本州最北の大間崎へ。
まぐろで有名ですね。

少し大間町の歴史を。

 



猿の親子をみかけたのですが、


氷河期の海面低下で最北のサルたちは、
北海道と本州を往来する陸橋化を生み、
北方の生物が南下してそのまま棲みついた。

 

そうです。

 



「本州最北の地」


南からやってきたわけではなく、
北海道と陸続きだった時に南下したわけですね。

 

 



縄文遺跡は東日本全土にたくさん残っています。

下北地方は、亀ヶ岡文化の中心地ともいえる南部地方と、
その北辺にあたる北海道との間に位置します。


北方の遺跡からは、
クジラの肋骨で作られた鍬が出土し、
貝塚では魚骨、獣骨などがたくさん見つかっています。

古くからクジラ漁をしていたのですね~。
→ドウマンチャ貝塚

 


本州最北の遺跡は、「烏間遺跡(からすま?)」
だそうですが、情報なし。

 



ツングース系北方民族集団は、
6,7世紀頃にはサハリン経由、
オホーツク海~日本海~544年には佐渡に、
交易目的で来航。

見慣れぬ姿、風習に「鬼魅(おに)」とよばれた、そうです。

オロチョン族の先祖は、北方民族で
古代ギリヤーク族などが多いですが、
ロシアの方なので、白人との混血が多かった模様。

 

※弁天島

 

 

灯台は修理中。

赤い弁天社が目立っていました。

 



「女真(じょしん)」が有名ですけど、
後の満州民族となっている。


モンゴルの方みたいですな。
砂漠の民→騎馬民族。

ミシハセのこともツングース系と思われ、
噴火しそうな白頭山周辺にすんでおり聖地だった。

強いツングース系民族で、

日本の大宰府などを襲っています。
海賊強し・・・

唐の高宗という中国の史書に(遣唐使を伝える物)
によれば、

「遠きものを都加留(つがる)といい、
次のものを麁蝦夷(あらえびす)、
近いものを熟蝦夷(にぎえびす)という」


と記されている。

 

和人の血縁から遠いという意味でしょうか?

 


ツングース系民族が入っているので、
朝廷が苦戦したのも想像できます。

大間、佐井村を拠点としたのは、
胆振さい(金偏に且)のエミシとあり→「いぶりさい」
「渡島蝦夷」との部族とされる。

渡党」が北海道にいましたね。
前回の阿部比羅夫のこと。

14世紀、蝦夷ヶ島とあり、日ノ本orアイヌと推定され、
唯一、和人とコミュニケーションをとれた部族だったことから、

津軽を往来して交易をしていた和人系アイヌとされる。

 

 

北海道はすぐそこ。


松前藩が北海道へ渡ったのは、
武田信広という人で、渡党のリーダーだった。

彼は、西の人(和人)

南部藩と関わりをもった甲斐(現在の甲府)もおり、
馬同志で繋がっています。

 

が、私は甲斐武田は山梨だと思っていたら、

武田の発祥は、茨城県だった!

 

だから坂東がたくさん陸奥開拓にやってきているのですね。

なっとく~。

しかし、元はアイヌに帰属意識をもつ渡党だったのが、
移住してきた和人が既存の渡党の体制を吸収した為、

彼らが渡党と名乗った(陣取った)とも言われる。


和人化したことで、15世紀、コシャマインの戦いが起こります。
コシャマインは、渡党の和人化に反対していました。

 

※石川啄木の歌碑

 

「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」

 

この舞台の歌は大間ではないか、との説。

 

ところで、

アイヌ人の神の言葉には「k」音が多いという。
カミ、クシ、カイ、など。


オキクルミの伝承がありますが、オキは、目覚める。
クルが影、ミは女。


「目覚める影の女神」

なるほどねぇ~。

ところで、和人化したアイヌとは何か?

錦の衣装をきたアイヌ人の姿があります。

こちらにアイヌの神宝と共に書いています。
貴重なものです。

 


参考に。

 

■寒立馬(かんだちめ)-----------------------

ああ、うまっこの話しを忘れていた。

話しは変わり、

 

大間崎から太平洋側へ向かいます。

 

むつ湾~日本海~太平洋側へ。

なぞってきた~。

 

左端から右端へ。

 

 



青森県下北郡東通村尻屋崎周辺に放牧されている馬。
厳しい冬にも耐えられるたくましい体格の馬。

 



顔がカピバラに似ていてかわいい~。照れ

 

 

※wikipedia(冬の寒立馬)

南部馬の系統。

 

ほんとは、こんな光景を期待していたが、

 

 

 

何もいなかった・・・・泣

 

 

し~ん。

 

 

 

またしても本州最北の尻屋崎

 


やっぱ、どさんこ馬とかいう

ずんぐりむっくりな、馬っこの方がいいな。


あまり戦闘で戦うような馬ではなかったようだが、
蝦夷馬とは、こんな感じだった様です。

 

そうそう、福島県の梁川八幡宮のご開帳をみに行った時、

馬に乗っている神様なんですね。

 

その馬が、どさんこ馬(北海道和種)とされ、

エミシ馬といわれる南部駒や甲斐駒の馬のルーツがあった。

秩父夜祭でも、神馬を街中を歩かせるのですが、
馬に神が乗っている→八幡神の影響。

親分、ホンダワケが神馬に乗っていたことから、
秩父夜祭もその馬の影響を受けています。

 

そんなことで、岬に馬がいなかったので再び戻ったら、

検問所のところ(入口)にいました。

 

 

これだと、普通に放牧されている馬になってるけど。

 

 

この日、たまたま検問していたのですが、

暴れていた寒立馬が目撃されたというチラシを頂く。

 

あら、馬もストレス・・・

 

 

しずか~に退散。カエル

 

とにかくね~、青森では八幡神社と出くわすこと多くてね。

ちょっと不思議なことがあり、

 

あの体験から、八幡神の見方が変わってしまいました。

それまでは、あまり好きではなかった。

 

なんだろうな~。

誤解していたことに気づいた時の、ハートチャクラの喜び。
 

それで、平泉にとびますが、地元の伝承ですと
平泉にある三峰神社は源氏の神なのですが、

どうしても三峰を建てたいために、
わざわざ南部駒を献上して許可してもらった話を聞いたことがある。

たぶん、これは甲斐駒のことじゃないかな~。
詳しくわかりませんが。

甲斐の黒駒とは、


甲斐源氏の一族、南部氏が東北地方へ移住しているが、
日本在来の北海道和種は江戸時代に、

松前藩から南部藩へ南部馬を導入し、
繁殖させたものだそうです。


甲斐の黒駒に近いとされる。

ヤマト王権と馬は深い関わりがあり、
東北地方にヤマトタケル伝承が多いのは、
馬に関係してきます。

群馬県がそうであるように、軍事力と馬の交易のため、
たくさん関東から移住してきてます。

 

石巻にもきてましたよね。

上毛野氏です。

エゾ馬がほしかったんだよね。

前もかいたけど、聖徳太子が伝説に登場し、
富士信仰が広まったことも関係しているらしい。

馬を山頂に奉納する祭りとは、
栗駒山の山開きと思想が似てますね。

 

 


そんなことで、こんな遠いところまで、
ヤマト王権はあったのか~と思うのでしたが、

追われてきた人が多かったわけですよ。

 



さて、この後、太平洋側沿いを南下し、
八戸へ向かいました。

下北半島はおしまい。
絶景をたくさん見せてもらいました。

むつの大地へ。

美しい海をありがとう。

 

 

田名部川

 

 

 

 

余談。

 

一昨日の白い満月

 

 

次は、八戸へGO!