いやいや、まだ終わっていない南相馬なのです。

不思議なことで。

何度も南相馬へ行っているのに、
一度も見つけられなかったことが不思議で。

ある神社を後で見つけてしまい、
調べている時だったのですが、
また一人で相馬までいくのは、さすがに飽きる~。

なので、皆を誘っていってきました。

空海のお母さんからずっとそれ、な。
今回は、平将門の娘たち。

この話は、後で書きます。

このルート、
なかなか良いと思います。

小出しに書いていきます。

今回の南相馬は「天の岩戸」のお話ばっかりでした。
ただ、この話、詳しいところまで、よくわかりません。
古事記やホツマツタエを読んでいないので。

古代史であれば、誰が、ヒタカミを東北にもたらし、
聖地にさせようと奮闘していたのか?


スサノオとその子供とされる「イソタケル」のようなのです。
それが、紀氏。

しかし、紀氏は、アザマロ(伊治公呰麻呂)=(南のアテルイ)
と、岩手のアテルイら、エミシたちと対戦している。

そこが、ずっと謎。

 

まずは、餓鬼憑きを楽しませねば。笑

 



農家レストラン『菜の花』にて。

癒されました。

 

 

お蕎麦が美味しかったです。

ウケモチの「ケ」を頂きました。

 

 


■高座神社------------------------

さて、どうやら~、
南相馬は、天の岩戸に登場する神々を置いており、
ホツマツタエの世界があることに気づく。

玉と剣は以前からありました。
けど、鏡だけが繋がらないと思っていたので、
あまり関係ないと思っていました。

だから、ほんとにあるとは、思わなかったもので。

この名前を南相馬で見るとは。

 



天の岩戸の時に用いたという鏡とは、
「イシコリドメ(イシコリトベ)」
である話。

 

とってもいい空気をもっていて、

素晴らしい~神社でした!

 



神社名は、高座神社(たかくらじんじゃ)

 



祭神は、「伊斯許理度売命(イシコリドメ
ご神体 長サ五寸・・・なにが?

この神様を一柱として祀っている神社は、ほとんどないですよね。
全国でも珍しいと思います。

 

 

 

祭神については、複数の説があるそうです。

伊志許理止売命(神社明細帳)
高御産巣日命(特選神名牒)
倉稲魂(神社覈録)/稲荷大明神(旧神祠記)
高倉下命(神名帳考証)
伊弉冉尊・熊野高倉下命・武甕槌命(奥相志)
伊弉冉尊・泉守道者・菊理媛(奥相志)

 

ありすぎ・・・

 

 

由来について


『島県南相馬市原町区にある神社である。
 旧社格は郷社。
行方郡延喜式式内社八座のうちの一座である。

「奥相志」によれば、陸奥国内の延喜式内社百座のうち行方郡内にある
式内社八座の一つと伝わるが、鎮座来歴は不詳である。

 



往古は現在の鎮座地の西の高倉村(現在の原町区高倉)に鎮座し、
社地も広大で境内社も多かったと伝わる。

押釜地区・馬場地区・大木戸地区の境界である
原町区馬場赤柴付近に旧蹟が残っており、
おそらくは戦火や兵乱によって社地は荒廃したとされ、
再建するも元には戻らず小社となってしまったという。

 



大同元年(806年)4月20日に社殿を造営し、
文安年間(1444年~1449年)に藩主相馬氏から
神田一環十八文の寄進を受けた。

慶長7年(1602年)、藩主相馬義胤が徳川家康の命により改易になり、
そのため寄進を受けた神田は失われた。

 



この頃社掌を務めた者が若かったため対処できず、
この時期以降は神田は失われたままになっているという。
社域内の樹木も伐採され田畑にされたが、
元文年間にはその地も荒廃したという。

それより前、遠藤八郎左衛門という者が村に住み、
往古の社地の北端に神祠を設けて守り神にした。

 



八郎左衛門の嫡子や子孫らが現在の鎮座地である押釜付近に住んでいたという。
安永3(1774年)甲午年に社殿が再建され、その頃の棟札が残っている。

寛政11(1799年)己未年に野火があり社殿が燃失した。
この時、藩主から境内の杉の木を数百本売って得た金十一両二分を賜り、
失われた社殿を再興した。

 



文化12(1815年)乙亥年、
相馬藩主相馬益胤の命による調査で、
当社が延喜式内社行方八社のうちの一座である
「高座神社」であると比定された。

同年、歴史ある神社ということで一石の田が社領として貸し出された。』

 



由来の中に、イシコリドメのことは書かれていませんが、

後にいった神社と関係すると思います。


神話では・・・

『岩戸隠れの際に八咫鏡を作った。
ちなみに日前神宮・國懸神宮(和歌山市)には八咫鏡に先立って鋳造された鏡
である日像鏡・日矛鏡(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)がある。

日像鏡は日前神宮の神体、日矛鏡は國懸神宮の神体となっている。

名前は、石(イシ)の鋳型を用いて鏡を鋳造することに精通した(コリ)
特別の女性(トメまたはトベ)の意味である。

 



鋳物の神・金属加工の神として信仰されている。
鞴神社(大阪市天王寺区)、中山神社(岡山県津山市)、
鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡)、
岩山神社(岡山県新見市)などに祀られる。』

 



■紀氏と対戦したエミシ---------------------------

高座は、「高倉下(たかくらじ)」のことと関係するのでしょうか?

イシコリドメは、
神武天皇に霊剣布都御魂をもたらした人物。

この方については、昨年の12月に書いていたことを思い出す。
紀氏と対戦していたエミシたち。

昨年と同じ話しなのですが、栗原へ行った時のこと。
アザマロがいた「伊治城跡」へ行き、
その後、源義経伝承がある栗原寺(りつげんじ)へ行きました。

 

※「伊治城跡」

奈良時代後半、栗原郡を中心としていた宮城県北部は、
中央政府より征夷政策という開拓に乗りだします。

なぜ、栗原寺に繋がるのかは・・・
やっぱり、ここは来てると思います。
源義経と金売吉次が。

 


源義経、金売吉次、弁慶、北の方。
※栗原寺にて

金売吉次とは、炭焼き商人として全国に登場する名ですが、
京都にいた時に源義経と会い、
東北へ義経を連れて行き、藤原秀衡(奥州藤原氏3代)に
会わせた人です。

この方に関係する伝承が、名取の道祖神です。
商人と都の女性との恋仲。
なぜか、藤原実方になっている。

金売吉次と実方、荒魂が重なっているのです。

アザマロもアテルイも紀氏とは敵だった話し。
その紀氏は、イシコリドメと関係する。

 

紀伊国にもたらされた宝鏡は、

その末裔である紀氏によって祀られ続けた。

阿多隼人のことで書いてた時に、
栗原寺とスクナヒコ(久須志神社)のことを書いてましたが、
なぜ、南相馬からここにいつも繋がるのだろうか?

栗原寺にいったのも、ちょうど1年前の12月。
「芦立の民」を発見する時期でもあった。(村田町)

改めて過去の栗原寺を読むと。。。鹿舞だったのです。
それは、九曜紋だった。

 



改めて読みかえして、おどろき。
金華山の黄金山神社と繋がっていた!

栗原寺には、二迫栗原の八ツ鹿踊りの由来があり、
八鹿の地名は、新地町の鹿狼山の里宮:大槻神社の地名も八鹿でした。

「1400年頃、牡鹿半島の金華山の黄金山神社に参拝した

栗原寺初代の円清が、
雄・雌鹿が遊ぶ様をみて鹿踊りを創案した。

栗原八鹿踊りは、初代中立菅原永二郎から今の八代菅原新助に引き継がれ、
鶯沢町の鹿踊りは永二郎の弟子が創設したという。」

 



は~、
あの金華山にいた鹿からヒントを得たわけですね。

鹿踊りは、「祖霊供養を主とし、魔除の踊り」のため
九曜紋の「くようもん」は、「供養」の意味もあるのです。

射日神話の太陽も10個から9個になっています。
矢を射って1個落としたから9個。(オロチョン族)

九曜紋はインドがルーツらしい。
妙見信仰は九曜紋を使っています。
トベと妙見信仰には深い関係があると。

昨年12月の記事
https://ameblo.jp/tohoku-inehapo/entry-12553043015.html

東北地方のヒカタミと言えば、
剣と繋げて想像するに早池峰山です。

これが、後になって繋がってきます。

アザマロもアテルイも、紀氏を討伐していることが、
前から気になっていたのですが、

ここでも、コノハナサクヤヒメだった。
それは、ヒタカミの祭祀王のこと。

コノハナさんとシワヒメは同一?


栗原で祀られている神社といえば、志波姫神社でした。
祭神は「コノハナサクヤヒメ」なわけで。

 



由緒は、795年~801年創建と言われるので
アザマロの乱より少し後です。
元はお社はなく「道祖神」としての「塞神」であったと。

またしても、猿田彦命。
ここもニニギ降臨地→神武東征がからむと思う。

要するに、「ヒタカミ国が北上している痕跡」
になると思います。

茨城~南相馬~石巻~栗原~北上川流域の岩手県へ。

 


※多賀国府(ヤマテ宮:ツボ(碑)


参考として、ホツマツタエによる地図。

ヒタカミの範囲は広く、青森県いくと「隈(くま)」になるから。
阿武隈の隈であり。

ヒタカミの王様ってだれ~?

やっぱり「冠を落とした」シワヒコさんかな。
ここに、シワヒメがいるし。

あ、それで

紀氏→伊斯許理度売命(イシコリドメ)なのですが、
ニニギと付き添って天津国へ、アマノコヤネとやってきた神話。

ニニギが選んだ「コノハナサクヤヒメ」ですから。

 

ヒタカミのシワヒメをさしおいての、

隼人のコノハサンさん。

だが、分裂というよりは、統合を目指した。


蝦夷→ヒタカミ(ヒタカミは自然霊=水神(河神)とされる)
この2つの関係は、高橋富雄先生から参考にすれば、
大和国との併合」という事。

 

互いに争いをするつもりはなかった!と言いたいのかもしれない。

紀氏とエミシの融合・・・鏡の火(日)と荒魂の水?

真野川→阿武隈川→一迫川→・・・
一迫川を追加しようか、な。

この川を渡って上陸したと想像。

その痕跡に、ニニギ降臨、コノハナサクヤヒメなどを祀り、
道祖神としてサルタヒコ命も祀られる。

元来の、太陽神、ヒタカミの祭祀王、統治王を変えている。

それだから?アテルイなどのエミシ軍団がおり、
後に安倍氏に受け継がれ、源氏もその東北の最北である
ヒタカミを追ってくる。

何を?
単なる金採掘なだけ?

■「八」の意味----------------------------

富士山に鎮座する「くすし」ですが、

志波姫神社のある地名も、「八樟(やつくぬぎ」と言い、
「八」なのです。

『大日本地名辞典:吉田東伍著』によると、
志波姫村は、「一迫川の右辺の平郊に至り~」とある中で、
樟は、古訓「クス」なれば、之をクヌの謝りであると。

クヌギは、「ははそ」なんです。
ナラ・クヌギなどのブナ科の樹木の総称で、
紅葉が美しいですね。

赤くもえる紅葉は、いつの時代でも変わらぬものでした。
落葉樹林のある地域に暮らす人々が、
北方のエミシと言えるもので、ドングリや木の実を主食としていたので、
縄文時代から続く末裔がいたと思います。

ワタツミなど海からきた人たちにとっても、
南の縄文と言えますから、北と南が融合した所に、
ヒタカミ聖地があったのだろうと思いますが、

寒かったと思います~。
冬はどうしていたんだろう~。

このような木の話しは、他にもあるのですが、
いずれにしても、「8本の木」のことを言うのが
「八樟」とされている。

樟は、「クス」です。
クスノキ→クスシ。

どうやら、古代、クスノキの素材で船をつくっていたらしい。
海民にとっては、大事なクスノキだったようです。

 



また、ヤマトタケルが、8人の土蜘蛛を退治してそこに槻を植えた。
の伝承がある福島県のツツコ。(都々別神社)

 

ヤマトタケルは、トベたちを鎮魂してきた。

 



樹木信仰として祀られたのが、トベたちだったと思うから。

 

そして、紀氏は木の神である。

紀氏も、トベたちを祀った・・・

 

蜘蛛は、雲で、八雲、青雲・・・そして蜘蛛を取った雲取山。

との解釈もできる。

 

紀氏は、東北に母系を重んじる先住民たちと渡りあるいてきたが、

天の岩戸で差し出された鏡により、女性たちは美に目覚めた。

選ばれたのは、渡来した女性たち。

 



という妄想で、終了~。

 

なつかしい~へびいちご。

またいつか、どこかで繋がると思います。

つづく