金華山へ行った後、なぜか、むしょうに松島へ行きたくなりました。
珍しい・・・
松島?

 

なので、11月11日というグッドな休日に、
さくっと松島へ行ってみたのですが・・・

 

(ここは無料駐車できまっす。ただし坂を歩くことに)

 


行きたくなったのは、雄島なのだ・・・よ。

 



そこで、何かあったことを思い出す。

以前、名取老女を調べていた時に、
「松島の聖」の事が書かれた資料を思い出し、
よく読んでみたら、「板碑」だった。

なななるほど~~ぉ。

板碑とは。

武蔵流鎮魂のやり方・・・真顔

 

(いつの間にかできていた松島離宮・・・)

昨年の冬に雄島に行ってましたが、雪が積もっていて、
くまなく歩けませんでした。

 



今回は、良い天気で紅葉もきれいだったので
ゆっくり散策できましたが、
改めて歴史を調べると、すごい所だったとわかりました。

 



松島の地名は、雄島が発祥との事。
古代の松島として最も有名な雄島であり、
雄島から始まった松島だったようです!

 



■雄島の歴史-----------------------------

写真と共に、雄島の歴史をご紹介。

 



雄島は瑞巌寺とゆかりの深い霊場であり、
全国から僧や修行者がこの島に来て修行をしたという。
中世には「奥州の高野」とよばれました。


和歌もいくつかあります。

『立ち帰り またも見てみん 松島や
雄島のとまや 浪にあらすな』

藤原俊成の和歌。

 

 



『心ある 雄島のあまの たもとかな
月やどれとは ぬれぬものから』

後鳥羽院宮女・源師光女の和歌。

 

 



「奥の細道」では、

「雄島が磯は地つづきて海に出でたる地なり。
雲居禅師の別室の跡、座禅石などあり。

將(はた)松の木陰に世をいとふ人も稀々(まれまれ)見えはべりて、
落穂、松かさなど打ちけぶりたる草の庵閑に住みなし、
いかなる人とは知られずながら、先ずなつかしく立ち寄るほどに、
月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。」

 

 

渡月橋

 

カワウが羽を広げて日光浴してました。

 

 

体温を温める行為みたいです。

この日は、寒かったので。

 

 

 

■松島の聖---------------------------

この雄島に一人の超人的な修行僧が住んでおりました。

 



その方は、「見佛上人」といい、法華経6万部を読じゅした「見仏堂跡」があり、
鳥羽天皇からその高徳をたたえ、松の苗木本尊を下賜されたので、
雄島とよばれました。

 



「月まつしまの聖」「空の聖」などと称されその行者は、
さまざまな奇跡をもち、人々を驚かせその名声は、
日本列島すみずみまで及ぶほどでした。

 

 



なかでも遠距離を瞬間移動する超能力は抜群で。
石川県(能登)の岩屋と松島の間を、
毎月往復して、上の弓張の10日は能登、
中・下旬の20日は松島というその暮らしぶりは、
西行法師の『撰集抄』にも伝えられる。

 



西行が諸国行脚をしていた時に、能登で上人にあい、
問答をかわしたのは、40歳ばかりの僧でした。

 



自らを「月まつしまの聖」とよび、
人里はなれた荒磯の洞窟で修行中の聖は、西行の問いに答え、
住んでいる松島は月に10日は必ずいると言ったそうだ。

 



西行は上人に会うことができ感激してその後、
松島をめざし、西行がそこで再び上人に会うことはできたのだろうが、
「上の弓張の10日」というように、その間だけ姿をみせたという。

 




この物語は、法華経を読経することにより、
精神を鍛え、法力をもって人々の後世の頼りになる浄土思想を
導く宗教者を意味し、西行が学んだように、
人々にもその教義を受けることがあったそうです。

 

 



この上人は実在し、宇都宮頼綱(源頼朝に仕える著名な御家人)
が出家して「蓮生」と号したのは1205年。

 

その没年は、1259年であり、見佛上人も同時代に実在したと
考えられるそうです。

 

 

妙覚庵・・・見佛上人がここに庵を建立し、
十二年間法華経読誦に過ごし、13世紀末には、
頼賢がこれを嗣ぎ二十二年間島に籠り、見佛の再来と仰がれたと。

 



宇都宮頼綱との和歌があります。

「ながき夜の闇にまどふ身なりとも 
睡りさめなば君をたづねん」
(上人)

 



それに対する蓮生は、

「やみち(闇路)にはまどひもはてし有明の
月まつしまの人を頼みて」

 

 

 

紅葉が美しい~。

 

 

 

■大量の板碑-------------------------

さて、そんな上人がいたこの雄島には、
大量に1000点以上の板碑が発見されています。

板碑とは、中世仏教で使われた供養塔に
使われる石碑で(卒塔婆ともいう)
典型的なものは「武蔵型板碑」とよばれ、
発祥も埼玉県北部で、武将たちの間に広まる。

 

最大の板碑(秩父長瀞町)

 

秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれます。
四国の阿波産のものもあるため、中央構造線と板碑には繋がりがあります。

 

 


 

 



松島の雄島にこの風習が及んだのは、
1286年を少しさかのぼるそうです。

七海ゼミナール(日本中世史)では、「文部科学省大学院教育改革支援プログラム」
の取り組みとして、松島・瑞巌寺と共同でこれを収集・調査し、
平成21年(2009)年8月5日現在までに、
1378点の板碑破片(完形を含む)を確認した。
このうち、種子・文字が刻まれた板碑は449点で、全体の3割を超えている。


そして、これらの板碑のうち、
魔鬼女がいた石巻牧山産の「井内石」が使われていた。

 



※板碑の調査研究
https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/facilities/museum/research04.html

もうひとつは、雄勝石。
雄勝地方の石は、たぶん、石峯山というのがあり、
前回、百済王敬福の話しで「千葉大王」の人を祀る由来がある
石神社付近だと思います。

 

 

人かと思ってびっくりしたが、木だった。↑

 

 

上人が修行した御堂のところで、不思議な光がうつってました。
偶然、カメラのピントがぼやけて写ったのですが、
拡大して切りとりしてますが、十字形のような。

 

 

 

 

 

明るいところですが、

洞窟トンネルを通るのは、ちょっと怖かったかな。

 

 



どこかで、金が繋がっていると思う話しですね。
和邇氏のことをずっと書いてましたが、
何に対する鎮魂かといえば、金繋がりから、
多くのタタラ場で亡くなった人、または、
鉱石によって多くの地球の磁場が失われた事に対する鎮魂かもしれません。

 



また、そのような土地を歩くことで、
私自身も癒されます。

 

 



上人がいた時代、末法思想があった後の奥州征伐で関東勢が多く、
陸奥へやってきたことにあり、
安倍氏と源氏の対戦など、激動な時代にあった頃。

 

その後の救済や、鎮魂としてこの地を選んだ気もします。

 


※把不住軒(はふじゅう)は、雲居の座禅堂と伝わる。


たくさんの人が飢えで亡くなり政治の腐敗、
未来のない時代でチベット思想のように、
読経することで来世が幸福であることを望んだ聖地だったのです。

 



※頼賢の碑・・・1307年建立(国指定重要文化財)

 

 

 

 



■金華山の方角にむかって-----------------------

雄島から金華山は見えないのですが、金華山の海上に昇る
初日の方角を拝む儀式があるそうです。

それが「火鈴様」というもので、「コウリンサマ」と言うのです。

・・・降臨?

大晦日の夜9時、雲版の乱打を合図に、住職代理の一僧が鈴を振り、
般若心経を繰り返し唱えながら、一晩中松島の海岸地区を歩きます。

 



火鈴様を迎える家は軒に提灯をつるし、机に灯明をともし、
茶碗に梅湯または酒を入れて玄関に置きます。

 



行者はその前で心経3巻を唱えたあと、箸で茶碗の中をかき回し、
飲んだ振りをして次の家へと回ります。

この地域では、火鈴様の姿を見ると目がつぶれ、また、火鈴の音を聞かずに
年を越すと五臓腸が腐れると禁忌されております。


家々では明かりを消して静かに待ち、火鈴様の残した梅湯や酒を分けて飲み、
1年の災厄を払います。


※瑞巌寺
https://zuiganji.or.jp/?page_id=4864

目がつぶれるのは、タタラ信仰によくあるものですが、
昔は目の病気が多かったためです。

 



光を灯さないのは、闇(死)と向きあうためです。

神は夜に現れるように。

 

自身の闇を知るべし。
闇の恐怖や不安から拭う儀式でもあり、
人々の心にある闇の不安から、上人が光を灯してくれる。
そんな風に思う火鈴様です。

こんなに深い雄島だとは知りませんでした。

一度、行ったらおしまい。ではないんですね~。
それが始まりであり、何かのきっかけで何かが導き、
教えをもらう。

 

スタバができました。

 



ここで、まったりする。(松島離宮)

■五大堂から大雨に----------------

 



雄島を出たら、雲行きが怪しい。
雨がぽつぽつ降ってきた。

 

 

三部屋空いてます・・・

 

 

よっ!日本三景!

 

 

五大堂

 



あんなに晴れていたのにー。
せっかくなので五大堂も参拝したら、大雨になってしもうた。

 

 

雨が強い。

・・・そして誰もいなくなった。

 

ちょっと寄り道。

 

 



 

 

 



にかほとの悲恋話が気になるね~。



葛西氏は、陸奥国(宮城県三陸~岩手県南部)にかけて支配していた領主。

初代葛西氏は、葛西清重(秩父氏は重と名をつける)でして、
桓武平氏の流れ。
蝦夷征伐をガンガンやってきた側。

秩父氏・豊島氏の庶流にあたる葛西氏であり、
秩父氏から豊島氏へ養子にいく。

葛西清重の母が、「秩父重弘の娘」とあり、
秩父なんですね。

秩父氏は、千葉氏と婚姻関係を結んでいるので、

相馬とも親戚にあたるのかな?
いうならば、東北行脚とは、武蔵人のための行脚でもあるわけだ。

しかも、秩父氏の特徴は、板東平家(←謎)の流れですが
平将門の女系子孫でもある

ということから、平将門を囲む女子会をやっていたと思う。ニヤニヤ

今もそんなもんか。。

 

血統の根拠を女親(母方)の血統に求める「母系」なんですって。

意外にも。秩父平家ってとこは。

 



なので、トベの話しに興味をもつのは、そこにあります。

 

「柏槙」

松島にきたら、必ずこの木を拝観していきます。

 



今回も、百済とか和邇とか葛西氏とか
繋がってますよね・・・
ずっとそれなんだわ。

百済王=王仁=和邇氏=丸子(わに)=武蔵江戸流。

まあ、そんな東北を知りつつ、
武蔵人が、今でもこうして歴史を紐解きながら、
行脚していることが、なぜか、とても楽しい。

 

 

上人さんは、祈りのためにずっと雄島にいたんですね。

それを知ることができた事が、ありがたいと思います。

 

大量の板碑が打ち捨てられていたことを考えて、

多くのまだ鎮魂できないモノノフたちが、

待っているような所でもあり。

 

逢いにいく。

で、良いと思います。

 

カワウが日向ぼっこしているような所ですから。

素晴らしい雄島です。

やっと金華山はおしま~い。