■富士山との関係--------------------

夢に登場した老犬神社は、
マタギ犬のシロの伝説です。

 


このようなマタギ犬の話しは、富士山の麓、
山梨県にもありますし、
各地にあるマタギ犬の伝承のひとつです。

これが、「狩猟を神事とした壮大な軍事訓練」に
関係していました。

狩競(かりくら)の一種。

老犬神社は言い伝えによれば、


江戸時代、定六という叉鬼(またぎ)がおり、
定六のご先祖様は、源頼朝の時、富士山の巻狩をした時に
目覚ましい働きをしたので、その功により代々相伝する
列記としたマタギになったと言われます。


頼朝が信仰深い人だったことを考えれば、
壮大な・・・を想像するのですが、
場所は、現在の富士山の忍野八海らしいです。

 

御醍醐天皇は、朝廷に政権を戻したく、

強かった武士の鎌倉幕府を倒したかった。

 

幕府を倒した後、武士からの不満があったのか、

足利氏らに追われて吉野に逃れる。

そこで南朝をたてるのです。

 

南朝は、天皇が自ら政治を行うことを望んでいたことですね。

で、実は、この富士の狩猟の歴史の発端が、
新羅三郎義光と言われた源義光らしいのです。

青森県八戸に祀られる新羅神社の人。
遠祖新羅三郎源義光公4代孫
加賀美次郎遠光という方
で、
えんぶり長者ですよ!

 

 

 

新羅三郎義光が1083年の後三年の役の頃に、
流鏑馬神事を行い、山伏、農民、案内人など
約5000人ほどの兵と、
甲斐黒駒の馬を200頭集めて富士山の2合目あたりで
戦勝祝いをしたという。


で、小室富士浅間神社に、
この新羅三郎の神像があるという。

 

 

御祭神:コノハナサクヤヒメであり、

護良親王の首を桂の神木の根元に葬り、祈請書を残すと。

 

 

富士山が神輿にっ!

 

富士の巻狩りの神事は、大きい猪を狩ります。

マタギにとって、猪は山の神であり、
奉納の意味がありますから、鹿とイノシシは山神です。

 

 

※四日市祭「富士の巻狩り」
暴れまわる大猪を諏訪神社境内へ追い込み、
子どもが扮した源頼朝公以下の侍たちが射止める。

その狩りをしていた新羅三郎は、甲斐源氏の祖。

同じところに、護良親王の伝説が。


大嘗祭の海民(国栖氏)の記事を書いたけれど、
「おまけ」で書いた聖徳太子の甲斐の黒駒は、
全然、おまけではなかった。。。

どこかで天皇家の血統と関わっていると想像し、

主張したい吉野派がいる・・・。

 

護良親王が富士山と関連つけられているのは、

マタギたちが関係しているのでは?

なぜなら、甲州のマタギとは、隠密とも言われ、
マタギは峠を越えることを唯一許される職業でもあった。
各地の藩に免除されているのは、マタギだけだという。


そのため、甲州のマタギは徳川家康につき、
その務めを果たしていたのが「橘氏」であり、
犬飼家の末裔であると。


真野生まれの橘墨虎が繋がっているようだね~。
古くからそういう事をやっている家系のようです。

 

それに吉野も、マタギの聖地らしい。

という事だから、
老犬神社の定六も
「南部信直から天下御免の狩猟免状をもらった」
ということで、隠密的な役目をもっていたと想像し、
その背後に、安倍氏がいるのですね。

伝説によれば、「三戸に向かって鉄砲を撃った」と
罪をきせられ、三戸藩に処刑されたという。

また、なぜ秋田なのかは、
能代に甲斐武田氏が逃れており、
安東家と関わってきた人だったんですね。
阿仁地方にも来ていると思います。

狩猟を行っている人たちの派閥が強かったかもしれず、
山などの土地の所有権を奪いあったことも。

武術にもすぐれていたため、
頼朝の後になって南北朝が分断した時に、
南朝は、狩猟の力を利用していたそうです。

 

南朝が敗北して東北各地にマタギの保護により逃れているのかもしれない。

 

そんなことで、妄想ではありますが、

石巻に一皇子の伝承があるのは、

マタギたちが一族をここまで連れてきたのか、

保護する環境があったのかも。

 

そのため、富士山の巻狩のように訓練されたマタギの中に、

護良親王が深く関わっていたのではないでしょうか。

 

それで、今さら気づいたのですが、

 

真野の零羊崎神社は、豊玉姫命で、

牧山の零羊崎神社は、豊玉彦命で、

男女の夫婦神が、分断している・・・

 

なぞ~

 

※牧山参道途中にあった彫刻。

宮城では、
大張(丸森の猪退治伝説)→亘理→名取→石巻(北上)
と北上しているのが、「橘墨虎」として伝わっていると思い、

山民と海民も同じように共同体で、
阿武隈川、名取川、北上川を使っていると思います。

なので、霊山にも南朝側の一皇子がおり、
石巻の牧山にも一皇子がいるのです。
逃れた足跡に、墨虎の影(時代は南北朝より前)

 

蝶がいたよ。

また、甲州と秩父を自由に行き来していたのは、
日光修験であり、狼信仰ですね。
ここもヤマトタケル。

徳川家康が秩父を重宝していたのは、
甲州からきているマタギがいたからです。

そのマタギとは・・・隼人の遠吠えでは?
遠吠え神事は、大嘗祭でも行われており、
隼人の犬吠えと言う。

 

隼人も、ワタツミだし。

これが修験者に広まり大きな声を出しながら
参道を歩くという話しに繋がるのだと思います。

 



秋田の方ではマタギは狩りをする時、正装するのが習わしが
あったと言われます。
髭もそり髪も整えていく。

マタギは山神を重じますね。

南と北にわかれた分断を「和解」したいと
思っている何かがあると感じるのですが。

震災で太平洋側は、大変な思いをしてきました。
今でも苦労されている方は、たくさんいます。

案内して下さった方から、あの時、なかなか水がひかず、
牧山の尾根をつたって零羊崎神社で1ヶ月ほど過ごしたそうです。

どんな気持ちで過ごされたのでしょうか。

土地神やご先祖様が、そのことについて、
何も感じてないはずがない。


分断が悲劇を生む。
護良親王も、そう言いたいのだと思います・・・よ。

 

もしかして、マタギの姿になって逃れていたことは、ないのかな?

そんなことで、牧山に登らなければ、
気づけなかった歴史でした。

今回も一期一会の旅でした。
今まで石巻ではこんな出会いはなかったので、
良い方向に進んでいくことを願っています。