上海で短期過ごした話しを交えながら。
短期留学だったので、あまり長く住んでませんでしたが、
今の上海はあの頃に比べて、急激に発展していて、
驚きました。(2年前に再び上海へ)

 



中国(長安)に密教の教えを学びにいった空海は、
その時、4カ月ほど、浙江省(せっこうしょう)に滞在したそうです。

 



浙江省とは、

「北に江蘇省と上海市、西に安徽省と江西省、南に福建省と接する。
東は東シナ海に面する。銭塘江が流入する杭州湾は古来より交易で栄え、
沿海には舟山列島など約2千の島々が散らばり、
中国で最も島嶼が多い省である。」


■蘇州的空海--------------------------

空海は、寒山寺にきてました。
このお寺は、観光地として有名。

写真がほとんどないのですが(この頃はまだ使い捨てカメラ)
数枚、残っていた。

 



空海たち一行は、
寒山寺門前の「楓橋」のところで上陸したそうです。

寒山寺にある紹介文を一部紹介、(サイトより)


「空海は当時、31歳。
工学・医学・文学・占星術・文化芸術・
サンスクリットの他、キリスト教などの異宗教も学び、
日本に持ち帰った。

このことは、今の日本文化の基礎を築いたばかりでなく、
イロハ歌を通じて47箇所かな文字作りに影響するなど

日本教育の基礎を作った。


 

唐に渡って2年後には遣唐船により日本に帰国。
帰国後、平城天皇から真言宗が認められる。

816年、讃岐地方に農地灌漑を行う。
834年、61歳で高野山奥の院に入定。

弘法大師の称号は、空海死後100年を経て醍醐天皇から頂く。」

 

 



「空海とほぼ同じ時代の唐中期の詩人張継が残した有名な
七言絶句「楓橋夜泊」で広く知られた名所。

春秋時代の後期(紀元前5世紀末)、
この地を治めた呉の最後の王で「臥薪嘗胆」の故事で有名な夫差と
その愛妾西施の離宮であった古刹霊巌山寺がある。


※エンサイクロメディア空海
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/cat35/post-141.html

こちらのサイトが詳しいので、興味がある方は読んでみて下さい。

■杭州的霊隠寺-----------------------

霊隠寺(リンインスー)は、西湖の北西にある。
後ろ向きの空海像の写真だけが残されていました。
思いだしたー。

 

(右端にある像)

ここから写真をとっていた時、
日本人のカップルが前を通った。

男性があれが空海像だって。と言っていたのが聞こえたので、
へ~、と、知ったものでした。

まだこの頃は、歴史に全く関心がなかったので、
何も気にしてませんで。

霊隠寺は、とても不思議な空気のお寺で、
大きな仏像もあったお寺だったと思います。

頭が青色の仏像さんがあったな~。

 



境内の空海像とともに、こんな内容が。
サイトから。

「空海和尚は、今から1200年前入唐、長安において
中国の文化、芸術、学問等を伝授され、弘法大師のもとに
中国文化を日本国へ伝導する。

霊隠寺には道中に滞在し就学する。
日本の今日があるのは、空海和尚によって広められた
中国の文化が基本になっているのである」


蘇州の寒山寺の内容は、日本人向けの説明でした。

こっちは、中国人向けの説明。真顔

日本があるのは、中国のおかげと言いたいのだろう。。。

 

別にいいけど、

これに、ツッコミしますと、

 

空海は中国の文化だけではなく、

世界の異教徒の思想を取り込み、日本語の「イロハ」

の「マントラ」という、独特の「言霊」を生みだした。

中国文化の基本には、異教徒の文化も含む。

それらを上手に習合させた天才です。



中国では密教を伝授できる人がいなかった。
ふさわしい人がいなかったから、
日本から空海が呼ばれてやってきたそうだ。

しかーし、逆に日本へ10回以上も試みてようやく渡来した
鑑真和尚の晩年は、孤独だったそうだ。
758年のこと。(空海より前)
寒山寺にも鑑真像があるそうです。

 

出身は、揚州市(ようしゅうし)。

江蘇省。


最初は、鑑真は歓迎された。
規律を守ることを誓い受戒した者だけを国は僧侶と認め、
乱れていた仏教界の風紀は劇的に改善されたという。

しかし、朝廷の本心は税金逃れの出家をストップさせることで、
僧侶を減らす目的だった。

両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われたという。
鑑真は自分が財源増収のため朝廷に利用されたことを知った。

これは、難しいことだと思いますが、
朝廷は、ズル賢い。
藤原不比等の時代だから、考えてみると、
彼らも大陸の渡来人でしょう?


■霊隠寺の伝説------------------------------

さて、そんな霊隠寺は、五寺の中で唯一、残されている古いお寺です。(杭州では)

「慧理法師(えりほうし)という僧侶が西晋(西暦317~420)の時代、
(西インドの僧侶)のちに中国に来て霊隠寺の開祖となリました。

インドの霊鷲山には、かつて白と黒の二匹の猿が住んでいました。
慧理法師はこの山に行って大声で叫ぶと、やはり、
霊鷲山の猿のような二匹の猿がキーっという声とともに飛び出してきました。

 


※霊鷲山の山頂(wikipedia)

(釈迦仏はこの山において多く説法したという記録がある)

それで、法師はこの山を「飛来峰(ひらいほう)」と名付けました。
しばらくして、慧理法師はここに寺を二つ建て、一つは飛来峰の下の霊鷲寺、
そして、咸和三年(328年)には、北高峰の下に霊隠寺を建てました。

咸和五年(330年)には、「天竺翻経院」(原名「霊山寺」)を建て、
続いて、霊峰寺と霊順寺の二つの寺も建てました。

この地域に寺を全部で五つ建てたことになります。
しかし、千六百余年にわたって、今まで保存されてきたのは霊隠寺だけです。
それは霊隠寺が昔から中国歴代の禅宗の道場として有名であったからでした。

 さて、この飛来峰の下に岩穴があり、慧理法師はよくこの岩穴で
坐禅をしたので、この岩穴は「理公の岩穴」と当時、称されていました。

理公の岩穴の中の「金光洞」という洞窟の中に、
元代の書家、周伯琦(しゅうはくき)が書いた
『理公岩記』(りこうがんき)という碑文が保存されています。

全部で211字あり、慧理法師がこの岩穴で坐禅したことを記しています。」


※霊隠寺
http://jp.lingyinsi.org/list_177.html

「二匹の猿」の伝説は、山寺にいた盤司・磐三郎のマタギの話しと同じで、
日本では穴にいた先住民を「猿」と呼ぶことが多い。

慈恩寺でもインドの僧侶の像があるので、
インドから学んだ僧侶が中国を経由して、日本に多く入っています。

日本にある霊山伝承の多くは、中国が由来です。

■禹王を知っていた空海----------------------

弘法大師の杖とは、治水のことです。

空海も、禹のことを知っていたと思います。
西湖に禹の痕跡があるという。

 



禹は、紀元前のことですから、相当古い。
治水を学ぶならば、禹を知らなければならない。
魚の人ですから。

※孫悟空も持っている杖


以前から何度も書いている「禹(う)」の治水神ですが、
ポールという水の深さを測る杖をもっていますが、
モーセの杖でもある。

この系譜をもつ人は、杖を授かる。
多治比氏や空海もそうだった。

禹王を継承する碑は、中国では多数ありおよそ4千箇所あるそうです。
特に「最後の禹の終焉地」が浙江省紹興市の禹王廟です。

 



「最後の終焉地」とありますが、
長江の大河から流れ出る川から、
最後に海に注がれる場所が、大都市の上海がある浙江省にあたる。

 

※中国大運河遺産点(「始まり」であり「終わり」でもある地)

その先は、日本列島。

名取の閖上に龍が舞い登る話しがあるように、
海から龍が登り、山へ流れ奥の院となる。
「海民が山民になること」

船で島に上陸しているから。

逆に、

山から海へ流れる場合は、大陸になる。
山民は川をつたって海民になり、海賊となって日本へ向かう。
「山民が海民になること」

民族が逃れて来た場所が「終焉地」となって、
上海の物語は終わる。

杭州の旅は、その時仲良かった留学生の子と2人で1泊して
いきましたが、デジャヴがたくさんあった場所です。

すべてがタイミングよくスムーズにいき、
素晴らしい旅だったと、お互いにそう思いました。

 



以前、ブログに六和塔が前世を思いだした所と書いたのですが、
六和塔は行く予定がなかったのです。

 



地図をみていたら、おばさんが近づいてきて、
「六和塔へいけ」と言われたが、緑茶の店に行きたかったので、
スル―していたら、また別のおばさんがやってきて、
「六和塔へいけ」と、言うのです。

それで行くことになったわけです。

六和塔で降りるバス停を通りすぎてしまい、
一つ先で降りたのですが、すぐ下に銭塘江が濁流のように流れていました。

なぜか、この川を知っていると思い、
しばらく濁流を見つめてました。

バス停を降りるのを間違えたおかげで、思いだした川でした。

 



実は、六和塔は、荒れ狂う流れを食い止めるために創られた
ダム目的のお寺
なのです。

970年銭塘江の逆流を鎮めることを願い、
智覚禅師によって建てられた
と。

ここでも治水が生きている。
空海も銭塘江をみていたと思う。

大潮の時期には激浪になって川をさかのぼる海嘯(かいしょう)という
特異な現象が発生することで古くから名高い川
と言われます。

 

だから、この川は、過去にさかのぼる川なのだ。
 



夜、西湖を歩いていたら、
生ぬるい風がふわっと吹いて、ふっと懐かしい記憶を思い出した。

いつの時代かわからないが、
こんな風に、誰かとここを歩いた記憶が。

柳の木が並び湖面にうつる月をみて、
その風を受けながら、また、戻ってきたという感覚。

 

過去世の一つの小さな記憶。



さて、空海の話しは、日本に戻し、
かなり深いところへ繋がっていきました。

空海のお母さんのことです。
難しいのですが、書けるところまで書いてみたい。