GWの時の話しです。
田束山の経塚群。

 



ツツジが咲いてなくて、ズッコケたのですが、
田束山(たつがねやま)は、経塚を埋めている所で有名です。

 

 



なぜ、私はまたここに戻ってきたのでしょうか?
こればっかりは、自分で答えを出さねばならない。

 

震災前に一度、田束山にきたことがあります。

 


でも、この時は、退職届を出し(震災の日にだよ)
秩父に帰る予定だったので、
もうここに戻ることはないと決めたのだったが・・・

 

 

震災前の田束山(山頂)

 


過去のブログ記事に

「再び美しい東北に戻ることを願って」
と、言っていた・・・・・

じゃあ、戻ってくるよ・・・。真顔

いまでは、眩しいほどだよ。

みちのくよ。

震災前の仙台はパワーがあって魅力的だったけど、
震災後から、自分が変わってしまったせいか、
全く仙台に魅力を感じなくなった。

仙台は、ただ、生活しているだけの街。
何の力も感じなくなってしまった。

その変わり、仙台以外の宮城県の方がなじんできた。

 



~自然は永遠の仲間(パートナー)です~

看板を読んで、切なくなりますね。

ツツジも。

 
 
 
徳仙丈山
 

■なぜ経典を埋めるのか?------------------

謎多い奥州藤原氏と平泉。
 


大陸の文化がそのまんま凝縮されたような所ですが、
銅鐸を埋めるように、壷を埋めるのはなぜでしょ?
 


遺骨などの埋葬とは違う。

かつては王族の古墳に壷とそれを置く台が埋められていたという。
それから殉死が気の毒になったので、
埴輪が生まれたと。
 
 
 
昭和46年に発見。
平安末期に藤原氏により造られたと推定される。
 
末法思想がまきおこった時期。
人心が乱れる考え方から大事な経典が失われることを怖れ、
これを後世に伝えようとして塚の中に埋葬したという。
 
 
「みちのくGOLD浪漫」
 
 
 
発掘された壷の底に、鶴を彫刻した鏡がはめてあったという。

末法思想と北海道との関連を以前書いてました。
 

鶴の鏡もね。

 


「北海道厚真町出土の中世陶磁器では最も古く、
しかも経典を埋めるさいの容器として
使われたとの見方が示された。」


この壷が、奥州藤原氏ではないか?との説が浮上し、
厚真町とは、北海道地震の山崩れで大きな被害があった所だった。

苫小牧はコシャマインの戦いで登場してくるのですね。

直接な証拠はないにしても、
東日本で最も多く12世紀の常滑焼が出土している事を考えると、
田束山と同じなのです。

 



常滑焼は奥州藤原氏が関わっている所にたくさん見つかってます。

北海道アイヌ人は、積極的に和人との交易を行っており、
三代藤原氏が眠る中尊寺でも、発掘調査で、
アイヌの遺品が見つかっているのだから。

奥州藤原氏がアイヌ人と関わってきたこともわかっている。

■田束山はキリシタンの山だった?------------------

 



wikipediaの情報を読んで驚いた。

主人と一緒に行ったのですが、
ここで何かがあった、というのですね。

私は何もわからないので、そうなんだ~くらいに思っていました。

 

 



ずっと前から観音様があったものです。
私はこの観音様に魅了されたくらいだったんです。

 

※震災前

 

※震災後。(木のそばにひっそりと)

 

でも後で調べて驚いた。

やっぱり何かあったんだね。

「一説には、田束山がキリシタンの焼き討ちにあって
またも荒廃の危機にあった時に、
切支丹退散を念じて入定したのだとも
伝えられている。


田束山は僧にとって格好の修行の場であった。
現在、田束山に登るには麓の樋の口地区から入山するか
払川・上沢地区から入山するか二通りあるが
当時は主に樋の口地区から入山していた。

樋の口(ひのくち)という地区の名前も元々は
「僧が山の入り口なので松明に火を点ける入り口」が
由来となっている。(以下省略)」

 



キリシタンはありますね。
だから観音様なのか~。

 

しかも、ここで即身仏のために入山した僧侶もいたと。

 

 

あの頃の面影はなく。

 



やっぱり、藤原秀衡
この人の引き寄せは、強いです。

「安中年間黄金文化を開花させた岩手県平泉の藤原秀衡が深く
この田束山を信心し山頂に羽黒山清水寺

中腹に田束山寂光寺、北嶺に幌羽山金峰寺など七堂伽藍、
七十余房を造営、

秀衡の子本吉四郎高衡をして山神祭禮を司さとらしむ」と
当時の書物に記載されている。


田束山経塚が出土したのはこの為である。

その後奥州合戦において奥州藤原氏に由来するという事で
この地も荒廃してしまう。

聖人であった満海上人はそれを嘆きつつ、
自らも弥勒菩薩に深く帰依し、
自ら即身仏(ミイラ仏)となるため入山したのだと伝えられている
。」


すごい山じゃないの・・・。

 

(震災前)

 

田束山は、高衡が治めていたのですね。

 



私は、ほぼ、名取の高舘山の麓に住んでいるのですが、
それもそのはず。

名取高舘山は、

奥州合戦の折、宮城県本吉四郎高衡と日詰(樋爪)五郎頼衡、
名取別当の金剛坊秀綱が高舘城に籠り、
2万の兵で鎌倉軍を迎え撃ったとある。

 

田束山の、高衡のことです。

高衡と共に高舘城に籠ったとされる日詰五郎頼衡という人物については、
日詰五郎という名前からは五郎沼の名前の由来とされる
樋爪五郎季衡を連想させるが、
頼衡という名前は秀衡の六男の名前でもある。

『尊卑分脈』によれば頼衡は奥州合戦の前にひいては
義経の死の2ヶ月前に泰衡によって討たれたことになっているので、

高舘城に籠った人物はその頼衡ではなく、
日詰という姓が冠せられていることから、
樋爪一族の誰かであったと考えられる。


岩手の紫波にいた日詰氏、

 

 

 

今は小学校に。


奥州合戦で負けた後、一族の誰かが、

宇都宮二荒山神社へ連れてこられて亡くなっている伝説がある。

 

宇都宮駅に近い田川側の三峯神社は、
「樋爪五郎の墓」があり、三峰神社として祀られている。

 



主人の実家は、もちろん、豊城入彦の二荒神が氏神ですから。

奥州合戦で負けた武将たちは、関東各地、栃木にも配流されている。
なぜ、栃木かは、かつて毛野氏が陸奥へきていた為、

北関東に藤原家がたくさんおり、
悪路王がいたからですよ。

なぜ、ここに戻ってきたのかは、
エミシの合戦からずっと続いている中世の奥州征伐までの、
各々関東武士団が行ってきたことをふりかえり、

 



「関東武士団の方」の慰めをすることで、
改めて東北の豊さについて学び、
お詫びの旅をしているようなものだろう。

 



なので、こんなブログを書いています。

ちなみに、宮沢賢治が探った「経埋ムベキ山」の方が、
ロマンがある。

賢治の死後、親族や友人の手によって、
経埋ムベキ山に実際に埋経が行われている。

山々は、はくちょう座、わし座、
たて座いて座を表していることが指摘されている。

 



経埋ムベキ山の図の一例 
(星座の一部が欠け、星と対応しない山がある)

奥州藤原氏のは、末法思想が関係してますから。

重いな。

■お不動さんも、龍もふんばってます---------------------

お不動さんも悲しいよね。

 



歩けなくなったって。

でもここで、踏ん張るよ!

 

(震災前)

 

 

ここのお不動さんは足がなくなってしまったので、

歩けなくなったから、皆が来るのを待っています。

 

 

 



観音様をのせている龍。
龍さんのお顔も、強いね。

 

 

観音さまを、支えてます。

 



ということで、再び戻ってきたことへの
ご報告をさせて頂いた田束山なのでした。