ちょっと長いです。

よく眠れない時に、読んでください。ニヤニヤ

日高見の歴史は、とても深いですね。
まだまだ、たくさんありますが、
何かと繋がった時に書いていこうと思います。

石巻の伝説といえば、私は牧山にいた魔鬼女
ハイヌベレ伝説が興味ありありです。

「ここ石巻地方には魔鬼(まき)一族がおり、
激しく抵抗して政府軍を苦しめましたが、

田村麻呂は、彼らの族長の妻であった魔鬼女
(まきめ=呼び名は確定していない)を倒し、
ようやく平定することができたと伝えられています。」


『田村将軍様奥州七ヶ所観音御建立由来之事』により、
1774年頃に、伝わったものとされます。

詳細は、こちらを。

 


このマキメがなぜハイヌベレにされているのかは、
紀伊半島からの水軍による。

多賀城散歩の時、
夢で「藤原の白」と「シンボルはイカリ」と出てきて、
それが熊野水軍だった。

 


 

※多賀城神社(中世)


藤白鈴木家は、穂積氏の系譜で二ギハヤヒを祖としてます。

塩釜にも上陸しているのですから、
石巻にも来ているのは、不思議ではありません。

■紀伊水門と伊寺水門---------------------

神武東征の話しがありますね。

 



紀州の紀の国にいた名草軍(ナガスネヒコ)は、
神武天皇側からの遠征を阻止した話し。

名草の紀伊水軍は「紀伊水門(きいみなと)」があり、
石巻にも「伊寺の水門」がある。

デルタ地帯のことで、千葉県説もありますが、
なぜ千葉県にも伊寺の水門説があるかといえば、

牡鹿部人春日部麻呂という人が「春日部直(あたい)」と書いた。

これは官人ですが、春日部とは和邇氏の系譜にあたる。

千葉(上総国)から牡鹿へ移住しているわけで、
石巻説と同一になるのは、牡鹿柵がつくられたことにある。
(奈良時代)

 

矢印のとこが牡鹿半島

※雄鹿・・・石巻市南東部(旧牡鹿町など)女川町。

百済王敬福(涌谷町の金)が上陸している伝承がある地です。

他に大伴部直という人もいて、牡鹿の俘囚になっている。
大伴部 押人(おおともべ の おしひと)は、

先祖はもと

紀伊国名草郡

片岡里の人という。

 

なので、名草の出身の末裔たちが、

マキメをトベと同じ伝承としたのではないでしょうか。


陸奥国小田郡(現:涌谷町)に到着して住みついたと。

その後、子孫は蝦夷のために虜となり、代を経て俘囚となった。

という。

他に同族として「紀直」がいる。

繋がっているから、千葉説と石巻説がある。

大伴氏、紀氏、春日部氏らが牡鹿へ移住したのは、
紀伊水軍がたくさん石巻方面へ上陸したことを伝えており、
途中、常陸国へ立ちよっているわけだ。

そして彼らの力を支えたのが、和邇氏(西漢人)であると思い、
坂東から異民がやってきたという事になる。

そんな彼らを阻止したのが、牧山にいた蝦夷(大武丸)である、
という伝承が、地元には伝わっているのです。

■熊野諸手船--------------

トベの著者、綱名道代先生によれば、

最初、神武軍は、大阪湾から生駒山を越えて
トミナガスネヒコ軍の本拠をつこうとしたが、
ナガスネヒコ軍に撃退された為、
迂回して紀州へ回ったと。


その時、神武軍を導いたのがヤタガラスです。

『石巻市史』に興味深いことが書かれていました。

名草で落城すると紀の水門に集まり、
ここで立て直し、「熊野諸手船」という
大型造船に乗り換えたという。

この熊野諸手船(もろたぶね)とは、
島根県美保関町の美保神社の神事に用いられているという。


これを「アマノイワウネ」と言った?

すごいよね~。
ぎゅーぎゅーですよ・・・

 


三穂津姫命です。
大国主と事代主の母神らしい。


出雲族がこの船(10~20人乗りくらい)を、
水上交通として利用していた
とあり、


熊野のデルタ地帯に到着し、平地を開拓することに
長けていた人々と言われます。

この船が、クスノキなんですね。
クスノキを一本でくりぬいて船を造っている。

丸木船というのですが、
陸路では遠く都合が悪く、山賊がいたため、

朝廷軍は、海人族と関わりをもちながら航海し、
川を下って陸奥へやってきたことになります。

その水軍力が、熊野水軍でした。

いや~、なんか前にみた夢の船に似てる~。


古代船の復元

 


詳しくは、こちらを。
http://inoues.net/science/war.html

■ナグサトベとの共通点---------------

さて、紀氏らは、どっち側にいたのか?
国と地方の文献では異なる。

 

私は、紀古佐美(コサミ)の名の響きに、チャクラがぱかぱかする。

こっちの方が好きなのだ。

(アテルイと戦って負けた側)

 

イサスミとか、サミが好きなのはなぜだろう。

で、国が書いた『神武東征紀』では紀氏は神武側。

しかし、なかひらまいさんの『名草戸畔』によれば、
地元の小藪さんという郷土史家(和歌山市三葛)
の「小藪台本」の著には、

ナグサトベは神武に降伏し、名草の民は守られた。

そして名草側のアメノミチネに神宝を奉じるように命じた。
アメノミチネは紀伊国造に就任し、その子孫が紀氏になった」


という事で、紀氏は名草側にいる。

国(中央)と地方の違いは、
どこの歴史にもあることですが、

紀氏は、中央からすれば神武側についた事として記されている。

アメノミチネとは、神武が紀伊国に入る前に
大阪(摂津国)までお伴して行動していると。

タカミムスビは神武の先祖とされており、
その5代目の孫が、アメノミチネとなっている。

ミチとは、「道」の漢字にしている。

自然の力で導かれること。

海道、山道、雨道・・など。

島に導かれた道嶋という強力な豪族が陸奥にきていることは、
紀国の神武東征が、陸奥にそのまま伝播している。

そのため、太平洋側の海側には、
数多くの熊野神社が建てられているわけです。

つまり、マキメが反乱を起し、
ハイヌベレ伝承としているのは、

名草のナガスネヒコ軍が紀氏ら(神武側)
を撃退したことと同じです。


紀伊半島~北へ船の寄港地が、
伊寺水門といわれた石巻にあり、

千葉の九十九里~武射地方~東方へ入り、
牡鹿半島に到着した紀伊軍の上陸を
防ぐために抵抗した、まつろわぬ民として
語られたものでしょう。

 

石巻の湊で、抵抗されたので、

もう少し北上したとか。

 

受け入れた側は、北上川から遡上して栗駒方面へ。

マキメの時代は、およそ1000年以上前と考えられ、
対戦したのは、上毛野田道と言われる。(地元の伝承では)

上毛野田道が上陸したところを、伊寺水門と言うためです。

後に、アザマロらの蝦夷が反乱を起したのは、
紀氏、道嶋氏などの有力豪族からの阻止であると。

アテルイらの時代から中世、源頼朝の時代まで
つづくわけです。

「河内」がよく登場するのは、
生駒山にいたナガスネヒコに関係し、
二ギハヤヒとの神武東征に関わる氏族がきているからです。

 

『トベ達の悲歌』より

最強と言われた道嶋氏のとの結びつきに、
和邇氏がおり、物部氏や海部氏らの後ろ盾があって
勢力を伸ばしてきたでしょう。

 

和邇(和珥)があり、倭国(ヤマト)がある。

鳥見(トミ)もいれば、秦氏(波多)もあり。


旭山、南三陸、気仙沼大島にある計仙麻神社は、
反乱の地に建てられたもので、

鹿島神は茨城ですから、まつろわぬ民からの
復讐をさせないために?伝承として残したのだと思います。

以前、上品山(真野の近く)
久集比奈神社について書いてましたが、
『石巻市史』によれば、奇日嶺(くしひね)の由来からであると。

「日のあたる山陵」
の意味で、祖霊がおり宿す山ということだそう。

これは、クシフルと同じ働きではないか?

天孫降臨の地を、クシフルと呼び、
「櫛ひ大明神」や「くしふる大明神」と称せられる。

ポジティブに考えて、クシフルは、

一関にあった地名、五串と同じです。
「いつくし=斎し」のことでしょう。

骨寺村で書いてました。

 



姫待不動尊

達谷窟毘沙門堂にあり。

姫君の黒髪を見せしめに切り、その髪をかけた石を
「かつら石」という。

 



やっぱり石。

 


岩盤が隆起している磐を崇めるのです。

姫がいた滝に向かっている石碑群の背中が・・・
まるで、修験者たちは、瀧神の忠誠に従うように。

 



骨寺村は、五旗とかの伝承があるように、
五柱を建てる場所です。=天の御柱

日の巫女の卑弥呼みたいな
太陽神の巫女が必要とされて陸奥へ連れてこられたのは、
あると思います。

なので、石巻の日高見とは、
高天原の降臨地としてもあるのです。

あっちこっちで柱を建てているのです。

■東北は戦いをもつ地とされた-----------

最後に、

高橋富雄先生の『地方から都市から』
より、まとめます。

高天原は太陽信仰で、天上の世界をさす。
こちらが、中央国家とする畿内をしめしている。

その裏にヒナのヒタカミがあり、
四道将軍が全国に派遣されます。(東国経営)

出雲の強大な影には、吉備国。
筑紫の強大な影には、日向の隼人。

しかし、影になった人々は、まつろわぬ民とよばれたが、
神々の神事を継承している。

石巻あたりは、黒潮と親潮の洗われた大湾でした。
続縄文文化(北)と東国の融合地です。

当時の天皇の役目としては、

政治に精励し、国内では帝都造営につとめ、
国外では、征夷のことに全力をあげた。

東→エゾ戦争の軍事
西→帝都造営

統一達成のために行われたエゾ征伐。

蝦夷のことでもあり。

征夷大将軍は、「征夷」の言葉通り、
夷(東国の)人々を征服するための軍事政権がつくられ、
それに対し、「鎮守府大将軍」がある。

その後の精算のために鎮魂する意味があるのか?
軍の長官といったこと。
後者の方が上。

坂上田村麻呂とエミシらの三十八年戦争の後、
いったん、廃止になった征夷大将軍を復活させたのは、
源頼朝です。

アテルイ、モレの次は、奥州藤原氏・義経VS源頼朝、
また、阿部氏と源氏の対戦となっていきます。

これらを制圧するために、源頼朝が征夷大将軍の発令を求めますが、
後白河天皇が拒否。

しかし、勝手に?決めた鎌倉幕府。

これが元で、幕府が誕生し武士政権が強くなる。
天皇の意見を無視した?

再び、征夷大将軍が生まれる。

こうして、ずっと東北地方は、軍事のために多くの兵を費やし、
関東人は、東北地方に派遣され、戦いの場とされてきた。

当時は、中央(畿内)→九州(地方)→辺境(ヒタカミ)東日本。


この3本が、日本列島の象徴として機能していたと考えられます。

中央も地方も辺境(都から遠い意味)が、
分断になると大変なことになる。

 

今、日本は、バラバラですよね。

そう感じます。


分断させるようなことを好む政府のやり方をみていると、昔と変わらないことを痛感します。

これからどうなるのか、
まったくわかりませんが、

IOCのバッハさんきたけど、
日本人からあんなに嫌われる外国要人も、珍しいな。真顔


オリンピック中の、東京の緊急事態宣言。
普通ではないので、あやしい~。

成るようにしか、成りません?!

マキメの伝承から、学ぶことはなんだろう?

そう思います。

石巻のヒタカミは、まだ続くかもしれないけど、

ひとまず、おしまい。ヒヨコ