珍しく台風が直撃しますね。

気をつけてお過ごしください。

 

昨日の夕焼けは、きれいでした~。

 



ところで、また、石巻へ行くことになりましたよ。

4連休はどこにも行く予定はなかったのですが、
最終日にずっと家にいたものだから、飽きてきて。

主人が石巻の新しくできた「震災津波伝承館」へ行きたいという。

 



主人は311の時は東京にいて、
津波の怖さやその破壊力、その時東北の人たちが
どんな風に過ごしたのかを、知りたいみたいで、

いつも復興した所へ行きたがります。

 



被災した人たちにとって、私もそうですが、
正直、震災の記念館や資料館をたずねるのは、
辛いものがあります。

 



でもここ最近、何度も石巻へおとずれ、
新しくなった石巻はみていませんでした。

海側へ行くのが怖くてさけてましたが、
(工事ばっかりしてるしー)

何度も通うようになったら、
とても身近に感じられるようになりました。

よいきっかけだと思い、行ってみることに。

 



この日、オリンピック関係者なのか選手かな~?
たくさんの外国人団体が訪れていました。

民族もさまざま。

どんな風に感じてるのでしょう?
真剣なまなざし。

これは、きっと、

「世界で共有すべき」

ことなんだと思う。

 



初めてきたのに、こんな国際的な雰囲気で、
復興の石巻に出会えるのが、とても感慨深いものになりました。

 

悲しみは、まだたくさんありますが、

「ありがとう!石巻」

石巻が、どんな風に変わろうとしているのかは、
直接おとずれてみて下さい。

 


(海が遠くなったね~)

さて、話しは変わり、石巻の古代史を。

 

■関東のエミシ------------------------

エミシはざっくりと言えば、
東北に住んでいる先住民ということになるのでしょうが、

ずっと前に、知人から「関東にきた豪族がエミシになった」

という話しを耳にした時、まだその時はエミシにあまり興味が
なかったので、へ~、な感じでしかなかったのですが、

この遺跡のことか、と思ったものです。

学術的に貴重な遺跡が石巻にあります。

五松山洞窟遺跡(ごしょうまついせき)は、
弥生時代と古墳時代の遺構を併せ持つ遺跡。

これは、前回いった矢本町の遺跡と、
同じタイプ(二次埋葬)のもので、

真野川河口、旧北上川支流に横穴遺跡群の遺跡が多い。

 

(現在、川名が変わり、旧北上川→北上川に。
北上川→新北上川)

 

 

この山のところ。

・・・近寄れませんでした。

『石巻市史』より、

「東の牧山丘陵地に形成され
海に浸食された遺跡で、多数の人骨とともに、

金銅荘圭頭太刀、耳環、衝角付武具、骨角貝装身具、
須恵器などが見つかった。」

 

 

 

やっぱり、岩盤がすごい。

 

金銅荘圭頭太刀は全国にみつかる豪族の証。

 

ちなみに、山形市にある大ノ越(古四王)古墳で

発掘されたのと大体、同じものです。(↓)

 



大陸(特に朝鮮半島)から由来するものです。

稲を広めた雲南省がルーツだったか。

 

完全な朝鮮族ではなく、元は日本人で

帰化した可能性がある。

 

そのため、「武寧王の墓」にこの太刀が発見され、

※武寧王=500年代の百済王。

 

墓の素材は、日本の近畿地方南部にしか棲息しない

高野槙(コウヤマキ)

の素材を使用していたとの事。

また、五松山遺跡には、エミシがかぶる冑と言われた形状の
「衝角付武具」が発見され、

衝角付冑というとがったような冑は、
北関東、東北に見られる特徴ある冑。

この衝角付冑について、

「ヤマト王権下の群馬の武人」

推定されたという。

 

 



※埴輪:群馬の武人
国宝(群馬県太田市飯塚町出土)

榛名山の噴火で火砕流に巻き込まれ、
甲冑をきたまま発掘された「甲を着た古墳人」を思いだすねぇ。

 

※榛名山(wikipedia)

 

榛名山も巨石信仰の聖地です。

このような冑から、独特な民族、文化、軍事組織があったとされ、
他と区別するために、
「蝦夷(えみし)」と呼ばれるようになりました。

 

※胆沢埋蔵文化センターのエミシ像。

 

蝦夷の冑は、耳がだらんとついているもの。
 

遺跡は、弥生時代の遺構は、後期から末期までのもので、
火を利用したものと、動物を解体した痕跡が見られるため、

この洞窟を拠点とした
「漁労等の個人活動を行なっていた」

と推察される。

古墳時代については、
角石群を利用した埋葬施設が主体となっているとの事で

縄文人もいたらしい。

人骨は合計19体で、そのうち2体は、
骨格の特徴に「アイヌ的特長」


が見られ、「家族墓的様相」が見られる。

青年~幼年期も含、男6人、女9人。
女が多く同族の墓と見られる。

「関東と類似しており」
男2例はアイヌと認められる。

関東も縄文王国だったので、
アイヌ人と思われる遺跡の人骨から

「縄文人と似ている」事が指摘されています。

下髄骨で縄文人か、わかるのだそうです。

それらは、6世紀から7世紀にかけての古墳出土の
副葬品・供献品と同質で、
同じ内容であり、被葬者の生前の地位身分が伺われると。

■荒田別(あらたわけ)--------------

6、7世紀頃に東国の古墳文化が誕生します。

上野国(現:群馬県)は馬の産地ですから、
エミシが馬を貴重としたのは、
群馬からやってきた豪族の影響があったと考えられます。

特に、上毛野氏という大豪族がおり、
早くに陸奥開拓へやってきた人たちです。

馬を神格化するため、駒形神を祀りますが、
高句麗の高麗=駒説もあり、

金銅荘圭頭太刀から高句麗由来かもしれず。

上毛野遠祖、荒田別(あらたわけ)は、
百済から招かれた人々。

群馬県では、物部氏系武具製作の集団があったといわれ、
「貫前神」と「抜鉾神」といわれ「物部神社」となったそうだ。

たぶんどっちもフツヌシ神のこと。

これらの物部氏が陸奥へ入り、
飯豊神を祀った一族=穂積氏になると思います。

飯豊山の奉納は、物部氏or穂積氏と伝わり、

811年 物部足継副将軍

812年 物部熊猪、

834年 物部末守 胆沢城へ

840年 斯波郡物部連宇奴、外従五位下に。

 

※飯豊山(wikipedia)

というように、アテルイやモレが処刑され、
38年戦争が終わった(マロは811年に亡くなったとされる)
後に、物部氏の名が連なり、陸奥征伐の処理をしている感じだ。

以前に、田村麻呂により関西へ移住させられた、
一人の農耕技術者が官人になり、
朝廷にしたがってくれた為、
姓を「物部」と改めさせた事があったという。

通訳としても物部氏の名があり、
エミシはアイヌ語とは異なる独特の言葉があったそうです。

蝦夷征伐の時に、上毛野氏らの氏神であった
駒形神社(駒形根神社)を祀っていたところを、
田村麻呂が作神として祀ったという事がありましたが、

それは、田村麻呂ではなく、物部氏かもしれない。

物部たちが陸奥へ行ったことで、
駒形神から豊作の神として飯豊神を祀るようになり、

また、「作神として和賀中心に物部の祖神」を、
祀っていったという説があるからです。

飯豊とは、古語で「いひとよ」であり、
意味が、フクロウ。

『和名抄』によると、鳥のフクロウです。


飯(イヒ系)神=穂積氏(物部氏)
表刀(オト)神=フツヌシ系。


と、分けられるため、

東北地方の影に、物部氏と穂積氏(ツミだからワタツミ)
の存在は大きいのです。

■荒田別は三輪神の蛇-----------------

近くに神社がありました。

 



拝幣志神社(はへしじんじゃ)」というのですが、
ハウシワケのような響き。


『日本武尊東征の砌りこの神の御神助によって平定した
御神徳に奉謝して勧請したと伝える。(社伝)

皇室の崇敬篤く清和天皇貞観元年正月27日即位の恩典により
郡内零羊崎神社と共に進階、従四位下に昇叙さる。

延喜の制、名神大社に班す。(三代実録、延喜式)

 



古く箱崎山(箱山ともいい、高三尺・横五尺程の石あり。
これを箱石・手箱石ともいう。)


上に御鎮座ありしが、寛文年中山麓に遷祀して箱崎明神という。
葛和田蔵人といえる者が社務を司る。

その家亡んで後、修験明王院別当となる。(封内風土記)

 



凡明治40年5月この社をさらに麓の箱崎八幡神社に合祀して
社号を拝幣志と改称した。
社殿は天保14年上棟、昭和30年改造にかかる。」

 



やはりご神体は、石なんですね。

大きさは、高さ90センチ~1mくらい。
横1m50センチくらいと思います。

 



このあたり一帯でも、津波被害にあい、
ほとんど残されていませんが、神社は再建されたようです。

さびしそうな狛犬・・・

 



こんな風景を、何度も目にしてきた太平洋側の海。

大蛇と龍神は違いますね。

 

蛇を悪く考える人が多いですが、

向き合い方によります。

 



物部氏は母系だったと思うから、
自然にもっと寄りそっていた方だと思うので、
全然、嫌な気はしないのです。

上毛野氏の中に、「上毛野田道将軍」がいます。
石巻に上陸した人ですが、

彼ら一族には、蛇信仰があったので、
田道将軍の墓をエミシが荒らしたら、
蛇が出てきたというように、

蛇の神話、伝説が多いのは、

どうやら、三輪山に関係するそうです。

 

※三輪山(wikipedia)

大物主の姿は、雷神とされる。

その「荒田別が上毛野氏の祖」とされるのですが、

宇都宮の豊城入彦命を祀る神社があり、
その四世孫と伝わる。
(宇都宮二荒山神社)

 

※二荒山神社にある女体宮。

末裔は、大和・河内国の止美連(とみ)
河内国の伊気、の他に「大野東人」がいた。
びっくり

 

塩の交易をやっていた人たちと思われ、
茨城・千葉の坂東ですから、トミナガスネヒコと繋がる気がします。

 



河内(大阪)が何度も繋がるのは、
荒田別は「三輪氏族」とも言われるためです。

だから蛇信仰なのですね。
龍神は、大陸からきた者が
蛇(大地母神)を、龍の天孫神に変えていると思います。

ですから、マキメのいる牧山が龍神になってますが、
元来は、蛇信仰なのだと思います。

(ハイヌベレにされているため)

後になって、金=龍という形が、
葛西氏だと思うけどね。
流行します。

影で支えているのは、

蛇(人間の成長を喜ぶ大地の母神)

ってことかな。

蛇は、剣と結びつけられます。
剣は、天と大地に向きますね。

大地を繋いでいる存在です。

 

龍神は水の力の方が大きい。

 

※早池峰山山頂の剣

蛇は三輪山にあるように、
ぐるぐる巻きの「巻」の意味があるから、

石巻のヒタカミは、石なんですね。

 

※石見の神楽。

 

ぐるぐる巻きのクンダリーニ。

これを退治するという神話は、西洋的な発想です。


三輪神の祭祀をしていた荒田別について、
エミシも三輪山に住まわせた話しが『日本書紀』にもあるように。

そう考えますと、石巻の旭山に日光の二荒神になった猿麻呂、
母の旭は、瀧尾神社の女神(宗像三神)になっている伝説
(戦場ヶ原の戦い)が、石巻と繋いでいるのは、

荒田別の祖がここにきていたことを伝えるためだと思います。

それが三輪氏とすれば、相当、深い話しですよ!

 

何度も言われる、
「心の御柱」

 

私たち、社会、大人たちがどんどん高次をあげていかないと、本能が働かない。

 

子供たちのためにも。


■三輪山の遺跡との共通-------------------

興味深い話しはまだあり、

三輪山にある大神神社周辺の遺跡に、
多くの子持勾玉が発掘され、
関東では上野から下総にかけて出土しているものだそうで、

三輪から関東へ移動していることがわかっています。

 



※子持勾玉=表面に勾玉状の突起があるもの

画像
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/material/files/group/34/27056634.pdf

それが石巻にも繋がっており、

五松山洞窟遺跡の被葬者は、
カツオ漁、海運、漁業にあった海人族で、

(カツオ!照れ

三浦半島~房総半島で同じものが出土されていると。

(ここでは子持勾玉は見つかってませんが)


北関東から来ている大豪族の墓場であり、
坂東から来ている豪族たちですから、

それだけの遺品が五松山洞窟遺跡に残されるのですね。

そんなことで、石巻の復興も進んできて、
新しい建て物が増え、明るくなってきたように感じます。

「川が津波になった」

という言葉があったように、北上川(旧)が、
海から遡上して水が流れこみ、

高い所では、4.5mにも達したそうです。

 

 

(たった1日でアメリカ大陸まで・・・。)

流された生活のすべては、
一時、この山の麓に集まったそうです。

その水は、長い時間、
そこに留まっていました。

 



海側は民家が密集していたので、人口も多かったため、
3200人以上の方が犠牲となりました。

 



宮城県で最も多い数です。

それでも、過去と未来の「はざま」で生きるのです。

 

 

これからも、石巻をみまもっていければな~と思います。