

姉=ネ(根)
弟=ト。

干支は、エ(兄)ト(弟)の陰陽になっています。

夫婦の「めおと」は、め(女)男(お)ですね。



弟の(天下春命)が、秩父国造の先祖になり、
多摩地区にある「小野神社
のこと。



知々夫彦は、ホツマツタエに登場して、
和歌が上手だったワカヒメ(→シタテルヒメ)
から告白されている。


それが阿智氏の祖も同じ思兼命で
32人の「チームニギハヤヒ」の一人です。

団結心が強い。

思兼命は、長野(信濃)から秩父に入り、
阿智氏の祖となり開拓します。

なので、亘理町にも諏訪神社があります。
(このあたり、けっこうみかけます)



「阿智氏」という「ア」の人で、
阿武隈川に上陸し、熱日高彦神社の「アツヒ」が、
阿智氏のアチに転じたと思うな~。

 

 

立派な神社です。

阿武隈川にのって上陸しています。

熱日高彦神社の境内に(上の方)
平永衡の由縁となる石碑があるのですね。

 



詳細わからないけど、阿部氏に関わるものと思いますが、

講の人達が建てたかもしれない。

 

おまけに馬の神様も。

馬と人間のハイブリッドみたいな伝説。

 



平永衡(伊具十郎)という方は、阿部貞任といた時代、
藤原経清と、行動を共にしていたが、
敵側についていた疑いをかけられ処刑されます。

深山の裏手にある八竜城のことね。

この平永衡は、千葉県夷隅国(いすみ)出身か?と思われる、
武蔵の平家一族。



牡鹿部人(春日部奥麻呂)といわれた武射臣(むさ)がおり、
というからに、武蔵っぽい。

春日部直がいた千葉県の出身らしいから。

 

だから、繋がっています。

これは以前にも書いた蝦夷穴の横穴石室、
坂東からの人々。

 

 

鹿島の天足→剣→伊豆比売→伊豆国造→天下別命→アマノコヤネ(天の岩戸開き)

 

 

阿智氏については、まだいろいろありますが、
また何かに繋がったら書こうと思います。

八意思兼命は、「思いを兼ねる」のですから、
「金」とも書きますけどね、

一つで二つ以上の働きをする「八」の意です。

 



※「トベ達の悲歌」津名道代著

丹後国皇大神神社の江戸時代前期の
木版パンフレット

 



神話「天の岩戸開き」の図。
忌部氏の祖神、布刀玉命も中臣氏の祖神。
アマノコヤネも同じ。

 



天照神の戸をこじ開けているのが、
手力雄神ですが、男女で描かれてます。

 

伊豆となれば、火と水ですね。

 

 

舞台は、富士山付近ですから。

 

■おまけ---------------------------

 

 

 

千手観音堂

 

 

毘沙門堂と十二神堂

 

 

 

 

エドヒガン桜

 

 

 

 

 

亘理町探訪でした~。