母系社会は、鎌倉時代の源頼朝の頃まで、
続いていたのではないか?と考えられるそうで、
頼朝没後、戦国時代から村の女も子供も、
殺害された痕跡があるそうです。(東北地方の歴史では)
南北朝時代にいろいろ内乱があった時代でしたが、
岩出山の大崎八幡神社に三峰神社の石碑がありました。
照井城鎮座:三峯神社
藤原国衡(くにひら)の方をサポートしてきたのが、
有壁氏と照井氏だったということは前回の話しでした。
殺害されている。
国衡の母は側室で「信夫佐藤氏の娘」とも、
「蝦夷の娘」であったとも言われます。
「国衡は、出羽国へ逃れようとしたが、
幕府御家人の和田義盛の矢で射られて深田に倒れ、
畠山重忠の家臣・大串次郎に討ち取られた。」
畠山重忠とは、「坂東武士の鑑」と称される
武蔵の武士集団の一人で源頼朝について陸奥へきた人です。
これらの関東武士団により、
(鎌倉時代、畠山重忠と新田義興などが)
三峰山信仰を広めたとあります。
畠山重忠:1164年~1205年。
例えば、岩手県紫波町の青麻神社。
源義家らが当山に登り戦勝を祈願。
社殿を再建したと伝わる。
鎌倉時代に修験道の影響を受け、
1395年以降は別当名を善養院と称した。
日月星の三光神を祀るという青麻岩戸三光宮の写しが残されている。
江戸時代には講が結ばれ、明治には赤坂神社と改称したが、
後に青麻神社と称するに至る。」
その紫波町の青麻神社の奥の方に、
三峰神社があります。
青麻神社は「日月星信仰」なので、
月神=狼=三峰信仰という事になっています。
青麻神社にとっての月は、狼なのです。
また、そこに重なって妙見の星神を一緒にしている。
秩父妙見です。
船形連峰に日月星神の三光の宮石碑が山中にあり、
船形連峰には「三峰山(坊主岳)」の名があります。
※ヤマケイサイトより
昔、三峰講がやってきたことに由来するそうです。
宮城県では、奥羽山脈に沿う山村地帯に三峰信仰が濃く、
供養碑も建立されているが狼を眷属(神使)としているところから、
馬産地ではよく信仰されたものとされます。
岩手県で狼信仰が流行したのは、
火災や盗難など(馬を襲う狼)を防ぐ目的だったわけで。
青麻神社は、1858年5月、日詰、花巻、土澤の崇敬者が
奉納したとされ、御眷族のお狼さまが祀られているとの事。
その紫波にいた日詰氏(樋爪氏)は、栃木県宇都宮市にも
三峰神社がありすぐ隣に樋爪氏の墓と共に伝承されているのです。
「1189年源頼朝に敗れた奥州藤原氏の一族の生き残りが
各所(関東)へ配流され、そのうち分家の樋爪太郎俊衡入道と、
弟の五郎季衡は、宇都宮二荒神社にて戦勝祈願の
お礼として降人(降参する)し、配されたという。」
また、写真はないのですが、大崎市の大崎神社にも
三峰神社の石碑がありました。
ということで、陸奥へやってきた武蔵の武将の影に
三峰信仰があるのは、平泉の三峰神社の由縁のように、
秩父にきたヤマトタケルが東国征伐の際に、
狼に助けられた伝承があるからです。→宝登山のこと。
その力にあやかり三峰神社は、イザナギ・イザナミを祀る。
平泉では、ヤマトタケルの東国征伐を願って、
秩父の三峰の方に向かって祈願したところ、
阿部氏たちを征伐できたという事で、
三峰神社を建立したという話しもある。
狼を以て蝦夷を征したような話し。
平泉もアラハバキ祀るワカエトノ神社の下に
三峰神社を置くのは、照井城の
「鎮座」と同じような事です。
■北畠顕家とその親衛隊-----------------
時代がたつと「北畠顕家」が登場します。
北畠顕家1318年~
南北朝時代、北畠顕家は奥羽に南朝勢力を築いた頃、
宮城県若柳町にも三峰神社があり、
顕家夫人と、禰々麻、醍醐の姉弟は父を訪ねて京から
陸奥へ向かい病気によってこの地で亡くなったと伝わります。
奥州街道に近い所に三峰神社があり、
この境内に醍醐ヶ池というのがある。
陸奥では葛西氏が勢力をもち北畠顕家に加わる。
1340年頃、登米、桃生、気仙、本吉、牡鹿、胆沢と土豪を被官化し、
栗原まで進出。守護大名を大きくした。
文政(1818年~1830年頃)禰々麻の墓を掘り起こすと、
無数の蛇がでてきたという。
母の死は誤伝で、姉弟を失った母が入道し、
尼になり庵を結んで弔ったと伝わる。
それが、「道伝」という地名として残された。
また「ねねま」とは、「あねのまつ」=姉松であり、
「だいご」は、「おとごろう」=弟五郎とし、
身分の上から姉松姫、弟五郎(護王丸)との説がある。
五輪塔は、千葉丑之助という人が建立したそうです。
(千葉家も関東出身)
ここは広大な湿地帯(伊豆沼など)
があったため、水鳥がたくさん飛来していた為で、
狼にとっては絶好の場所だった。
ところで、太平洋側の東北に千葉姓が多いのは、
あの相馬と関係してました。
源頼朝とその仲間たち(武蔵軍団)は、
関東御家人と武蔵七党の親衛隊をつくる。
今だったら、「嵐」になっていた?・・・。(そんなわけない)
そこまで人気はない!ざんねーん。
北畠顕家は南朝側。
北朝側の足利氏と対戦。
顕家は、まだ幼い義良親王(よしなが)をひきつれ、
霊山までいき、相馬光胤(みつたね)を攻撃して
福島(小高城)をも攻撃していた・・・とな。
城は妙見神社があったところだよ!
南相馬の小高はそうだったのかー。
行った時に書いていたのに、覚えていない・・・。
小高区の相馬妙見神社は、
童子のような凛々しい妙見さんの図があります。
崩されている痛々しい武甲山を想い、
祈願をした後、原町区の図書館屋上で、
白い小さな羽がふわ~~と降りてきたことがありました。
直感的に妙見さんだ!と思い、
なんて優しんだ!!と感動したものです。
が・・・仲が悪かったのか。
相馬妙見は、北朝側だったのね・・・。
南朝側からくる軍勢に対抗するために立てられた城だと。
だから東北は、千葉家が多く残っているのか~。
相馬氏は確かに目立たない。
関東の三峰神社は、
パワースポットとかで君臨してますが、
全然、違う~。のだよ。
ただ、源氏や平家などの武将たちは、
古来の自然神を軍神として利用してきたことは、あります。
本来の狼は、仙台市中山にある三峯山の石碑に
あるように、「送り狼」です。
人と狼が共存していた時代を、
忘れてはならない。
東北の三峰神社の多くは、奥州征伐でやってきた
関東の武士団によって制圧された
武将たちの鎮魂のために、祀られているようです。
時代がたつにつれ、狼信仰が民衆の間に広まり、
火防や馬を信仰していた騎馬民族の特質から、
狼に襲われる馬を保護するために、
「狼を以て狼で制する」
ことになっていくわけです。
狼も武将たちの鎮魂のために変化していきます。
そういうことで、東北地方で三峰神社をみると、
悶々とします。
秩父の三峰とはあまりにも温度差がある。
歴史も東北と関東を結ぶ行脚は必要なのか~
とつくづく思いました。
まあ、そーいうことで、
照井氏、畠山氏、秩父平家ともども、
ミッション終了~。
ひとにぎりの雪の塊を、
つぶして消えた記憶の中で、
みあげた先には工場が音もなく
陣をはっている。
照らされた道にうながされた畠は、デコボコで。
平らな路を妨げられた帰路の行く手に、
遠吠もなく群れをなした黒い影が立ちはだかる。