なんだか、またヒタカミの波があり、
以前、南相馬のヒタカミ妄想をしてましたが、
今回は北上していくと、石巻に至る。

富士山とかコノハナさんのシンクロは、
かつてあった富士王朝かもしれないけど、
東北では、久須志で薬師なんですね。

浅間とか富士とかの言葉をあまり使わない。
エミシの地には、クスシなんです。

そういうところも、何かあるんじゃないか?と思っています。

宮城県のヒタカミは何だろう?
以前の資料などを読みだしてみると、いろいろ見えてきました。

ぼちぼち~まとめてみようと思い、
できたら、記事にしていこうかな、と思います。

そこまでして調べたいとかきたてられるのは、
震災があったからです。

自然災害などで、大きなものを失うことは、

仕方のない事と思ってしまいますが、流されたことで見つかることもある。

今、そんな感じで、浮上しているような感覚です。

残されている文献などは、記録を残してきた大陸の役目であり、
先住民は口承してきたため、残されていない。
それを知るにはとても難しいのですが、痕跡はあります。

なぜそこに、その歴史があるのか?

ただ、ヒタカミは茨城県にもあるとかで、
最初のルーツは、わかりません。
ここでは、宮城県のヒタカミについて妄想します。

ヒタカミについては、様々な意見がありますが、
ヒタカミが封じられた、閉ざされたわけではなく、
やっぱり歴史は難しいものです。
神々の系譜が、あまりにも複雑になっているためもあり。

私もあまりわかっていないのですが。

日高見国(ひたかみ)とは、

日本の古代において、大和または蝦夷の地を美化して用いた語。
『大祓詞』では「大倭日高見国」として大和を指すが、
『日本書紀』景行紀や『常陸国風土記』では
蝦夷の地を指し大和から見た東方の辺境の地域のこと
。(wikipedida)

これが、一般的な説です。

『大祓詞』・・・大倭日高見国を定めまつりて・・・と国名が登場します。


『日本書紀』・・・東(あずま)の夷(ひな)中に日高見国。

※奈良より東は、朝廷に服従しないヒタカミとされた。

『大祓詞』では、大倭と日高見と2つにわけられ、
いずれも独自の文化と言語をもち、
千年以上の独立を保ってきたといわれます。


高橋富雄先生の『古代えみしを考える』によると、

「ヤマトタケル陸奥に入り玉浦の渡りて蝦夷の境に至る。
蝦夷既に平ぎ、日高見国より還りて、
西南のかた常陸をへて、甲斐国に至る」


たぶん、岩沼の玉浦のことと思いますが、

あの(阿武隈川沿い)場所が境だったようです。

 

同じかどうか、「志引」と「御伊勢原」などの地名があり、

多賀城にも、志引石の地名がありました。

 

 

近くに、日天月天神社(↓)があり、鏡の不思議な話しがあります。

以前、こちらに玉浦について書いてます。(参考に)

 

 

西の熊襲(西夷)、東の蝦夷(東夷)がいるところは、辺鄙なところ。


奈良時代、律令制度が確立されると、
土地は国が所有することとなり(寄進地荘園)、
全国にいって調査をしているのですが、
縄文人が住んでいたような場所や平地(平野)ではない場所には、
「余部」と「余」の地名をつけています。

余とつく地名は、辺鄙な場所という意味で、
あまり人が住める所ではない、と位置付けられていました。

私の実家、横瀬町が余部だったので、
近くに縄文遺跡があった所です。
円墳もありました。
後にそのような場所に平家が落ちのびて住んでいます。

この平家一団が、東北地方に大きな影響を及ぼし、
妙見信仰を広めているのですね。

先にヒタカミがあってからの妙見信仰みたいな。

それは亀であるのですが、鶴もいる。
鶴と亀といえば、いろいろ妄想がつきませんが。

また、飛騨地方も「ヒナ」が由来で、
ヒナカムイからヒタカミになった説もあります。

飛騨国は、東の中では最も西。吉野、国栖と同じ小国でした。
信濃から、科野→信乃となり、関八州に含まれます。

後でいろいろ書きますが、毛野人が登場しますけど、
毛人とは「ケヒト(異人)」のことで、
北関東をおさめていた豪族です。

東夷から外に区別された新しい人という意味あいがあり、
後に、陸奥へ開拓する時に、エミシと毛野氏が、ぶつかります。

毛野氏もエミシと同じ、朝廷からは異人とみられていた事があったと思う。

竹内宿禰が東国の蝦夷を連れてきたら反乱をおこし
「辺境を侵すこと止まず」と記録されていることから、
この辺境は、ヒナ=ヒタカミと考えられると。

つまり、飛騨地方、信州のあたりもヒタカミであったと思います。

3月、多賀城散歩する前に「つぼじゃなくてツモだ」
というメッセージがあったのですが、
「ツモ」とはヒのモト(日の本)であることはそうなのですが、

全体の日本のことではなく「部分日本」で、
国家ではなく「陸奥、奥州の古称
なんだそうです。

 

「ツモ」には何かがあるんだと思います。

いつもこの図を使ってしまいますけど、

(参考に)ホツマツタエの資料をみてもそうですが、
陸奥国は青森県まで至る広い範囲です。

 

あ、青森は隈だった・・・
(出羽国は外れている。後に陸奥国に含まれます)

 


 

ここを「日高見国」としている。

ですから、多賀城散歩もヒタカミ散歩でもあり、
ツモという言葉から、古くの奥州はヒタカミであるという
事なのかもしれません。

 

 

この時に書いていたのが、「犠牲の鳥」の意味がある、

シワ・オアシスというものなんですね。

 

シワとは、「淡水と海水の中間の塩分を含む水」

シワとは、塩の水のことなんです!

アプスですよ。

 

はるか昔の灌漑農業。

これが、古代の日本にもあったと思うことです。

(もしくはエジプトから伝わった)

 

※シワ・オアシスのリング。

 

これが気になるんですよね~。

何の意味か詳細は、わからないです。

 

ツモから「シワ」に繋がるのは、何かあるからだと思います。

そんなことですが、

 

古代は私たちとは全く違う感覚で、

物をみてますので、現代人には、解読がむずい。


ですが、挑戦してみたくなるね。

なぜ、彼らは、こんなに金を求めるのか?

 

シュメール文明にも繋がる話しですけどね。

 

昨年まで南相馬のヒタカミを妄想してきましたが、
何だったか覚えてないのぉ・・・チーン

ま、後で読みかえす時に参考になるので、
そんな感じで今回も、だーーーとまとめていきます。

壮大なスピリットな歴史になりそう・・・が、
まとめられたら、追記しようと思いますが、難題です。
 

書けたら、更新していきますね。