春ですね~(4度目のさけび)

 



天気悪かったけど、朝、三神峯公園の桜をみてきました。
満開の時に来たのは初めてです。

 



後でいろいろ書いておきます。
(書くこと多すぎ・・・)

■栄存法印の伝説----------------------

牧山の零羊崎神社の下の方におりていくと、
栄存法印を祀る栄存神社があります。

 



栄存さんの伝説を。

『むかし、江の島(女川町)は、罪をおかした人々が流された島だった。
いまからざっと300年前あまり前のこと、栄存というえらいお坊さんが
石巻の牧山にやってきた。

 



栄存は修行をしながら、諸国をわたり歩いてきたのだが、
牧山で荒れはてていた長禅寺というお寺をたてなおして、
土地の人々の幸せのために一生懸命つくした。


とくに、ここの領主であった笹町但馬は、栄存の力を大いに認めていた。
やがて但馬が病気で亡くなると、その息子の新左衛門重頼が後を継ぎ
町奉行に任命された。

ところが、新左衛門は、かねてから栄存の名声をねたんでいて、
なんとか陥れようと機会をねらっていた。
あるとき、新左衛門は、栄存が大切にしていた
九斑(まだら)のかえで」を
殿さまにさしあげるよう命令した。

しかし、栄存は、「ふるさと大阪を出てから、ずっと諸国を持ち歩き、
大事に育ててきたものを、殿さまだからといって、
どうして差し上げられましょう

と断った。

 



かえでをさしだせと言ったのは、これは新左衛門のはかりごとであったが、
「領主に逆らうような坊主は許してはおかぬ」
と、激しく怒り、人をそそのかし、
「栄存は、ひそかに姪のかえでという女を妻にしている。
これは修行者としては、あってはならないふるまいだ。」
と、でたらめな噂を広めた。

栄存は、必死に言い分けをしたが、
「たとえ噂にせよ、そのようなことは出家の身に許されぬこと」
と、栄存を江の島に流してしまった。

無実の罪で島流しにされた栄存のうらみは、ものすごいものでした。

3年間というもの、来る日も来る日も、
新左衛門をのろい続けた栄存は、死のまぎわに、
島人をよび、
「わしのしかばね、必ず逆さに埋めてくれ」と言い残し
、天をにらんで息を引き取った。

島人は、そのありさまのあまりの恐ろしさに、おそれをなし、
普通どおりに埋めて弔った。
ところが、それからというもの島には病人が出たり、
いく日も海があれる日が続き、
漁に出られないという不吉なことばかり起こった。

慌てた島人は、栄存の遺言通りに逆さに埋めなおし、丁寧に供養した。

そうこうするうちに、石巻に大火事が起こり、
笹町新左衛門の家も焼け、まもなく新左衛門は病気で死んだ。

妻も息子もみな狂い死に、殿さまに差し上げられた「九斑のかえで」は、
まもなく枯れ、姪のかえでも栄存の不幸を悲しみ、自ら死を選んだ。

栄存の死から50年後、大赦令(罪を許す命令)が下り、
墓は江の島から牧山の長禅寺にうつされた。

栄存は、いまでも江の島の小高い丘の神社に祀られ、
火事の守り神として信仰を集めている。
牡鹿半島一帯のどの家にも、栄存様のおふだが掲げられている。』

(宮城県の昔話より)

 



こんな話しを読んだら、
栄存さんが怖いと思うじゃないですか・・・
 

でも、以前、歴史クラブと皆で参拝に行った時、
素晴らしい小雨が降ったんですよ。

 

ほんとは、栄存神社は避けようと思ってましたが、

メンバーの一人が気になると言い、行ってみたいとなったので、

参拝することにしました。

それが不思議なことで。

神社について参拝しだしたとき、

さらさら~と天気雨ですが、糸のような雨が降ってきたのです。
糸雨というそうですが、あんな優しい雨は初めてでした!照れ

 

 

実は、川崎町の釜房ダムの山にも、

栄存法印の石碑があるんですね。

なぜあるのか不明ですが。


皆、栄存神社がとても良かったと言ってました。

 

坂上田村麻呂と一緒に祀られているという
悪玉姫の像は栄存神社の社務所に
置かれていると聞きました。


境内に祀られていた疫病退散の
元三大師もあり、コロナ流行する前の年の9月だったので、
タイミングが良かったお参りでもありました。

 



比叡山延暦寺と関係あり。
角大師といいます。

疫病を飲んでくれたシバ神みたいな方ですね。

 

 
今思えば、コロナ流行する前に、三観音を2回も巡ってました。
観音霊場の意味も、元は、医療が充実していなかった時代は、
病気の蔓延です。
 
観音霊場を巡れば、痛みや苦しみから解放される。
 
いかに疫病退散するか?
が重要な時代でした。


という事で、あんな雨を知ってしまったので、
栄存さんは良い人だったと思います。

悲しみの雨かもしれないけどね。

 



冤罪など悲しみもって死を遂げたエネルギーは、
ぱらぱら雨が降ります。
雪もぱらぱら降ってきます。

中国の雲南省では冤罪のことを記すのに
「6月の雪」の伝説があります。

これは、季節はずれの雪のことで、
どこかで「冤罪」がある意味だそう。

 



日本の伝説でも、
季節はずれのころに一か所だけ山に雪が降っているか
降っていないか、と語る部分はあります。

中国では季節外れの雪やあられや雹は、
「外敵による侵入」を暗示し、それを「除ける」ために、
武甲山や熊野神社の「氷雨除けの護符」があると思います。

ヤマトタケルの息吹山も氷雨を降らされ、
鳥海山もそうです。

朝廷側(勝者)としては、阻止したい、避けたい思いがあるでしょうが、

根本的な深い溝があり、誤解もあります。

今もそうですが、和解に失敗したこととも言えます。

 

その意味の裏に冤罪だったことを、

後世、子孫が伝えているものです。


ヤマトタケルは、マシキトベ。
坂上田村麻呂は、魔鬼女。


鳥海山は・・・「うやむや」のこと?

『女川町誌』によれば、

栄存法印は、海から川を切り開いて船が入れるようにしたという。
治水工事も率先して行っており、その功績は地元の方からも
称えられていたそうです。

しかし、笹町但馬(現:兵庫県)が亡くなった後、
新しく入った町奉行の性格の悪さがたたり、
栄存さんは利府の一部を領地にしていたのを奪われたという。

栄存さんに対する嫉妬なのか何だか、
気に入らなかった奉行は、ますます栄存法印をおいつめ、
牧山の領地にも入りこむ。
何度も栄存さんは官に訴えたけど、聞き入れてもらえず。

町奉行VS栄存法印との牧山領土問題で、
バトルになった際、冤罪として罪をなすりつけられた
栄存さんは、孤島に流されたということです。

栄存法印は、
豊臣秀吉の臣片桐且元(かたぎりかつもと)の息十郎左ェ門の
二男に生れ、大阪落城の後諸国を巡錫して奥州に下り、
仙台満願寺に居た
そうです。

 

※ 片桐且元像

「逆さに祀る」や「逆さに埋める」風習は、
金がとれたのの岳でもあります。

坂上田村麻呂(以下マロで)が悪路王を追いつめた話で、
それから、逆さに竹が生えるようになったという。

葬儀とは非日常的なことなので、
普段とは逆にする習わしがあります。
北枕とか。

逆にするのは、魔よけでもありますが、
生きることの裏返しなので、
立派な僧侶など、神格された人には、
そのように祀る習わしがあったようです。

 

■長谷寺が古い?---------------------------

石巻の資料に、マロは京都の清水寺を建立し、
十一面観音を祀っている由縁がありますが、
同じように陸奥に由縁としてあるのは『長谷寺験記』で、
これがマロが最初に陸奥に建立した「新長谷寺」(三迫)という。

陸奥国三ノハマ』(陸奥国三迫?)
という所で乗馬していた馬が亡くなり、
埋めて寺を建てたという。


長谷信仰は、マロとの関連を示すために奥州七観音としてますので、
それによって各地に長谷寺が創建されたそうです。

ですが、すべてマロが建立したわけではないので、

史実とは異なる部分もあります。


マロばっかりですが、

そのような由縁にしたい意図があるようです。

しかし~、マロの後始末を坂上家がやっているのですが、
それに対する話しは全くと言っていいほど、ないんですね。

あの後の坂上家は花巻で毘沙門天を建立したくらいで、
宮城県では、ほとんど伝承がないと思いますが、

聞いたことがないですね。

長谷の地名は、旭神子の千貫・深山にもあるので、
関連づけされた所には、長谷信仰があるわけです。

たぶん、マロは奥州街道を通ってきてますから、
東山道はどうなのかな。

高舘山にも来ていたのでは?と地元の人から
聞いたことがありますが、調べようがないのでね~。

ただ、源頼朝がきているので、
マロの後を追っている頼朝を考えれば、
高舘山から閖上をマロも見ていたかもしれないね。

そんなことで、
牧山については、また書くことあると思いますので。

最後にマキメの鬼について。
重要だったあのお寺についてもう一度、まとめます。