一昨日、寝ている時に、
ぱっと目が覚めて、その時に
「観音堂3番」と浮かんだんですね。
そのまま寝たのですが、朝起きても覚えていたので、
なんで観音堂の3なんだろう?と思い。
益子神社の話しで、急に3の話しをしたのも不思議だったので、
たぶん、333という事になるんだろうか?
奥州札所三十三観音のことかと思い、
調べてみたら、一番と二番は参拝したことあったけど、
三番は行ったことがなかった。
天気がいいので自転車で行くことにしました。
ママチャリ探訪~。
田んぼには水がはってます~。
高舘山麓は、飛鳥の地名なんですよ。
それで、ネットで調べると、
名取市では奥州札所三十三観音は、
川上観音堂(別名)とある。
しかし、なんだかわからんけど、
「熊野山新宮寺(しんぐうじ)」になっている。
納経所は熊野山新宮寺という事で、混乱。
熊野神社新宮にある文殊堂は、新宮寺一切経と言います。
元は境内の鐘撞(かねつき)堂付近に建っていたそうです。
一切経は仏教聖典を総称したもので、
別名大蔵経(たいぞうきょう)とも呼ばれ、
全部で5,000巻余りと言われています。
たぶん、GWに田束山へ行った事から続いていると思い、
後で書く予定ではありますが、
あの山は、経典を埋めている山だからです。
ずっと末法思想・・・。
妄想するに本地垂迹説という話し?
釈迦の生誕地インドから遠く離れた辺土という世界があり、
末法の辺土では、仏がそのまま現れても衆生を救うことが出来ない。
そこで仏は方便をこらし、神に姿を変えて我が国に垂迹したとする説。
世がすたれて修行しても悟り(成仏)を得ることができない
時代になるという考えが末法思想ですが、
コロナによって混乱をきたしていること。
震災があった時もそんな時代への突入な気分でもありました。
津波研究をされている先生方がもう研究ができないといった。
作家:高橋克彦さんのように蝦夷の小説を書いてきた人も、もう書けなくなったと。
多くの人にとって震災が転換期となっていることは私もそうですが、
自信を無くした人が多かった時。
浄土とはなんだ?ということに至るのですが、
ここでこうして生きています。
塀に咲く花も生きている。
これも意識の変革にとって必要なことなのかどうか、
釈迦如来(本地)が人間釈迦(垂迹)に姿を変えてこの世に現れ、
人々にその教えを説いたと記されている話しがある。
それが熊野信仰にも影響されています。
熊野の神々を総称して熊野大権現(仏が神の姿で現れる)と言うのは、
この説に由来するのだそうです。
観音菩薩の補陀落浄土というのがそれもあり、
浄土は熊野灘の向こう、太平洋の彼方にありと言われる。
名取では、閖上の彼方?
ゆりあがった観音様。
なんと、参考にした(↑)新熊野神社は、猿楽が発祥だった!
途中、大門山遺跡があるので近くまで行ってみましたが、
山中に入れる雰囲気なし・・・
たくさんの板碑が見つかっています。
石巻の次に名取が多い。
新宮寺の号は、熊野山。
元は京都の醍醐報恩寺末。
本尊は不動。
別当で末寺に、中田の宝泉寺、北釜の観音寺、
金剛寺(今回行った観音様)、愛島の安養院など。
地蔵堂
白いお地蔵さまでした。
■川上観音堂--------------------
さて、ここから自転車で10分ほど、
川上の方へ向かいます。
こっちが気になる。
高舘山の西方面。
増田川。
大雨で氾濫しかけた川でした。
東方面
奥州札所三番、川上観音堂。
金色の十一面観音像があります。
昔の街道にあるので、馬頭観音像など絵馬もありました。
庚申碑が倒れていたりで、雑になってるぅ。
手入れされていないようです。
お堂はきれいなんだけど、こういう所があると、
ここにたまってしまいます。
名取の歴史によれば、
川上遺跡は、縄文~中世にかけての遺物の散布が見られるとの事。
発掘調査では、中世の時期を主体として、
溝や塀跡で区画された建て物跡、掘立柱建物跡の規模や
その配置状況から一般集落とは異なり社寺的性格(宿坊)
のある遺構群が発見されました。
熊野の宿坊跡(およそ15箇所)
このあたりで陶磁器が多く、常滑産や渥美産と思われる陶器、
中国から輸入された青磁が見られます。
13世紀~15世紀頃(鎌倉時代後半)と考えられ、
那智神社に関係する宿坊跡と思われます。
十一面観音信仰はとても多いです。
「3」のメッセージは、十一面観音様だったのかな~。
平安時代の図。(お顔がやさしんだ~)
頭上の正面側に柔和相(3面)、
左側(向かって右)に憤怒相(3面)、
右側(向かって左)に白牙上出相(3面)、
背面に大笑相(1面)、頭頂に仏相を表す。
いつも一緒。
終わり良ければすべて良し。