白鷹町に立派な神社がありました。
鮎貝八幡宮
「応神天皇(八幡神)を主祭神とし、
倉稲魂命(うかのみたまのみこと、稲荷神)を配祀する。
康平3年(1060年)、鎮守府将軍としてこの地に下降した源義家が八幡神を勧請し、
錦旗を神体として社地を定めて祀ったのに始まると伝えられる。
江戸時代には領主・上杉氏の祈願所とされ、近隣18か村の総鎮守と定められた。
明治31年(1898年)鮎貝城本丸跡の現在地に社殿を移築し、遷座した。
明治33年(1900年)近くの八幡森にあった稲荷社を合祀した。」
珍しく鬼がある神社です。
ドヤ顔の鬼。
■鮎貝城------------------------------
城山(標高190m)の山頂から山腹にかけて築かれた鮎貝氏の居城。
1587年(天正15年)、城主の鮎貝宗信が最上氏と結んで伊達氏に
謀反を企てたために討たれた。
その後、宗信の弟である鮎貝宗定が家督を継ぐが、
伊達政宗が豊臣秀吉により岩出山城に移封されると同行して鮎貝を去った。
以降、鮎貝城は蒲生氏や上杉氏の支配下となり各大名家の重臣が入城した。
現在、城址には本丸跡に鮎貝八幡宮が祀られており、
遺構の土塁や堀を確認することができる。
鳳凰の彫刻
ここで中条三盛という人が、死去していました。。。
「関ヶ原の戦で受けた傷が元で鮎貝城の城内で死去し、
菩提寺である常光寺の境内に葬られています。」
※常光寺
https://www.dewatabi.com/okitama/sirataka/jyoukou.html
その中条氏の菩提寺である常光寺にも巡っていました。
後で、調べてわかったことですが、
中条家の鎮魂をしにいったような~。
彫刻が立派~。
で、特にネタはないな、と思っていたけど、気になることが。
「最上氏と対立していた中条氏」と知って、
もしかしたら、山形だから白鳥家と関わっていたんじゃないか、と・・・
■中条 三盛---------------------
中条 三盛(なかじょう みつもり)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
中条氏22代当主。沼垂郡奥山庄の鳥坂城主。
揚北衆三浦党の一人。
主家の会津移封後は出羽国置賜郡鮎貝城主となり、
関ヶ原の戦いでは最上氏の支城を攻略した。
ということは、やっぱり、最上氏とは対立しており、
それは、白鳥家もそうだった。
試しにネットで調べてみたら、なんと、
「白鳥氏は中条氏の同族とする説もある。
すなわち、白鳥十郎長久は中条長政(あるいは長隆)のあとを継いだというものだが、
この説は白鳥氏の谷地入部を合理化しようとしたものであるようだ。」
白鳥十郎長久が新たな居城とした谷地城は、もともと中条氏の居城であった。
戦国時代のなかごろに中条氏は断絶し、
白鳥十郎長久が後継者に迎えられたのだというが、
中条氏が亡びたのちに十郎長久が進出を果たしたものであろう。
白鳥十郎長久は、あこや姫伝承と同じ「ごんご様」の伝説がありました。
あこや姫のようなごんご様は、他の女性(最上氏の姉とか熊野三郎の娘とか)
諸説があるのですが、白鳥十郎長久の妻(最上義光の娘)の説が伝説になっているもの。
娘の夫(白鳥十郎長久)を父親の最上氏が殺してしまう話し。
白鳥長久が殺されてから、農地の大豪富に隠れ住むなどしたそうです。
白鳥氏は織田信長に信頼されていたようです。
織田信長より出羽国の国主を命じられ、「ひおどしの鎧」を受けたと。
(ひおどし:鎧の縅が、クチナシやキハダで下染めし、
その上から紅や緋で染めた紐や革緒などで縅したもの)
最上氏がそれをうらやましく思い嫉妬したのかどうか?
「私こそが国主になるべき」という思いから、白鳥氏を呼び寄せて
殺害した話しがあります。
白鳥氏の系譜は、わかっている範囲ですと安倍氏になるそうです。
出羽国白鳥郷(村山市)を本拠とした白鳥氏は、安倍頼時の八男の子とされます。
※マザーテレサのような優しいごんご様の伝説があります。↓
城の模型がある御堂です。
話しを戻し、中条三盛は元亀4年/天正元年(1573年)、
越後国の国人・中条景泰の長男として誕生。
中条氏は相模国の名族で鎌倉幕府創立の功臣、
平姓三浦氏、和田氏の流れである。
そーいうことか。
中条氏は、
前回の「つぶて石」で和田氏のことを書きましたが、
朝比奈義秀と組んでいた和田氏の子孫だったわけですね。
和田氏の一族は、北条氏と対立するようになり、
保元年(1213)の「和田氏の乱」で一族のほとんどは滅亡した。
そのなかで、一人幕府に味方して奮戦したのが和田重茂で、
豪勇の誉れ高い朝比奈義秀と組み打ちして戦死した。
和田茂連の子孫は、中条氏を名乗ると。
和田氏・・・中条氏・・・白鳥氏・・・
ということなので、中条氏を、初めて知りました。
その土地に伝わる歴史を調べると、
いろんな武将が、関東など、遠くから先祖がきており、
そんな人達が葛藤していた歴史を、
こうして散歩しながらお参りしていることで、
無念であった武士の念が、少しは安らいでくれたなら、うれしい。
が、お寺はいったものの、
中条三盛氏の墓がどこにあったかは、みてない。
裏手に廃墟な建て物があったが、紅葉しているツタが主張していた。
植物は強し!
た~くさんお地蔵様がおりました。
しぶっ(老舗酒造)
次は、イタコっぽい寺へ。