またここにきた。
改めて闇無浜を想う。
中津国の闇無浜。
別名龍王宮。

その前に、混乱するので系譜をおさらい。

 



垂仁天皇の皇后が、狭穂姫。
しかし、天皇の父が彦坐王ともあり、
そうすると系譜が同じ家族となり、おかしい。

垂仁天皇の「実在しない」説は、そうかもしれない?
だから「11代目はいなかった」と言えるのかも。

 

ですが、10代~12代目の天皇は家族ぐるみな感じもするね~。

この時代の天皇のことを、「聖(ひしり)」と呼びます。

 

※炎に包まれる狭穂姫命(wikipedia)

もう一度、復習。
「中津国」とあるこの看板の祭神に、謎が深まる。。。

■闇無浜の伝承------------------------------

『九百年前、闇無浜神社のある場所はただ潮がおしよせてくる砂地でした。
そしてその砂地には、一本の背の高い松がありました。

ある夏の十五日の夜、(その夜は陰暦七月十五日だったと言われています。)
その夜は十五夜で潮も満潮のころ、お月様は真丸く清く明るく輝いていました。

不思議な事に付近の木々は、木の陰が鮮やかにうつりますのに、
その松の木のみ影が地にうつりません。
そして砂地いっぱいに影のない月影をうつしだしていました。

やがての頃、波の音は激しくなり、風はだんだんと激しくなり、
木々は風によって倒されると思われるほど激しさをましてきました。

その時、北方の波の上に龍神があらわれて、
「この土地に末世にかけて魚の他揺る事なし。
この地に宮を造り、厚く祀るべし」と告げました。
やがて波も静まり、風もおさまり月は前にもまして煌々と輝きをましてきました。

それからこの地に神社を建て、闇の無い浜ということで闇無浜神社と
名づけられたそうです。』


※事代主のブログより
https://ameblo.jp/indiaindia-27/entry-11951963689.html

闇無浜神社は、
宇佐市役所の南西400m程の辺り、宇佐にの市街地に鎮座しております。

 


※闇無浜神社:鳥居のそばに、なぜか猿田彦命
 

看板の御祭神(看板より)

 



『十代崇神天皇の御代、豊日別国魂神、瀬織津姫神、

十二代景行天皇の御代、海津見神、武甕槌命、経津主神、
天児屋根神、別雷神


古代より上下の尊崇厚く天平の太宰小弐藤原広嗣が謀反を起こした時、
朝廷は佐伯常人、阿部虫麿を征西将軍として西下させ、
当社に朝敵退散の祈願をし、賊を平定した。

爾来宝亀2年(771)の疫病鎮滅、
延暦9年(790)の天災祈願、
天慶4年(941)の藤原純友の乱、
弘安4年(1281)の蒙古襲来等、
国の危急に度々、敵国降伏を祈願し、神威が大いに顕した。

中津の闇無浜神社は旧称 豊日別国魂(とよひわけくにたま)神社といい、
明治5年までは豊日別国魂神社と呼ばれていました。

崇神天皇の御時に同僕二四名を従えて日向国から豊前国中津に移住し、
豊日別国魂神の示現を得て、一社を建てて祀ったとあります。


だから、トヨの地。

「平定した」こと、「崇神天皇の時代に豊前国にうつした」由来から、

名取の天満宮由来が繋がります。

中津からきた義氏は名取で落ち着く。

前田の庄は、藤原利仁の系譜があり母が豊国。


が、素朴な疑問。
十一代がないのは、なぜ?

後醍醐天皇の祇園、も気になるけど。

■和邇氏の影-----------------------

天変地異か病気の蔓延か、動乱も多く世の中がうまくいかないので、
天皇を変えたようにみえる。

新たな幕開けといった時代の転換期を線引きするなら、
「十代と十二代の間に何かがあった」と思わざる得ないのです。

この隠語的なものを含む由来に、
闇と名のつくトベが亡くなったと想像する。

が、九州にトベは記録されていない。
けれど、卑弥呼(日の巫女)はいた。

神武天皇によって紀州や奈良などの近畿地方に
連れてこられた巫女たちが、トベになったんだろうか?

闇は、倉のことで「倉には何もない」といった意味があるそうですが
ならば、なぜ蔵や鞍にしないのか?と思う。

古来から、豊饒の山には、「嶽山」とつける。
鞍とつく山名は多いが、「闇」とは聞いたことがない。

闇無浜との繋がりには疑問がありつつも、
闇とつく姫について調べると、やはり大武丸に繋がる。

闇見神社(くらみじんじゃ)が福井県の若狭にあります。
しおさんがブログに書いていた
「沙本之大闇見戸賣命(さほのおおくらみとめ)を祀っており、
次に配祀として、菅原道眞 天照大神を祀っていました。

家紋が、十六菊と星梅鉢で、
大蛇伝説です。

利府・石巻にも、トベ伝承があり「魔鬼女」がいました。
そこにいたのは、「和邇氏」一族の影。

前回の話しで、
日子坐王の子供には、4人いて四柱とされた。
その子の一人、
室毘古王の亦の名を「若狭ニ別(王偏に耳)=わかさにわけ」
というのです。

 

「ミミ(耳)」です。

古来の豪族につける名。

津名道代先生から、
若狭に領土を分け与えられたのは、父:日子坐王の母が、
「和邇氏」と関係する名である事
と考えられる。


和邇氏の影に、トベがいるのは、石巻の牧山でいろいろ書いてました。

(マキメのハイヌベレ伝承)

誰かが置いていったという玉が、闇無浜にあります。
霊烏石(宮司様のお話では霊烏石の上の玉はどなたかが置かれて
帰られたそうです)

 



※闇無浜神社より
http://nabaanooyado.blog.fc2.com/blog-entry-301.html

崇神天皇が、「祟」の語を用いているように、
この意味は、「気が高い」意味で、あまりにも通常ではない状態。
異常に気が高い状態をさすものです。

12代目から、東北の太平洋側に多く祀られている寺社ばかり。
この頃から神が変わったと考えます。

妄想するに、十代目は、まだ母系社会(トヨ=台与)の頃であり、
卑弥呼の後を継承していた時代から、
十二代は、父系社会の転換になったと思う。

それ以前のトメの社会が消えたことは、津名先生の本でも
書かれているように、父系に嫁いだ母系を存続させるため。
そのことを、闇無浜が物語るようだ。


天つ系(父系)に嫁いだ、国つ系(母系)の沙本毘賣命。
サホ姫の父が、和邇氏の遠祖。

なので、サホ姫は母系の血統をもつかもしれない。
(南方系海人族:ポリネシアン)

だが、若狭湾と由良が似ているのは、朝鮮半島~出雲~日本海へ
上陸した古い一族と想像する。
そのため「ヒスイの交易」を積極的に行っていたと思う。

ヒスイの玉(ぎょく)を持つのは、女帝。
大陸の系譜をもつ母系のサホ姫かどうかはまだわからないが、
伽耶姫は、そうだと思う。

この時代を境にトメが消えたというのは、
12代目の景行天皇はトベ伝承に現れる
ヤマトタケルの父だから。

ハタレ退治が始まったホツマツタエの話しのように、
カシマとフツヌシに任せることになる。
天の岩戸隠れから、「アメノコヤネ」になっているが、
「忌部」も隠されている。

実際、海側を占拠しているのは鹿島の神になっていることを考えれば、
この時代の転換期(11代にいた)を行ったのが、
「倭姫命」ではないか?

倭姫は、「斎宮の始まり」と言われる。

そこで、あの神社が再び登場。

■十一代目から始まった征伐-----------------

「倭姫」は、記紀に伝える古墳時代以前の皇族で、
第11代垂仁天皇の第4皇女とされる。

 

倭姫命を祀る倭姫宮


倭姫は、第10代崇神天皇の皇女「豊鍬入姫命(とよきいりひめ)」の後を継いで、
天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、
神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされます。


皇室の巫女だったのですが、11代垂仁天皇の後は、
12代目が景行天皇の時代になります。

東北地方のエミシ征伐に何度もでてくる、ヤマトタケルの父が景行天皇です。
熊襲、土蜘蛛、蝦夷征伐と続く。

おそらく、第十代崇神天皇の時代までは、「それ以前」という朝廷が治める前の
古い神を信仰していたということ。

それが石神(霊石)だったかもしれません。

※宮城県登米市
遠流志別石神社(おらしべ)神社のイワクラは、何のためにあるかは謎。

しかし、この神社の由来に、ヒントがあった。

 



旧栗原郡三迫高倉荘石越村。

邑良志別君 宇蘇弥奈(おらしべのきみ うそみな、生没年不詳)」
を祀るという神社。


『景行天皇四十年、皇子・日本武尊東征のおり、
伊勢神宮に参拝し、倭姫命より明玉を授かった。

これを頭上に戴けば、たちまち賊を鎮定できると。
無事、東国平定の後、この地に至るや
明玉は霊石と化し、よってこの地に祀った
という。

その霊石は、年々小石を産むが故に
里人は石神明神と尊崇し、石子石=石越という地名となった
。』


 

境内裏にあった謎の石。

石信仰は、諏訪のミシャグジかもしれません。

 



以前、大武丸がいた伝承がある大嶽山観音堂へ行った後に、
石越の「石神社」によりました。

 

※奥州鎮護大嶽観世音(ご開帳の日にいけました)

 


※大武丸が潜んでいたと伝わる穴

 


改めて過去記事を読み返して納得!
石神社は「三輪明神」を分霊していたのです!

 


三輪明神=大神神社(崇神天皇を祀る)
崇神一族は、東北に来ていた・・・説はあるかも~。

 



なので「ヤマタイ」に関与する地名が、
東北地方に点在しているのだと思い、
大物主崇拝がエミシによって継承されたと考えます。

 



妄想するに、言霊を封印して東北に置いたというならば、
石越周辺~岩手県「オカミサン」という口寄せが広まる理由もみえてくる。

自然崇拝のシャーマニズムな世界です。

 



※二十三夜塔がある

(会津の滝神社=瀬織津姫にもあった月待講と同じ)

ということなので、
ツヌガアラシヒトの妻であるアカルヒメ(明玉)?
のことなのかどうか。

伊勢に参拝した時、倭姫命から玉を授かったというヤマトタケルとは、この場合、女ではないか?
タケルの巫女=大武丸(女性であっても不思議ではない)

玉が何かの象徴としていますが、赤は、いろいろある。
悪路王も、赤頭と言われ「赤」です。

中国では、玉(ヒスイ)をもつのは、王女(女帝)と決まっている。
国を治める女王は、ヒスイの玉をもつのです。


女王といえば、卑弥呼(日の巫女)ともいうので、日=玉。

私は、オオヒルメムチが日の巫女だと思っている。
(神功皇后伝承が多いのもそう。)

中国での玉は、とても強い霊力をもつ魔法のような力といわれる。
絶対的な力をもつといわれ、目に見える装飾品のことではない。


シャーマニズムな人々の依り代というのが、石や植物であり、
蛇体という気のような霊体というもの。

大蛇伝説の巫女は、非常に霊的な意味をもちます。

その次の物質文明(父系社会)に「変わるまでの間」の繋ぎとして、
第11代垂仁天皇の皇女である「倭姫命」が、
懸命に次の天皇(霊知り)や、神降ろしの世をどう立て直すか、
奮闘していた時期と想像する。



そして現在の伊勢神宮の内宮が(場所?)決まり、「斎宮」が生まれた。
しかし、それから「まつろわぬ民」の征伐が本格的に始まったようにみえる。
それから、母系は封印されトメも力を失っていく。

 

三輪山に大物主を祀ることになった背景に、
「五十音」の話しがあった。

「二千年以前、崇神天皇により言霊の学問は世の中から封印されました。」
と、言霊学が教えてくれている。

確かに、宮城県には「五十(イソ)」と名のつく神社名は多い。

じゃ、なぜそんなことをする必要があったのか。
今と重なるメッセージがあるのかもしれない。

次に書きます。