日光の奥にある「湯西川」へ。
鬼怒川よりも奥にある秘境みたいな所だけど、
道がよくなったので比較的行きやすくなりました。
関東圏からたくさんの人が訪れる人気の温泉地です。

 

 

ここは「平家落里」として、知る人ぞ知る平家の地。

 



秩父も平家落里と言われており、「高望王」が秩父に逃れた伝承や、
平将門伝説も多いので、ちょっと平家落里と聞くと、
故郷に帰って来たような気分。

 

 

水の郷観光センター

 

 

川の水がきれいです。

けっこう、透明な川でした。

 



戦い方が違うというか、なんとなく平家はラテン系で
陽気なイメージがあります。
平家は争うことよりも、逃げることを戦術としたような。
とにかく、奥山へかくまる。


湯西川の先祖は平忠実(平忠房が改名したと言われている)が落ち延びたとされ、
平家の落人伝説の残る集落で知られている

温泉の発祥は天正元年で400余年の歴史があり、
平家の落人の子孫が発見されたと伝わっている。

 

(クマ!)


追討から逃れ、身を潜める山村生活を営み生きるため、
この地では今もなお端午の節句に鯉のぼりを揚げない、
たき火をしない(煙を立てない)、
鶏を飼わないなど独自の風習が残っている。


■復元された平家落里---------------------------

湯西川温泉は、平家落里伝説の地として古くから知られていました。

 


その昔、京に栄華を誇った平家は、
源平の戦いに敗れ、源氏の厳しい追手から逃れて
秘境、湯西川に身を隠して生活を始めました。

 


それらを後世に永く保存継承する拠点として復元されたのが
平家の里です。

 



ここに面白い出来事がありました。
この写真をみると明治時代の頃のような、
古さを感じますが、最近の出来事です。(平成6年10月)

 



【源平の和議】が成立していたのですよ!

鎌倉の「源頼朝会」と「全国平家会」手打ちをしたとあり、
「平家の庄」に【和議書】が展示されていました。

 



源氏・平氏の末孫が会った記念写真。
遠祖が再拝することで源平両氏の和議を誓ったという事が
書かれています。

 

本物。↑

 

源平略年表もあり。

平清盛から始まった。(1118年)

 



ちなみに、和議之書に理事長「伴」氏の名がありましたが、

「平」と名乗ると討伐されるので、
名前を崩して「伴」にしたそうです。(←ダンナ情報)

 

 

高原山は、黒曜石がとれたところです。

塩原山ともいうのですね~。

塩・・・海・・・

 

※1189年源頼朝「奥州平泉征伐」

全国に落ちのびた平家の伝承地。

 


 

やはり、近畿地方にいたから、紀州周辺、四国、山陰、九州が多いです。

 

ですが、平家を追って源氏もたくさん来て山暮らしをしてるので、平家と源氏の区別は、将軍家だけが誇示していただけなのかもしれず。

 

一番北は、岩手県久慈市宇部町まで!

よく逃れましたね~。


宮城県は仙台の定義地区。
(今は定義山の「あぶら揚げ」しか知られていないが・・・。)

 



他、山形県酒田市鳥海山麓
福島県南会津郡檜枝岐村

 

さて、復元された建物や遺品などは、その当時のままのようで、

見ごたえがありました。

歴史ドラマの撮影に使えそうな。笑

 

 




 

 

唐臼足ふみ式(これで雑穀をひいたんよ)

 


■安徳天皇の赤間神社-------------------

ここに、赤間神社があります。

初めて聞きました。

安徳天皇を祀る神社を知らなかった!


「栗山村長(斎藤喜美男氏)が村の発展、
地域の活性化のために平家落人の隠れ里
として広く世に知られることに。

 


 

そのため、この場所に「平家の里」を復元。
昭和57年~4年の歳月をかけて開村した。


 

赤間神社は、山口県下関の赤間神宮より「平家の里」
開村を祝し、国内初の赤間神宮分詞がなされた。

 



赤間神宮(あかまじんぐう)は、山口県下関市にある神社。
旧社格は官幣大社。
壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る。

 



江戸時代までは安徳天皇御影堂といい、仏式により祀られていた。
平家一門を祀る塚があることでも有名であり、
前身の阿弥陀寺は『耳なし芳一』の舞台であったが、
廃仏毀釈により神社となり現在に至る。

 


※こちらの内容から(↑)


赤間神宮は、龍宮城を模した龍宮造=「水天宮」があるそうです。
「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによると。

『御祭神安徳天皇は水天皇大神と称へ奉り 
徳富蘇峯翁は之が奉建に際して
玉体を水底に鎮め給ひしも、御霊は天上にお在しまさば、
此の神門を『水天門』と申し奉る所以なり
」』




※『安徳天皇縁起絵図』赤間神宮所蔵
壇ノ浦入水に至る一代を画いたもの。
上部の色紙形の書は伝青蓮院宮筆。
もとは阿弥陀寺(赤間神宮)内の安徳天皇御霊堂の
障子絵であったものが、明治になって軸装に改められた。)

安徳天皇は、三種の神器のひとつ、
天叢雲剣」(諸説あり)と共に、失ったという伝承があります。
8歳で崩御されたと言われますが、生き延びていた伝説が多いです。

 


本物かどうかは別として、朝廷は剣の回収に失敗したことは確かであると。
源頼朝は、義経に安徳天皇と神剣の保護を頼んだが、
失敗したため、義経が追われたという話しも。

 



変わりの剣を、鍛冶師に作らせた後鳥羽天皇の話しもある。

 



あまり天皇の神器に興味がないんだけど、
誰が何の先祖のルーツかわかっても、
血統を重んじることが、本当に重要なのか?と思うようになった。

 

絆とかそんなきれいなものではなく、

ドロドロした一族、家族、身内の派閥。

巻き込まれた庶民。


もう十分。

 

 

とにかく、獅子舞が多い・・・

■湯西川伝説---------------------------

「平貞能公(たいらさだよし)は、小松殿の妹君「妙雲尼」を助け、
資盛忠房のわすれがたみを擁し、宇都宮の藤原朝綱公の
もとへ落ちのびた。



※平重盛の妹、妙雲尼は塩原の「妙雲寺」に草庵を結ぶ。

 


※「妙雲寺」には天満宮があります(安徳天皇の関係)

しかし、平家討伐令は厳しくなる一方で、
一族は川治の最高峰、鶏頂山に身を隠し敵をさけた。

一族の婦人が男子を出産。
折も折、拝事喜び端牛の節句にのぼりを立てた所、
源氏方の目にふれ痛手を負う。


貞能公は塩原へ、忠房公のわすれがたみ忠実公は、
湯西川へとわけあがった。
以来、湯西川では鯉のぼりをあげず、
又、鶏は飼わない風習も残り、多くの秘話伝説に満ちております。」

 



「鶏を飼わない」風習は、鳴き声に気づかれないことだと思いますが、鳥海山麓にいた「丸子氏」に関係してないかなあ。


武蔵丸子がいたので、丸子氏の祖先も?
新羅の卵から生まれた始祖伝承。

 



丸子氏は、紀伊国・信濃国・相模国などに点在。
大伴氏の氏族なので、秦氏と共に活動していた豪族です。

大和の和珥氏の支族という別説もあり、
尾張氏や物部氏と同じ高倉下の末裔という伝承。

 



鳥をトーテムとする鳥族は、
中国の「殷(イン)」で、ヤタガラスはこっち?

たぶん、新羅→平家に流れる。
百済・高句麗→源氏へ。


丸子氏は、「名族秩父氏の流れを汲む武蔵江戸氏の支流の一族。
本姓は桓武平氏」

 

そうですよ!系譜は、畠山氏。

あの畠山重忠(九州の巫女説ある古墳に秩父神を祀った人)

の息子、畠山重保の孫→重長の三男である家重が丸子を称したのが始まり。

 



ということで、平家もいろいろな氏族が関わっていて深いです。
秩父は「伊勢平家」といって「高望王流坂東平氏の庶流」となり、
これら「板東平家(ばんどうへいけ)」が東北を目指します。

 

板東平家は謎です。

それに、伊勢の関わりはないと思う。。。

『平家物語』に、
「この一門にあらざらむ者はみな人非人なるべし」
と、
「豪語するほどの栄華を極めた」らしい。

強引な政策があったことも。

だから平家はプライドが高い。
江戸幕府から大名が秩父に巡礼にくる際、
秩父人に警備を任せたところ、奥山の峠に置かれたことに
腹を立てて、仕事をほっぽり出したと。

辺境の地に警備を置かれたことへの不満。
「自分たちは幕府に仕えた役人と同じ身分だ」と、言いたいわけだ。

しかし、武甲山をみる限り、立派な武士だったとは思えない。
信仰深い人々とも感じられない。

あんなに強い秩父平家だったのに。

秩父人の魂はどこへ?

武甲山に置いたまま?

次は、平家落里の周辺を散策した話しを書きます。

■湯西川温泉観光情報
https://www.yunishigawa-shotenkai.com/