柴田町さんぽのつづき。

「しらす」みたいな雲・・・

 

 

新緑の田植の時期も、宮城県はお米に力を入れてますので、

実りの風景が各地でみられます。

 

 

 

いつも蔵王がみえる。

 

 

通学路になっている道ですが、小川がきれいなんです。

 

 

 

それもそのはず。

ホタルの里でした。

 

ぼやけてるっ!泣

 

鹿島神社へは、一度行ったことがあるんだけど、
また違う道を行く。
いつもすんなり行けない。
迷い・・・戻る。

森へ続く細い道を発見。
思いだした。
工芸店の裏道でした。

電線に止まっている1羽のカラスが、
道に迷っている私の様子をうかがっている模様。

なにやってんだべ~。
と言っているのかね。

 



■鹿島神社--------------------------

鹿島神社には必ずといっていいほど、要石があります。

 



由来によると、祭神はタケミカヅチで、
1569年~1615年に日向坊が
常陸国(茨城県)の式内社鹿島神宮から幣帛を受けて、

奉祀したと伝えられています。

明治43年郷社八雲神社に合祀され、戦後分祀されました。
境内は常陸の鹿島神宮を模したといわれます。

 



その最たるものが「要石(かなめいし)」です。

鹿島神宮は、地震を鎮めるという信仰があります。
境内に鎮座する要石が地震の源である鯰が暴れるのを
抑えつけているとの信仰です。
上川名の鹿島神社にもこの要石があります。(看板より)

 

 

 

 

ここは、カシの木が見事です。

 

 

次は、貝塚へ向かう。

 


関東地方でもそうですが、貝塚のそばに鹿島神社など、
多くの寺社を祀っていると思います。


例えば、茨城県(上島津)稲敷郡宮平貝塚と鹿島神社。
東京大森貝塚と鹿嶋神社。
千葉県若葉区貝塚群と鹿島神社(鹿島神社そばに貝塚有)など。

 



■マオリ族はどうしていたのか--------------

急にマオリの話しになりますが、
貝塚は、宮城県との県境にある新地町にも多く残されています。

私が何度も登っている鹿狼山の手長足長明神の
貝塚なのですが、手長足長という民族は、
ポリネシアンの方では?という説もある。

 



手長足長のダイダラボッチは、どこからやってきたのだろう?
伝説や歴史を考えると、
壱岐→九州→出雲→諏訪→埼玉?→会津→山形→秋田・・・?

のルートになるみたい。

埼玉はびみょー。

会津から日本海には、ボッチさんがいっぱいいる。

 



日本列島は海賊(ワタツミ)で支配されていたといわれており、
なかなか日本への上陸が難しかったと言われます。
特に九州地方では。

 

※マオリ


身体に入れ墨をした人たちといったら、

南の島であるポリネシア諸島。

手長足長は南からカヌーのような船に乗って
やってきた人たちではないか?と思う。

アイヌ語のほかにも、日本語とよく似ている
言語でポリネシア語があります。

縄文人のルーツは、ラピタ人という人類初の太平洋を航海した
人達という説もある。(東北は寒かったよね~)

ニューカレドニアの文化をもち、「穴を掘る」
「穴を掘った場所」の意味があるハペタアが由来だとするが、
発掘した遺物のことを指すらしい。

→穴に住む土蜘蛛と関連づけられる。

マオリやタヒチ起源説もあり、
狩猟採集で身体に装飾の刺青をしていた人たちが
縄文人と骨格が似ている
こともあって興味深い。

ニュージーランドも火山の島。

火山の火を吹くエネルギーを神として捉えるところは
縄文人の特徴ではないだろうか?

太陽を神格化するところや大地母神も共通していますね。

今、ニュージーランド付近での地震が増えています。
3・11の震災の数週間前(2・22)ニュージランドで大地震が起こり、
死者185名、負傷者は数千人。
日本人留学生も20人くらい亡くなりました。

その数週間後に、東日本大震災が起こる。

その記憶があるため、ニュージーランドで大地震が起ると、
震災の連鎖が・・・を想像することが多いと思います。

ニュージーランドと日本は、
その地学的環境がよく似ているそうです。


ともに環太平洋火山帯に含まれて複数のプレートの境目に
位置しており、そのために多彩な地形に恵まれる一方で、
地震や火山噴火の頻発というリスクを抱えている。


ニュージーランドの場合は,オーストラリア・プレートと
太平洋プレートの境目に位置しており、

さらに北島全域と南島北部はオーストラリア・プレートに、
南島中央部・南部は太平洋プレートに乗るという複雑な
状況になっており、
これらのプレートが動いて日常的に地震が起きている。

※2011 年クライストチャーチ地震への「マオリの対応」深 山 直 子
https://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/1091/1/komyu37-08.pdf

この論文では、地震があった時、マオリ族が居住した被災地には、
支援が進んでいなかったようです。

しかし、マオリ族の指導者などが連携し、
「マオリ復興ネットワーク」なるものを形成し、
都市部や各地にいたマオリ族への支援にそそいだ、

といった内容が書かれています。

難しいけど、参考になる話しですな。

■上川名貝塚へ-----------------------------

鹿島神社を降りると、すぐ向かいが高台になっており、
貝塚があります。

 



「上川名 郷土の歩み」より。
その一部を引用。


古代、上川名地方は、縄文時代早期より(9000年前)、
人間が居住し生活を営んでいた事は、
上川名貝塚が何よりの証拠であり、
発掘により出土した品々が証明となる事と思われます
(昭和21年坪井正五郎氏の発掘)。

現在、水田になっている場所は、
縄文時代は深い沼地であったと想像されます。
海の時代説もありますが、それは何万年以前の事と思われます。

名取地方にも縄文時代の遺跡が数多く発見されております。
それ等から考えて見ますと槻木地方の縄文時代は、
海ではなく沼か又は入海の説が正しいと思われます。

 



上川名貝塚の発掘調査で判明した結果では、
下層はハマグリ、上層はシジミと、
はっきり分類する事が出来ます。

縄文時代は海ではなく沼であり、草が繁っては枯れ、
枯れては繁茂を繰り返し、
何千年に長い歳月の間、堆積して泥炭層が出来たものと推察されます。


 

鹿嶋神社裏の縄文時代早期の貝塚と
中期の上川名貝塚が何よりの証拠と思われます。

考古学者坪井氏の発掘調査により、
人面土器須恵器や狩具、漁具等数多くの発掘を得て、
考古学上貴重なる発見と同時に、
上川名地区の歴史を知る上からも大変参考になった事と思います。

上川名貝塚の発掘調査と同時に考えられます事は、
先住民族が魚・貝を主食として毎日食べた殻を捨てたのが堆積して
何千年もの歳月を経て貝塚が出来たものと考えられます。


上川名貝塚が開発されずに、もし保存されたとしたら、
青森三内丸山遺跡を上回る程の史跡が有ったと思われます。」

 

 



この土面をみると、青森で作られた土面を、
「真似て作った」と思う。
遮光器土偶と同じで。

 



私みたいな飽きっぽい縄文人が、
作ったんだろうか・・・。

私は青森で土偶製作をしている柴谷さんと、

一緒に土偶作り体験した時、
思いだしたんよ。


柴谷さんは縄文時代、土偶作りを教えていたそうで、
縄文人は飽きっぽいから教えるのが大変だったと。

 

ぎくっ。
まぎれもなくその一人だと確信した瞬間・・・

土偶を作るのに飽きて、ほっぽりだした縄文人は、放浪の旅にでる。
そして、弥生人となって戻ってきた。笑

大陸の衣装(ヒラヒラしたズボン)にあこがれて。
山形の縄文ビーナスに魅了されるのは、
あの服装にあこがれて弥生人になったからだよ。

動機が単純。


今だって、結局、東北に戻って来てるわけで・・・。チーン

それだけ東北が面白いってこと。

 

 



ヤマトタケルの東国進出の話しは、

鹿島が重要な拠点となったと言われますが、

縄文人がいたからだね。


東方制覇の成就祈願の対象も鹿島・香取の神であることが、
葦原中国平定に関わる重要な神となりました。

 



そのような民族がいた所に鹿島神を置いてますから、
エミシなり先住民が騒ぐと地震がおきる。。。みたいな話しは、
元は火山帯に住んでいた民族だから、


自然に歓喜してしまうのは、
自然の営みに反応しているだけなんだよ。


次は、一番、行ってみたかった不動尊。
なぜか、とても気になっていたので、
お参りしてきましたが、不思議な所でした。

つづく