栗原の語源由来になっている説に、
伊治公呰麻呂(これはりorこれはるのあざまろ)の名があります。
南のアテルイ」と称され、
後にアテルイがコレハリ(伊治)の後を継ぐようになっています。

伊治を筆頭にエミシは多賀城を焼き討ち、
多賀城に終止符をうった人物でした。

そんなことがあった多賀城政庁へ向かう。

志引遺跡から広い道をでます。

この先歩いて左に曲がるとすぐ廃寺跡。

 



その前に立ちよったのが、廃寺跡でしたが、
後でまとめておきます。

 



■多賀政庁へ--------------------

 



つぼのいしぶみの向かいが多賀城政庁です。

 



工事をしているので道が狭い~。
歩く時は注意。

駐車場は近くに公園としてありますので、
そこから徒歩であれば、すぐ近いです。

 



栗原に行っていた時に、伊治(コレハリ)について、
いろいろ書いていましたが、
多賀城の伊治については、今まで気にしてませんでした。

 

 

しれっとカラス。

 



780年、アテルイは、「伊治公呰麻呂の名で帰服」
し、エミシの族長として伊治城の城主を務めるとあるのですが、アテルイは総称らしい。
 

カラスらしくないカラスがいて、

カラスは黒いし死の使いといわれ、嫌がる人も多いですね。

でも古代、カラスはヤタガラスのように、

恐竜の時代の名残か?巨大霊鳥類が実際いた為(数千年前と思う)

それを操る人をヤタガラスと言ったことを聞いたことがある。

 

なぜか、太陽の象徴となりました。(太陽黒点かな?)


あの世と通信している鳥といわれますが、
群がるカラスは嫌だけど、
一羽のカラスは、ちょっと違う気がするね。

 

 

ひなたぼっこしているおばちゃんの前を堂々と通りすぎるカラス。

多賀城政庁らしい光景~。笑

 

 

ただ、なんとなく切ない後ろ姿・・・

木に向かってつぶやいている?カラスなのでした。

 

さて、


多賀城を焼き打ちした伊治は、後、北の胆沢へ移動。


3,4世紀頃から農耕社会が成立していた豪族がすでにいたので、
生産力を強くし軍事力に転化したのがアテルイであり、
アテルイという名前に変えて戦う組織を作ったと言われます。

 

伊治は、北方系夷種が南下して特異性をもったという。
田道(たじ)という人がいて、エミシの反乱を防ぐために向かったけれど、
敗戦し伊寺水門で戦死。

 

その場所が2つ考えられ、現:千葉県勝浦の伊甚国というのと、
牡鹿(石巻)の牧山付近。

 

 



この伊寺水門と伊治が同じ音で、
「イジ」「イジュ」とよんで異種(エンジュ)
からイズ、エゾではないか?
との説があります。

そして、780年 伊治公呰麻呂は陸奥国多賀城焼き打ち。

 

 

星で例えるならば、

戦う気満々だったオリオン人を、

蘇我氏(秦氏)が平和を求めたシリウス人で、

マロがその仲介をもったプレイアデス人みたいな。

妄想です・・・

 

 

 この間、牡鹿郡大領道嶋大楯という人と関係が悪く、呰麻呂に殺害される。
道嶋も同じエミシの出なのに、

「現地官僚の身分であるが、もとを正せば卑しいエビスの出。
なりあがってここまできたんだろう」


みたいなことで罵倒され、
うらみをもっていた呰麻呂により殺害されたという。
同じエミシ同士なのに、仲が悪かったらしい。


そのことがあり、
788年 紀古佐美が征夷大将軍になります。(衣川区に陣をはる)

『続日本記』によると、アテルイは紀古佐美の反撃にでる。
奥地の川へ追い込み、前後から襲撃。

 

 


巣伏の戦いでは、水死者1000人以上に達する。といった細かい内容まで記されている。
水攻めを知っているということは、水の扱い方(川の側にすんでいた)
人の戦術だと思います。
チグリス・ユーフラテス川・・・

 

 

 

「呰」の名前は珍しくないにしても、

「痣」に通じ、身体的な特徴に由来する」ことと、
「古代においては計帳に記述する

身体的特徴として注記する情報でもある」
ことを考えると、

朝廷は区別させるために、その名を記してエミシと

関わりをもっていたと思うのです。

 

それが差別されていたことなのかどうか。

罪を犯した者の顔に入れ墨をする風習がありました。
大陸から捕虜として日本に連れて来られ、
奴隷として働かせていたようです。

 

 

(北側の石(土台)は実際のものが残されているそうです)

身体的なものだったか実際はなかったか、不明ですが、
何らかの要因があり、痣という名から「あざ」の名がついたと。

そのため、差別(俘囚)であることを嫌がり、
朝廷側についた熟蝦夷だったと言われます。
(どちらにも属さない者は、荒蝦夷とされます。)

しかし「アザマロ」というように「麻呂」の名がつくのは、
位のある人につけるので、アザマロは、良い地位についていました。

 

 

朝廷側にずっと仕えていたはずなのに、
裏切ったような話しになっています。

紀広純と道嶋大楯が伊治城へ入城したところ、
反旗をひるがえします。

 

(伊治城跡)

差別の侮辱から「軍に縁りて嫌あり」といったかどうか。
軍の中でも嫌う(差別)があると言う意味?

伊治氏は、夷種公とされていたらしい。
蝦夷側(荒)の方とされていたのか。

しかし、多賀城を焼き討ちしても、
罪に問われることも処罰もなかった
ので、
伊治氏がどのような位置にいたのか、
わからない部分が多いです。

 

 


■山の馬文化と海の蛇文化------------------------

 

政庁跡は、かなり広くなっています。

 

 

 

ところで、

白=外=朝廷側
黒=内=蝦夷側


という図式があります。

 

 

春ですからハクセキレイも散歩。

 

 

ちらっと見つかる。

白と黒は、キミのことじゃないよ~。

黒川という地名や川があるのは蝦夷との国境では?
茨城県の那珂川のあたりに確か、黒川があったと思う。
以前みた夢の答えがわかった!

あの夢の時、電車で「黒川行き」の列車を待っていた。
確か、「茨城」の看板があったので、
茨城の黒川?と思った夢。

ブログを読みかえしてみたら、
河童とかアントンイソラとか書いてた。

安曇氏のことだったわ。

そしてそれは、朝廷と蝦夷の境が白河で、
茨城県も土蜘蛛やら星神やら、
征伐があった所です。
そこにも黒川があったからです。(利根川と合流)

「白」の河(朝廷)に対する、蝦夷の「黒」川です。
内と外の境界に、白と黒の地名をもつわけです!
そんな夢だった・・・


黒石寺もそうであるように、
黒が蝦夷の象徴になっているのです。

それで、伊治に殺害された道嶋氏は、丸子氏(和邇)一族でした。
王仁ですから、百済系の渡来人だと思う。

桃生・雄鹿郡を治めていた海人族だったかも。

これが異なる民族の発端で、
南方と北方の違いがあり、

南=蛇=海民(朝廷側)
北=馬=蝦夷

との違いがあるとな。

和邇氏は5世紀頃、武蔵出身ともいわれ、
鳥海山の方へ行って丸子氏になっています。

後、鎌倉時代になると葛西氏が継承します。
葛西氏も石巻~一関の海側治めていた人で、
熊野信者です(熊野水軍)

和邇氏らは、太陽信仰をもち海人族の大蛇(龍)系一族です。
日置部は、九州の鹿児島発祥。
九州の豪族は、全国に散らばって子孫を残している。
その大本は、太陽信仰の海人族、海部氏、物部氏らでしょう。

それに対し、エミシは騎馬民族の馬の方で、
北方の民のため、オシラサマ信仰が広まっているのだと思います。

 

 

確かに、栗駒山(栗原の)は、馬を神格化してます。

山開きには、藁の馬を祀る。

 

天を駆け巡る馬ですよ。(家紋が菊)

 


モンゴロイドの方の遺伝もあるそうで、
たぶん、ネイティブアメリカンもその系譜を持っていると思います。
遺伝は違うがアイヌ人も含まれるでしょう。

蝦夷馬というように、東北は馬(農馬)が盛んで、
古くから農耕を行っていました。

海人族は、フィッシャーですから航海してきた人たち。

紀氏もそうで、アテルイらによる反乱があったのは、
大きな内乱ではなかったけれど、
海民と山民の摩擦があったと思います。

馬に乗る人は、馬を蹴るので下半身が強い。
海の人は船をこぐので、上半身が強い。


という事があって、朝廷は海人族を海賊として育て、
政治・軍事に起用したのだと思います。
(上半身が強い方が戦う時に強いから)

それに対し、騎馬民族は移動する民族だったため、
争いをするよりは、新天地をめざしていた方だと思います。

北へ北へと逃れて行った・・・ではなく、
北からきているから、どんどん南下して領土を広めていった。

朝廷は、北方の民が南下するのを恐れて、
柵を置いているわけです。

新羅が迫害されているのは、
秦氏が新羅から来た人なのですが、
彼らは騎馬民族だったからではないでしょうか。

 

八幡神も馬を神格化して祀っていることが多く、

馬に乗っている神です。

秦氏はベドウィンぽい。
秦氏があまり政治に関与していないのは、
戦う民族ではなかったと思う。

 

アメリカの男女とアラブの男女の考え方は、

日本もそうですけど、全く違うものですから、アメリカが考える男女平等なり民族の差別は、

白人の遺伝的な弱さからくる防御があると思います。

(アジアの自然環境に慣れない)

 

植民地化してきたのもそうですね。

そうでなければ、遺伝は守られない。

その価値観は違います。

 

血統とは、とても重たいものです。

その点、アメリカは自由でいいと思います。

 

 


彼らは、移動してきた砂漠の民です。
シナイ山にもいたからね。
そのイスラエルの方からきた人々がエミシと
関わりをもっていたと思います。

最初に来たのが騎馬民族であり、大和朝廷を平定していたが、
ヤタガラス率いる海人族の力により迫害されたかもしれず。


だから、
エミシは民族としての

プライドがあったんだね。

 



いろんな民族紛争があってのエミシ征伐なのですよ~。

でも、もう終わったことですね。


エミシの話しは、まだまだありますが、

手放すことですね。


多賀城の歴史については詳しくわかりませんー。


ちなみにホツマツタエでは、
オシホミミとタクハタチチヒメが結婚した所
(多賀城=ヤマテ宮)と言われていますが、
スサノオではなく、ミミの方が好きだったことを思い出す。

だとしたら、そんな多賀城を壊しちゃったアザマロって
なんなん?

ミミに興味をもったのは、多氏のタタラ話しからで、
「神八井耳命」という「耳」の名をもつ海洋民族。
秩父に多氏(熊本発祥)がきていた!という根拠がない確証に、
なぜか萌えた。

まほろばブログを書き始めたころから、
多氏にキュンキュンしてました。

今は、冷めた。(すぐさめる~)

ミミ待講というのがありますが、
己巳待ちではなく、私の場合、オシホミミの出待ちという、
ミミの一ファンだったという事なんでしょうか?

出待ち!笑~

多賀城でミミの出待ちしても、うんでもすんでもないがね。

 



そんなことで、多賀城はおしまい。
もう飽きたので(すぐあきる~)
裏の道にでて、塩釜の方へ向かいます。

途中、いい神社をみつけましたよ~。

次は神社の話し。