なんかもう石巻が繋がりすぎです。
最近、石巻へ行くことが多いからと思います・・・

■駒形根神社-----------------

最後の五十瀬神社へお参りする前に、
武槍(むやり)という地名にある駒形根神社
行ってみました。

 



武槍には、石尊神社がありヤマトタケル伝承なのですが、
石尊(せきそん)は、北関東にもあるんですけど、
元来、イシュタルのイシタルと呼んでいた!?
な、ニヤニヤしちゃう話しがてんこもり。ニヤニヤ

 



とにかく、広いのですね~。
山形の庄内平野もすごいけど、
特に宮城県北部はお米の生産地だけあり、
広い田んぼの風景が、東北らしいな~と思います。

 



関東平野も広~いですよ。
でも、人口が多いので民家が目立ってしまう。

東北は違うね。

 



そりゃ、よいお米ができますよ。
そりゃ~関東からきますって。

現に来てるし・・・ジブンが。
連れてこられた気分。笑い泣き

 

 

■由来-----------------------

 

「堀河帝の寛治(西暦1087年~1093年)年中、

源義家が藤原武衡を誅伐する際勧請したといい、又、天文3年(西暦1534年)3月、

村民が奉遷したともいわれている。

 

 

 

明治10年6月村社に列す。

この社は延喜式駒形根神社の祭神を祀るものと見られる。

即ち栗駒山を祀った古代からの神社で御神体は栗駒山そのものである。」

 



駒形神社の本家は、岩手県奥州市水沢。

本家だけは、まだ参拝してないです。

 


ところで、朝廷は南から来てますから、
栗駒山をみて、「駒」と呼んだわけですよね?
北からみれば「ス」の山なのです。

ちなみに、秋田県では大日岳(だいにちだけ)と呼んでます。
やっぱり、太陽。

東北の場合、県堺にある山は呼び名が違うことは珍しくありません。
例えば、山形と宮城の県堺にある船形山は、
宮城側だと船を伏せた山だから船形山で、
山形は、御所山と言うのです。

御所とは、天皇家に関係する地につけるので、
日本海から皇室関連の人がのがれてきたかもしれない。
薬師信仰を広めたそうだ。

 

 

百日紅(サルスベリ)榊 奉納(平成十七年)

これも「猿」ですね。

木肌がつるつるしているから、猿も滑るだろうから、サルスベリとなった由来。

 

サルスベリ・・・榊・・・

 

やっぱ、栗原の猿田彦信仰は、熱いのかも。

さて、栗駒は栗の駒なのですが、
栗は、栗の毛の美しい毛並みをもつ馬の意味
しかし、縄文語では「ヤマ」というのだそう。

栗=ヤマ。
栗駒山らしい?

トベ研究の綱名先生によれば、
クリの地名は、トベ伝承やナガスネヒコがいた地に多いとか。

生駒山も駒ですから、馬の話しになってます。
だから毘沙門天を祀るでしょ?

ヤマタイは、栗の木のある地ともいうが・・・

 

 

馬頭観音の石碑がたくさんあります。

 

馬信仰ならでは。

このあたり、朝廷としては軍馬が必要だったので、
たぶん、蝦夷もそうだと思いますが、
牧場があったそうです。

それが石巻と繋がっていたんですね~。びっくり

まさか、な話し・・・

たまたま、手書きでノートに記録していた
たった1枚の紙切れが、歴史の資料などをファイルしている中にあり、
開いたページが「伊治巻の石巻」だった。

何の情報から入手したか不明ですが、
最後の最後に、この情報を知るとは・・・。

 

石巻の地名ついて書かれた内容ですが、

地名由来は、いそ(海岸)」+「の」+「まき(川の曲流)」から

転じたものとあるのですが、

他の説として、伊寺水門がある。

 

なぜ、伊寺水門=伊治なのか?

石巻の牧山にいるマキメ(魔鬼女)は、
エミシの奥さんで夫は大武丸と言われますが、
朝廷側と戦って夫が亡くなった。
そのため、妻であるマキメが朝廷軍と戦ってきた話し。

相当なほど、マキメをおっかけてました。

そのマキメ(魔鬼女)がいる牧山周辺も、
馬の産地だったそうで、由来も牧場の牧であり、
松尾芭蕉が石巻で歌った「尾駮の牧」とは、
馬の尾の「まだら」からもたらされたと言う。 


その尾駮から小淵になった地名由来があり、牧場だった説でした。
しかし、海の方で牧場?と思っていたのですが、

実は、石巻が湊としてあったのは、

馬を船で運ぶため

などの港にしたと。
桃生郡は、穀倉地帯で洪水から守るために
石巻に港を置いたという。

 

迫川が度重なる氾濫が多かったため。
防波堤のための港だったのですね。

 

 

迫川は、境界(峠)の意味で、山々の「間」といったニュアンスがあるそうです。
迫川は、北上川、旧北上川と合流し海へ。

馬を船で運び、迫川を使って内陸へ運んでいた可能性が・・・。

牧山周辺にも馬の畜産があったそうです。


それで、どうも、これらのいろんな言い伝えなど、
発端というか、仕掛けをしていたのが、伊達政宗だった・・・チーン

 

チーンな葛西氏な気分。

親分がでた、よ。

たぶん、理由があるのですね。
マキメとコレハリを繋げたい?意図が。
だから、伝承の多くにつじつまが合わないのは、そういうこと。

さて、そんなことがあって思うのは、
前から気になってはいましたが、
伊治水門」のこと。

伊寺とも書くので、気にしてなかったのですが、
上毛野田道将軍のこと。

駒形神社の由来が毛野氏であることにも繋がる。

(諸説はあります)

伊寺水門とは、田道将軍が上陸したと言われ、
蝦夷によって戦死したという。
大蛇伝説があった田道将軍です。

伊寺水門は2説あり、
千葉県と石巻。

千葉県は夷隅郡(いすみ)であり、
伊甚国造(いじみのくにみやつこ)といった。

そして、伊治村は後の栗原になっていますが、
迫川から海へ流れるため、(内陸から海へ)
石巻の地名は、伊達政宗が北上川水系の大河川改修を行い、
北上本流の河口を現在の石巻市につけかえてからの呼称だという。


つまり、石巻の地名の元は、伊治牧(いじのまき)で、
迫川は旧伊治川のことで、北上川の支流だった。
石巻の母流が、伊治川だったと。


石巻の地名のルーツが伊治であったことに。

 

しかし、「石」に漢字を変えているのは、よくわかりませんが、

「巻き石」が由来とも聞きますね。

 

川にあることは言えると思います。

迫川の源流が栗駒山であることも。

 

縄文人は海から陸ではなく、山から海へ流れる思想があるそうです。

大陸の人は、海から山をみる。上陸してますから。

 

上流から下流ですから、伊達家は開拓を行って来たさいに、

遺跡も発見しているはずですよね?

 

今より古墳は数多くあり、まだその頃は、遺品があったと思うから、

伊達政宗も、豪族の古墳をみて先祖のことを考えていたでしょう。

 

そのため、石巻の和淵とか小淵とかの地名が、
馬に関わると思われます。


それだから?石巻の小淵にあるのも五十鈴神社。
軍馬を育てるためにエミシ開拓を行い、
天照大神(伊勢)を置いてきたという事に。

 



エミシ馬が海外でも有名だったことを考えると、
農馬ではなく、軍事用の馬として渡来系の
大きな馬というのが脅威だったのでしょうか?

しかし、朝廷から派遣された多くの人は、
エミシ馬の交易に乗ってしまい、全然、征伐をしてくれない、
といった嘆きのお触れがあったほどです。

迫川は、伊豆沼の方を流れているので、
伊豆沼にも、蝦夷の伝承があるように、
蝦夷(エゾ)からイジになったとも言われ、
伊豆沼は、伊治沼の転訛であるとの説
があったのです。

シ→スとは、東北弁だとそうなるの?・・・

 



迫川は伊豆沼の方を流れ、(青ライン)

 

分岐しているのは、一迫川。

そこに伊治城がありました。

てことを妄想しますと、伊達家も伊治氏も「伊(イ)」で、
繋いでいるのは、「イ」です。
青葉山のイソタケルも「イ」です。


なので、コレハリの伊治とは、石巻の牧山と繋がっていると思われ、
エミシの夫婦が住んでいたという牧山の話しは、
栗原にいたエミシ・・・なのかどうか。

 



妄想がふくらみます。

記録してきた藤原家としては、
敵の名前を書くことを恐れて、
特に女性の名を書くなんて無理ですから。

すべて悪路王や大武丸などと記録していたのだと思います。

 

 

■毛野氏の駒------------------------

最後に、知らなかったこと。

 

上毛野田道の名があるように、
上毛野氏は現在の群馬県で馬の産地です。

戦場ヶ原の戦いは、赤城山=ムカデ、男体山=蛇、
で対戦した北関東の伝説。(噴火伝承)

ムカデを退治したのが、石巻の旭山にいた「アサヒ」の名を
もつ母がおり、その子を猿麻呂といったマタギ?(弓矢が上手)


日光の元祖は、石巻の猿麻呂であるという伝承は、
「太平記:下野国日光~」という書物にあるという。

ひょっとして・・・また猿なんですけど。

鹿島の神のお告げより、猿麻呂はムカデを退治し、
その功績を称えられ、二荒(宇都宮二荒神)の領土を得て、
母であるアサヒは、瀧尾女体に中宮に朝日姫として祀ったと。

 

滝尾神社じゃないのー。

田心姫~

 

ここ、すごくやさしくて、あったかいの~。

日光いったら、絶対に参拝する神社です。

 

 

 

・・・だから、私のご縁も栃木なんすね・・・


む~ん、ますます謎。

なぜ、石巻?

 

石巻の旭山と、日光が繋がる意味は、
毛野氏のルーツをもつ子孫の伝承かと思いますが。

田道将軍がエミシによって討伐されたのは、
駒形=毛野氏である朝廷軍とエミシが戦ったためです。

その毛野氏の地に栃木県だったか「みかも山」があります。
三つの毛。

毛は、ケ=食の意味です。

「豊城入彦(宇都宮二荒山神社)」

ここは、東北から捕虜にされた豪族が連れてこられています。


豊饒がある土地のことを「ケ」とよび、
「討ちてとるべし」と言った竹内宿禰は、
桃生郡の日高見神社に祀られています。

毛野氏は、坂上田村麻呂(マロ)より早くに蝦夷征伐で、
陸奥にきてました。

しかし、年月が経つとエミシの方が強くなり、
言うことを聞かなくなったので、毛野氏を都へ戻し、
変わりに物部氏という名の人を「通訳として」
2名連れてきたのは、マロが征夷大将軍になってからのようです。

蝦夷語?がわかる物部の名。

縄文の末裔だったかどうかは調べようもないですが、
稲を反対したことには、深い理由があるんだと思います。

 

ということで、深いエミシなのでした・・・

こんな時代に生きているからこそ、
何のためにここに生まれて生きているのか、

私なんて、なんでここにいるん?と思いますよ。


そんな、ふりかえりの時に、「ご先祖様はまだそこにいる」
ことに気づいてほしいのです。

 

妄想は自由に言えますけど、(外の人間はその土地に何もしがらみがないから)

こればかりは、地元の方の力によると思います。

伝え方によりますが。

 

何かのお役に立てればと妄想してますが、

エミシについて当たり前のように

語られる時が来るのを、関東人として、そう願っています。

 

石巻は震災で多くの被害を残し、

たくさんの悲しみの中で復興をとげていますが、

前に進めない部分があると感じます。

 

確かに重たい歴史もあるでしょうし、

エミシといってもいろいろな民族がいます。

 

しかし、差別される恐怖というのは、拭えず。

コレハリが受けた屈辱的なものを

どこかで受け継いでいるのだとしたら、

エミシについて知らないでいる方がまし。

 

それは、今の社会にも言えることですね。

 

伝えることの大切さがあるからこそ、

言えないことがあったとしても、憶病にはなりたくない。

 

大変だった「海」を栗駒の「山」が、

繋いでくれているよ!

 

ということを、一番、伝えたいのです。

栗駒山をみてくれ!ってことですな。

 

2014年に登った紅葉の栗駒山

 

 

深い歴史のなかで閉ざされてきた人々の生き様に、

無関心ではいられないのが、私の性格。

 

 

報いるために、プライドをもって、

伝えるべきと感じるのは、エミシの地だからです。

 

 

何かの形で受け継いでほしいものですね。

 

 



そんなことで、意外にも栗原が石巻と繋がっていることを
知るコレハリ探訪でした。

もうギブーっ。

 

ミッション終了~でもなさそうだよ。

 

まだまだ、こりゃ続きそうだよ・・・カエル