怒涛のオリンピックが始まりましたね~。

さて、過去の話しでしょ?
と、だいたいスル―されてしまう歴史。

歴史は、民族や文化摩擦が起きますから、
いろいろ起こるのは、当然だと思います。

前回の続きです~。

開幕でも富士山と太陽がシンボルになってましたけど、
岩手山も八幡平も、参加したいのかしら?

八幡平にある「長者屋敷公園」に行ったのは、
2017年の9月でした。

 



登喜盛が拠点にしていた場所ですが、
大武丸という名の人は各地に伝承されています。

 



大昔からこの川の水系から湧き出る清水は、
7つの石英安山岩質の岩の割れ目から、湧き出ている蔵清水という。
蔵は岩のこと。

地元の伝承より、大正時代、
ある夫婦が蔵清水の祭りのお参りをしようとした2日前、

夢に女神が現れた。

長者屋敷の丘の蔵清水を支配する女神と言い、
7つの蔵清水が湧いているが、これらの清水はその昔、この地を愛し、
自然と共に生きてきた縄文人が暮らしていた。

この水は飲んでもおいしいし、病気や目が治る水でもある。

しかし、近頃のマトーの人たちは、そのことを忘れ、
丘は荒れ、参道も悪路になっている。

なのでお前たち夫婦に白羽の矢を立てた。
蔵清水の管理をお願いしたい。」


と言ったそうだ。

 



※白羽の矢・・・いけにえの少女にされた家の屋根に
目印として矢をたてることがあったが、
主に使われるのは「特別に選ばれた」という意味で使います。

そのご宣託を受けた夫婦は、別当職につき、補修工事をした。
それから、蔵清水のご利益を聞いた人たちが集まってくるようになったそうだ。

 



■長者屋敷伝説---------------------------

長者屋敷は奈良時代、高丸悪路の一子登喜盛の居城で、
登喜盛長者屋敷と呼ばれていたという。


登喜盛一族は、各地からかすめ取ってきた財宝をこの地に蓄えて住んでいた。


盛岡の大宮に住む神子田多賀康の娘「岩花」を家宝のお釜とともに、
この場所に幽閉したことから、お釜霊場の名も残っている。

神子田多賀康に、娘の救出を依頼された征夷大将軍坂上田村麻呂は、
早速、登喜盛一族を討ち、岩花を助けだした。

田村麻呂は、その時、ここにわいている霊泉清水で、天皇ご下賜の刀を
洗い清めたことから、太刀清水とも呼ばれた。』


一関の達谷巌谷堂の姫待不動尊の話に似ています。

 



この近くには縄文時代の複合遺跡も見つかっています。

「およそ1200年前、ここに住んでいた長者は、
花嫁を迎え入れる大行列を
チャシ(砦)の前をさえぎる長川にまたたく間に、
豆俵の橋をつくって無事に迎え入れたという事から、
「豆渡り長者」とよばれ、人々から尊敬されていました。

その後、大和朝廷の侵攻に対し、長者は蝦夷の総大将として
ここから出陣していきました。


そして征夷大将軍の坂上田村麻呂率いる朝廷軍と壮絶な戦いをし、
大和の人々から大変恐れられていたアテルイこそ
「豆渡り長者」であると伝えられています。

 



元々信仰のあった場所に、
霊場を開いた巫女がいたことを物語るものですが、


7つの蔵には7つ井戸といったように、
全国にも7か所に井戸を置く話がよくあります。


「神子」という名前から、
岩花はイタコのような巫女だったと考えられます。

お釜とは、水分神との事。(らしい)

例えば、「岩の割れ目から湧き出る蔵」というのは、
女岩であり女陰石のシンボルです。

 



その岩の割れ目から誕生した話が、

中国四川省と雲南省にあります。

それが登場してくる禹(う)の一族なんです。
神という文字は、「申(しん)」から由来します。

 


図:申の金文:双頭渦文から四頭渦文へ。

 

 

阿多隼人の盾

 

いろんなところで、禹が繋がってきますが、
これが「水」のことをさす。
荒れ狂う水。荒申で、荒神(こうじん)。

この話しは、清水が流れる水を利用するための
治水を行った治水神として伝承されているものです。

女性が治水工事をすることは、
昔は一般的にありました。

その多くは、「巫女の宣託をうけて開拓をする」

というもので、仙台の朝日神社に伝わる朝日神子も、同じように宣託から開拓してます。

 



その申と猿は別ですが、
「猿」は水が荒れるものと考えられています。

 

ちなみに、猿田彦命を祀る長嶺神社の所です。

 



エミシ征伐やアイヌ人がいた場所に、
よく「猿」の名前がつく岩がいくつかあります。


猿跳岩、猿鼻、猿岩、猿ヶ石川、沙流川など。

 

 



■水利権------------------------

このあたりにストーンサークルがあったそうです。

祭壇があった場所は特定されてませんが。

 


※wikipedia

屋敷台ストーンサークル(釜石環状列石)がそう?

岩手県八幡平市柏台(旧・松尾村寄木字畑、通称釜石地区)にあり、
亀ヶ岡式土器が見つかっています。


登喜盛は、八幡平から後生掛の方へ逃れたといわれます。

鹿角にも大湯ストーンサークルがありますが、
登喜盛一族が祭壇にしたと思います。

後生掛の意味は、「自分の来世(後生)」を願った意味があるそうです。
今の自分の代に代わって保護してもらうよう家族の幸せを願った所と。

 

※Wikipedia

登喜盛が来世を願った場所が、藤七温泉がある畚岳(もっこ岳)です。
(写真右上の山)

サパネク(族長)は、八幡平を拠点とし、
北は鹿角と胆沢平野をつなぐ
中継地点としており、政治、軍事的にも重要な役目が
あったと考えられるそうです。

 



※秋田城ー払田柵ー胆沢城跡ー広田半島(貝塚)

これは、「海の交易があった拠点」です。
秋田(日本海)~気仙沼(太平洋)まで繋がります。

アテルイが処刑されてから、
活発に柵を設けるようにしたのは、
大陸からの交易を監視する目的があったと考えられます。

参考に、アテルイがいた時代を「38年戦争」というのですが、
770年~811年の争いで、蝦夷が亡くなった数は、約1454名。

大和朝廷側は、約1061人。
そのうち、巣伏の戦いで溺死した数は、1036人。

不明な数も多いので、これよりもっと多い。
他にも100近い蝦夷の村が焼かれ、
逃亡した大和側の兵士は、340人くらい。

 



怒りの顔が片面に描かれています。

朝廷は東北の水資源を狙っていました。
鉱物資源だけではないです。

水利権の獲得は重要で、
産鉄族や修験者が水資源を保有していました。

東北の水を必要とするには、
タタラと近づくしかありません。

その仲介をしてきた中心人物が物部氏と思います。

(上毛野氏を都に戻し物部の名をもつ人を通訳として起用)

坂上田村麻呂伝承の多くが水に関わる理由は、
化粧水や悪玉姫、今回の登喜盛伝説の清水もそうであるように、
水資源の調査もあったと思います。

大和朝廷は、農業をしてほしかったので、開拓をすすめます。

住む家も、木を使うことが多く、お寺を建てるにも木が必要です。
仏教も多くの自然を伐採しています。

森を開拓するのに木を伐採し、
清水を田園に流すために水が豊かな場所に移住してきます。
人口も増えてきますから、大変です。

葦という湿地帯は、稲を育てるのに好都合だと考えた渡来人が、
葦のある場所に開拓をすすめたという。

葦も同じイネ科なので、稲が育つわけです。
そのような湿地帯に多くの弥生人が住んできました。

そこに稲荷信仰を広めます。
震災で津波被害を受けた多くが稲荷神社だったのは、
平地に住んでいたからです。

秦氏(葦の開拓をした)と物部氏(砂金取り)との間で、
水の争いがあったと想像します。

神々の祀り方に何かあるわけではないのですね。

信仰は、次から次へと住む人により変わりますから。

著者『松尾八幡平物語』によると、登喜盛は蛇を信仰していた
スンダドントの人たちと言及しています。

 



温暖化による環境の変化で四方に移住したといわれ、
南方の縄文人と言われた人々(海人族)

 

約6400年前に鬼界カルデラの大爆発の時に、

逃れて来たと考えられます。


そんな八幡平の松尾地区には、
アテルイの子孫が生き延び、

朝廷と関わってきた話しが伝わっているのです。

 

 

■長者屋敷と大武丸-------------------------------

また、長者屋敷伝説は、

東北各地に伝わっていますが、

それは「大武丸」になっています。

 

悪路王なり大武丸なり、
関東にも伝わるまつろわぬ民は、
これらの名前を用い征伐されてますが、
共通しているのは「金」の話しです。

財産をたくさんもっていた村の長のことを
「長者屋敷伝説」として伝えているものです。

 

また、それは大蛇伝説にもされている事が多いのです。
頭、胴体、足とわけた、ハイヌヴェレ伝説。

 

なので、これらのハイヌヴェレ伝説は南国からきているのですから、

スンダランドの人々がトベのような母系社会だったことを物語る。

大蛇は、古代信仰の大地母神。

物部氏は、こっちです。

 

全国にある長者屋敷伝説の中で、
「朝日・夕日」長者というのがあります。

 

これが、源義経を平泉に案内した金売吉次の伝説が多く

福島県半田山の裏山:萬蔵楽山にも長者屋敷伝説が伝わっています。

 

※半田山麓の益子神社

赤頭明神といい阿武隈にいた大武丸を祀っている説がある。

 

その財産や土地を豊富にもっていたのは、
阿部貞任と宗任の伝説にもみえます。

名取にも伝わっていますが、(垂水ダム)
源氏からの軍を阻止するために大量の米を流して
道を塞いだなどの話しは、財産(米)を多くもっていた象徴です。

 

それに中国(宋)との交易が活発で、
日本でとれた金(玉山金山)を大陸に送っています。

その価値は、現在の価値でいうと約20億円と!?

そんな大金を、中国に流していたのが藤原清衡とか・・・。


阿部貞任らの時代ですから、
奥州藤原氏と阿部氏が
黄金の平泉をいかに金で支えていたか・・・

 

ということで、海賊という海人は、
世界中を海で渡り歩いているので交易が得意です。

大阪難波がそうで、フェニキスの商人が日本にきて、
河内(カワウチ)という地名がありますけど、

フェニキスきたっ!と思ってます。

 

※フェニキア人の交易船

 

赤色(紫色)の布をまとう人をフェニキスとよび、

カナはヘブライ語で商人の意味。

カナンから来た人が上陸したのが、古くの物部氏でした。
石巻にも地名がありますが、カナンは、3つの川としている。

フェニキスの色は、紫なのです。

 

赤染氏という人たちで、(染色技術者)

大阪河内の八尾という大蛇な地名のある所に

常世岐姫を祀っている神社があります。

 

これは、大阪と埼玉にしかないそうです。

が、秦氏なんだよね。

 

 

しかも湯殿山にも石碑があるのですな。

 

イスラエルでは、秦氏らは物部氏たちと

分断していたかもしれないけど、日本に先にきた物部氏の方が元祖

なので、後からきた秦氏は、物部氏と同盟を結んだと思います。

 

神官から手をひいたのは、物部氏の方だったでしょう。

なぜか、わかりません。


で、その中国にもある河南(関係ないか)が大洪水になってますけど。

 

大丈夫でしょうか?(ちょっと心配)

中国ではオリンピックどころではなさそう。

 

いろいろ裏では大変です。真顔

 

元々、そのような濁流に近い大河に住んでいた人々は、
水には何度も悩まされてきました。

 

 

※長江上流の金沙江。雲南省の虎跳峡。(Wikipedia)
すさまじい大河ですから。


そのせいで、

治水の技術が優れてしまった。

悪路王というのは、治水の技術の他、
金との交易にも長けているリーダーですから、
朝廷が苦戦したわけです。

 

そんなことで、まだまだいろいろあるのですが、

なぜか、夏になると物部氏がやってくるねぇ。

 

また何か繋がれば書いておきます。

八幡平の話しはおしまい。

 

次も、北東北の話しをしようかな。