最初に訪れたのが岩出山の大崎八幡神社でした。

 



これが不思議なことで。

いつものように、
なにげなくマップで見つけた神社だったのですが、
どんな神社か調べてみたら、仙台の大崎八幡神社の本家になっていると。

それで行ってみようと思ったのですが、
調べたのは田尻町の大崎八幡神社で、
行ったのは、岩出山の大崎八幡神社だったという勘違い。。。

まあ、よくありますのでいんですけど、真顔

何がおどろいたかって、またあの源義経と藤原秀衡であり、
何度も韮神山(大河原)で書いていた
照井高直に関係する神社だった!

 

 

「照井がまつりし!!」

知らなかった!

こんな出会い方があるだ~と
関心するほどだよっ。

神社参拝の後に、北斗七星の大杉にいったので、
何というか~やっと韮神山の呪縛がとれた気がして、
もう終わりにできる!という気分。

妄想しなくていいってことです・・・。笑

そんなことで、神社の由来から。

 



「80代高倉天皇の承安年中(平安時代1171年~1174年)藤原秀衡の族
照井太郎高直当村に居城を築くや、
秀衡命じて八幡大神を勧請せしめ以て鎮護の神としたという。」

 



「寿永年中(平安時代1182年~1184年)源義経平氏を追討するや、
秀衡は義経のために戦勝を祈り、
重臣江刺某して当社に神鏡を奉納した。
(径4寸、裏に蓬莱仙島を彫りその四辺に花紋を回らす。)」

 

※こんな感じの鏡(↓)

 

 

平泉にも、京都などでみられるものとはやや異なる鏡が見つかってます。

 


志羅山遺跡で鏡の鋳型が見つかっている。

※志羅山遺跡・・・金属生産を行っていたところ


「平泉一族亡び、当社亦廃頽し、暦応年中(南北朝時代1338年~1341年)
管領大崎兼家地頭水野八郎右衛門をして修覆せしめ、
守護神としたが、天正年中荒雄川氾濫し押し流されて川敷となったため、
これを今の地に奉遷した。」

 



天正18年大崎氏滅亡し伊達政宗岩出山城に居るや深く当社を崇敬し、
政宗慶長年中仙台に移るに及び、
城趾に大崎八幡神社を勧請し毎歳祭礼毎に四氏をして
流鏑馬の儀に奉仕せしめた。


彼の四氏は当社の社家で大崎氏時代から祭祀のことを司っていた。
後、聖護院派修験の管下に属し成等山八幡寺と称した。

元治元年、社家多田広人再興、明治2年4月別当正覚院より調書を
神祠局に提出し、寺院の管理を脱した。

 



同5年村社列格、同40年3月供進社に指定された。
同39年12月地区内川北の草薙神社、道場分の神明社、窪川原の白鳥神社、
小泉の熊野神社、同42年5月坐散乱木囲いの坐々良岐神社を合併奉斎した。

昭和46年11月古昔の由緒に従い社名を大崎八幡神社に改めた。
現在の社殿は昭和57年10月に移転造改築した。」

 

 

鬼滅柄のマスク・・・(子供まで)

 

 

■照井高直について------------------

もう一度、おさらい。

岩出山下野目字丸山の所に、「照井城跡」がありました。

「照井城は、丸山館とも云われ、
指定障害者施設「大崎太陽の村」裏手の丘に築かれている。 

照井城は、独立丘の頂上部に大館と呼ばれる五角形の主郭を置き、
東側に小館、西側に菱館と呼ばれる曲輪を配した連郭式の縄張りとなっている。」

 


照井城跡
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/terui.htm

照井城は、承安年間に照井高直によって築かれ、 
文治5年(1185年~1190年)
源頼朝による奥州藤原氏討伐に際して、
照井高直は照井城に籠城してたが、
頼朝の家臣仁田忠常に攻められ落城した。


天文5年(1532年~)、
新田頼遠が大崎義直に叛旗を翻して岩出山城に籠もった。

この時、大崎義直・伊達稙宗が岩出山城攻めの陣を照井城に置いている。

天正19年(1567年~)伊達政宗が岩出山城主となった時、
照井城を改修して東御所と称して政宗の母保春院の居所となったが
政宗が慶長5年の仙台城へ居城を移した後、照井城は廃城となった。 


政宗公の母親が居住した所なんですね。。。

伊達政宗の時代は、1567年~1636年位なので、
照井高直はそれより400年くらい前のことになります。

 

 

境内にあった立派な「金華山大弁財天女碑」

 

 

こちらのお社は不明。

 

 

三つ巴がふたつも!

珍しいですね。

 



■有壁氏と照井氏------------------------

復習になりますが、南の方、
柴田郡大河原の韮神山で亡くなった照井高直の伝説がありました。

韮神山には、照井高直という人の首塚があると伝わり、
ここが一番大変な激戦地だったと言われてます。
照井氏に関わった一族たちが処刑or自害されたとも。

参道にはずら~と観音像がありますので、
たくさんの方の供養を行っていた所だと思います。

「高直の死の直後、韮神山南の大河原町小山田六角
不思議なことが起こった。

里人たちが戦から身を隠していると、
どこからともなく全身に矢が刺さった
馬が駆けてきて倒れた。

その立派な馬具と、主がおらず傷ついた様子から里人は
高直が討死にしたことを悟った。

馬はしばらく立ち上がろうともがきながら地面を蹴り、
なんとか立ち上がってまた歩き出したものの、
すぐに深田に足を取られてまた倒れ、息を引き取った。


この話しは定かではありませんが、
藤原泰衡と異母兄弟の藤原国衡も照井氏と
同じように語られているのです。

「深田にはまり込んで討たれた」という話しは、
武将の馬が蹴った面から水が湧き出るという事に関係し、
類型のある話であるとされます。

『吾妻鏡』には、藤原国衡について、

「芝多郡大高山の里に至る、西木戸太郎国衡出羽の道を経て
大関山を越えんとす、
(略)深田に打いりて陸にあがることが出来ない


とあり、大関山とは、笹谷峠のことを言うそうで、

羽黒修験がいた為か、山形へ逃れるつもりだったようです。

そこは、有耶無耶の関跡がある所、
藤原実方とあこや姫が「ささやいた」所として伝承される有耶無耶は、
鳥海山のダイダラボッチも有耶無耶と言った。

確か、栗原の大清水にも義経の馬がけった跡の石

があると伝わり、そこから水が湧きだしたという
伝承だったと思います。

また、「六角」の地名がありますが、
北の方、一迫町嶋躰(しまたい)「六角」の地名があり、
イグサを嫌う神様という熊野神社の伝承があります。

なぜ、大河原なのかは、
東山道(とうさんどう)、五畿七道の一つがありました。

本州内陸部を近江国から陸奥国に貫く行政区分、
および同所を通る古代から中世にかけての幹線道路を指す。

 



※「仮説 出羽東山道への分かれ道(高倉淳の宮城郷土史)」
を参考にしてみると、  
http://sendai-oldlocal-histry-takakura-kiyosi.saloon.jp/kasetu.dewamiti.html

赤矢印の柴田~小野付近は数々の伝説が残る所。

昔は「ヒラ郷」の「平」とよばれ、

小野郷の一部であったそうです。

小野郷は、平沢~猿鼻町~四方峠~

小野郷~うやむや関~山形への街道に続く。

※小野は、和邇氏系らしい。

 

和邇氏は百済なので百済王敬福が金をみつけたことに関係し、

金華山弁財天の碑を置いているのだと思います。


それで、この道が羽前街道といい、あこや姫はこの街道を通って
陸奥まできた伝承があるが、藤原実方の道でもあります。

敗者の歴史をたずねていたのは、奥の細道を残した松尾芭蕉。
西行もそうで、それ以前から和歌で敗者の歴史を
伝えていたのは、藤原実方だったのでしょう。

和歌だけではその思いをしるすべはないのですが、
伝承を調べると共通する部分が多くあるので、
行動パターンが似ている人は、
敗者の歴史を追っているのだと思います。

 

・・・そして私も追っている。

■北斗七星との関係------------------------

北斗七星が意外にも関係していそうです。

昨年12月に、栗原市有壁には高直の子孫の伝説
のことを書いてました。
酒をつくった照井長者の話し。

金売吉次→源義経→有壁氏→照井高直と、
繋がっていることを書いてまして、
照井高直は、佐沼城を築いた人でもありました。

この城は「鹿を仕留めた」為、
「鹿ヶ城」といった城。

何度も書いている出雲権現と照日権現を祀っているお城。
ここも葛西氏との合戦場だったし~。

その照井氏とともにいたのが有壁氏らしく、
この方は、千葉氏の系譜だったと知り、
妙見信仰だったわけですね。

照井長者の話しで、水沢の黒石寺に子をあずける話しが
ありまして、黒石寺は古くは妙見信仰(山名:妙見山)だったそうです。
また、天台宗です。

この黒石寺の薬師様が、アテルイを模していると聞いたことがあり、
地元の人から尊敬を集めているお寺なのです。

 



※妙見山黒石寺の蘇民祭
https://www.iwatekeizai.org/watching/2018/201802/

妙見といえば北極星や北斗七星なのですが、
タタラでは摩多羅神(マタラ神)を崇拝している。

舞草刀の展覧会に一関博物館へ行った時、
摩多羅神の絵図が残されていたのをみました。

黒石寺の狛犬も南部鉄器で作られています。

 

韮神山近くの大高山神社の鳥居も南部鉄。

 

 

ここにタタラの民がいたことを示している。

照井長者の酒つくりも、マタラ神の太秦(京都)の
大酒神社の牛祭と関係するとの事。(現在は広隆寺)

 


※牛祭(マタラ神)

だから、半跏思惟像がシンクロしていたのですね~。
※仙台に来ていたのは中宮寺の方。

黒石寺の蘇民祭(牛頭天王)とは、疫病退散がルーツです。

疫病をもたらしたのは、渡来人である(新羅系)とまで
言われていた事がありました。(そう噂された)

それで、摩多羅の語源は、
ヘブライ語で「オシラー女神」というのだそうです。

意外にも女神だった。

オシラサマっぽいな・・・。

引用します。

「Ma(マ)」や、母親を意味します。
これは世界共通の音。

大地母神の音は、「マ」です。

Tara(ターラー)は、諸説ありますが、
衆生を苦しみから救う救度仏母として崇拝される観音の意味があり、
その瞳から大光明を放つとされる。」


また、ターラーは星の意味があり、
アントンイソラと同じように顔を白い布で隠すのだそう。

太秦のこの牛祭は夜祭りであり、真っ暗になってからはじまる。
この太秦の摩多羅神は唐模様の頭巾をかぶっておられ、
その頭巾に北斗七星が描かれる。


「TARAはサンスクリット語のSTRIに由来しており、
「まき散らす、拡大する、拡散する」などの意味がある」


拡散とかまき散らすとは、
伝染病などのウイルスみたいな…。

コロナとかSNSとか・・・

ということなので、シャーマニズムが深すぎる話しです。

※摩多羅神は何処から来たのか
http://www.kingchin.jp/1_J.html

(↑)こちらのサイトを参考にしました。

これらの話しは、朝鮮からきた武塔神(ムーダン)の
女性?が行ってきた祈祷が日本にもたらされて、
牛頭天王になっている事と関係していると思います。

さて、この境内には、もうひとつ気になる石碑がありました。

もう一人、気になっていた関東の武将を。
つづく