梅雨明けしたのは嬉しいのですが、早速、猛暑です。
あづい~。
こんな熱い日でもコロナは健在なんですね・・・。(+_+)

もうすぐお盆ですが、こんな時なので
今年は秩父には帰省せず。
夏祭りもないし、活気のない夏ですなぁ。

ですが~美味しい果物はたくさん実ってます!
夏の果物といえば、桃。
今「あかつき」という品種の桃があり、甘くて美味しいです。

桑折町は果物街道と言われるだけあり、
夏になると桃を買いにくる人がたくさん集まってきます。

先日、福島の国見まで桃を買いにいってきたついで、
小原の歴史文化資料館へ。(古墳がテーマだったの。笑)
近くに淡島神社があるので、

久しぶりの白雲洞の淡島神社(あわしまじんじゃ)へ。

 

 

※高子村と書かれた灯籠。

 

この時期なので
草ボーボーだし、蜂がいるし蜘蛛の巣もあるしで、
入口だけ参拝して帰ってきました。

 

 



福島県保原の淡島神社は、岩場があり不思議なところです。

全て庚申碑の石碑で、ずら~っと並んでいる山道です。

青面金剛の猿田彦命です。

 


梁川一帯は古くは海だったので、
かなり古い地層が隆起した岩が
修験の場になったようです。

 



淡島神社は、スクナヒコを祀ります。
和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社が総本社。(赤印)

 



婦人病を治すご利益があるとの事で、
薬師信仰でもあります。
粟島と同じなので、アワの茎を植えた神話がありますが、
スクナヒコと関係するのは、このアワのことだと思います。
※淡路島とは違う。

 


元は、小原の薬師堂に祀られていた?ようです。
しかし、淡島神には諸説が多く、スクナヒコの他に、
ヒルコ神」と同じ説や、ハリサイニョ(龍女)説もあり。

ヒルコ(水蛭子)が流された島が淡島と神話にある。
単に、海流でその島に上陸してしまったのでは?

淡島は、住吉神とも関係するらしく、
漂流した島が偶然、淡島だったことから(本来は淡路島を目指すはずが)
ヒルコになった?という妄想。
(失敗したという話しからね)

後に、淡路島(オノコロ島)へ到着した者が
神話を創ったと思いますが、淡島も淡路島も近いので。

ヒルコの「葦舟にのって」話しは、スクナヒコも同じ伝承のため、
これも神功皇后のことを伝えているという。

モーセの話しっぽいけど。。。
※沼津にもありますが、関係は不明です。

そうそう、いつも繋がってくる卑弥呼とは、
神功皇后のことです。

 

※神功皇后(アマゾネス)

ですから、この後書く「もうひとつの淡島神社」は、

蔵王町で、蔵王町の淡島神社の御祭神は、
少彦名神・大己貴神・天照大御神であり、
他に八俣神(八衢比売神)・保食神(稲荷神)

息長足姫命(神功皇后)を配祀しているわけです。

■蔵王の淡島神社------------------------

大を小にするという祀り方は、エミシあるあるで、
朝廷が噴火を鎮めるために、スクナヒコを祀った経緯もあります。

それは、鳴子の方の川渡温泉の石神社。

 



川渡温泉の藤嶋旅館のそばに、温泉石神社(ゆのいしかみ)があります。
延喜式の神社で玉造部の一座。

鳴子の大噴火により大石の根元から温泉がでたので、そこに少名彦命を祀った。
玉造塞とは、788年エミシの侵入を阻止する目的で、
川渡温泉の玉ノ木付近に設置したと。

800年代から温泉石が存在いていたようなので、
大噴火の天変地異が石神によるものと考えた朝廷が、
少名彦命を祀り鎮魂したと考えられます。(大小の関係)

大きな災いを小さくする意味。


2016年に書いていた記事を思い出し、
鳴子の地名由来は、「ナルナイ」の「なゐ」=地震から由来。
神社前に、大きなスクナヒコの石碑があったのを覚えています。

■蔵王の噴火鎮魂?----------------------


実は、連休中に蔵王の淡島神社にも参拝していたんです。
初めて訪れた神社でした。

 


ランチしたお店の近くに淡島神社があったので
みんなで行ってみたのですが、池もあったりして雰囲気は鎮守の森。

 

 

淡島山から流れる水の池です。

 

 


ですが、その時は何も知らなかったんです。
縄文遺跡の場所だっとは。

 



連続して2つの淡島神社に行く流れになったので、
何かあると思い調べてみたら「淡島山遺跡」と書かれた地図を発見!

 

※鍛冶沢遺跡(PDF)

https://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/16072.pdf

 

1→鍛冶沢遺跡 5→淡島山遺跡

縄文遺跡があった淡島山に祀られていたことを知ったのです。

 



おそらく、淡島神社もスクナヒコなので、
蔵王の噴火を鎮める意図が背景にあったのでは?

 

もののけがいそう。

 



■鍛冶沢遺跡の曲竹----------------

淡島神社がある地名は「曲竹(まがたけ)」という地名です。
すぐそばに、中空土偶が発見された「鍛冶沢遺跡」があるのです!
興味深いモノが発掘されています。

 



※蔵王東麓の縄文遺跡群を参照。(PDF)
http://www.dokitan.com/books/zao_bun_leaf_2.pdf

<土偶と石製品>

「土偶は、昭和初期に耕作中に発見されたもの。
ほぼ完全な形をとどめ、
中空で立てて置くことのできる作り。
翡翠製の勾玉と小玉、右下は関東・北陸以南の暖流域に
生息するイモガイを忠実に模した石製品。」

 



イモガイは宇賀神やん。

様々なイモガイ(Wikipedia)

 

 

ナニコレー!な美しさ。の裏に毒あり。

 

毒をもつため、神経麻痺させることがある危険な貝と。

でもこれって、古来では神経をマヒさせることを知って、

医療に役立てていたことってないのかな?

麻酔手術とか。(死じゃうか・・・)


こちらは、レントゲンをとった中空土偶。

 



※中空土偶
http://miyagi.arcpot.com/exca/2008/0913/index.html

「そのままの形が残された」がちょっと何かある気がする。
通常、3000年以上も前のものだとしたら、
あり得ない奇跡。

恵比寿田遺跡の遮光器土偶もそのままの形で発見されました。

 

優等生な縄文人。

ずっと前に青森で土偶製作をしている柴谷さんとお会いした時に、

縄文人は飽きっぽいから土偶を教えるの大変だったと。

 

それを言われた時に、ドキっとして。

それ、あたしだな・・・。

ほんとに作るのは飽きるんだ。

私は落ちこぼれな縄文人だったわけで。

土偶作りに飽きて、ほっぽりだし、放浪の旅にでた。笑

 

そして、弥生人になって再び戻る。

そんなことをずっとやってるね〜え。

 

なので、完全な形の土偶発見とか聞くと、

優等生だな、と思う・・・。

 

でも、現世、また仲間たちと柴谷さんと土偶を作る機会に恵まれて、楽しかったな〜。

やっぱ、土偶制作は女たちだったんよ。

で、ここで発掘される土器は、亀ヶ岡式とよばれる土器
青森からきた縄文人が南下し、蔵王の麓にすんで、
土器や土偶などをつくり、暮らしていたと考えられます。

縄文後期~晩期は、今から約4千~3千年前。
3千年~2千年前の晩期には、気温が2度低下し海面も低下したので、
漁労活動に壊滅的な打撃があったそうです。

そのため、海の縄文人がより暖かい南へ移住し、
山で暮らし始めたのが、蔵王の縄文遺跡からよみとれます。

巻貝形土器がすごい!
素晴らしい芸術作品ですよ~。


「土製品で縄文時代後期のもの。
液体を注ぐ器として機能し、
うるし形で儀式など特別な用途に使った。」

 

蔵王はすごい。

縄文時代は1万年という長い期間にわたり、
大規模な気候変動も経験している。

「また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでおり、
現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかった。
結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、
多様な形式を持つものとなった。

遅くとも縄文中期(BC5,000年)頃に
はヒスイ製勾玉が作られていたことが判明しており、
特に新潟県糸魚川の「長者ケ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともに
ヒスイの工房が発見されている。


蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や
北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが分かっており、

このことから縄文人が広い範囲でお互いに交易をしていたと考えられている。
後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。
(Wikipedia)

な~るほど!

なぜ日本製のヒスイが朝鮮半島の伽耶で大量に見つかっているのか?

疑問だったけど、縄文時代から行われていたヒスイの交易がきっかけなんですね!


県南にもそのヒスイがもたらされたような。
日本海と太平洋をぐるぐる巡っていた縄文人。
それを1万年続けていたのですから、

相当、巡ってますよ・・・私より。笑

 

まだまだ私は甘いんだなっ!笑い泣き

ということだから、縄文人は自由に広範囲に移動するタイプ。
狩猟が中心で気候変動もあり、定住ではなかったと思われ、
稲作がもたらされて、ようやく安定した食を得られるようになり、
定住するようになりました。

 

 

※宮城考古学情報

http://miyagi.arcpot.com/exca/2008/0913/index.html

掘立柱建物群は、
4~5棟が弧を描くように並んで建てられていたそうです。

これらの縄文遺跡は「青麻山」を意識していると思います。
青麻は、「麻」=「アワ」にも通じます。

 

青麻山麓に縄文遺跡が広がる。

玉造柵というのが大崎の方にあり、玉造軍団というのですが、
実態はわかりません。

古来、勾玉を製作する玉造部がありました。
(大崎の玉造軍団=玉造柵とは関係ない)

『古語拾遺(しゅうい)』によると、
出雲の玉作の祖を櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)としているが、
これは忌部の祖太玉命(ふとたまのみこと)に率いられた五神の1人という。

玉作の地名は、河内、大和、武蔵、下総、常陸、摂津、近江、
周防、讃岐、出雲などに及ぶように全国的に玉造部は分布した。

『出雲神賀詞(かむよごと)』に「白玉の大御白髪(おおみしらが)まし、
赤玉の御赤(みあか)らびまし、青玉の水の江の玉の行相(ゆきあい)」と
唱えられるように長寿や健康を祈るものであったから、
玉造部は宗教的儀礼に深くかかわっていたようである。

(日本大百科全書)

蔵王は青麻山から登る習わしがありました。
青麻山は一度登ったことがありますが、
特に何かあるわけでもなく、山頂も小さい祠があるだけでした。

 



刈田郡の豪族は大伴臣人足(ひとたる)という大伴氏なのです。
大伴刈田臣の姓をもらう。

 



青麻山山頂に鎮座していた神を刈田嶺神社に移したそうです。
どんな神かわかりません。

蔵王はヤマトタケル伝承が多い白鳥信仰です。
ヤマトタケルは、『大碓命、小碓命(おうすのみこと・こうすのみこと)』
と双子説あり。
ここでも、大と小。

ちなみに、淡島神社の近くに「白九頭龍神社」がありますが、
藤原国衡の墓と伝わります。(古墳)

 



3代目藤原秀衡(奥州藤原氏)の子で、若くして亡くなりましたが、
4代目泰衡とは異母兄弟。
アイヌの子だったと言われます。

白九龍は、「しろくずれぞうし(白崩・城崩)叢祠」
の語源からきており、土砂災害があったのか、
奥州藤原氏の終わりを告げるものなのか、
江戸時代になって白龍となって祀られます。

医療が発達していなかった時代は、植物が薬でした。
薬師如来とスクナヒコが習合したのは、
薬草の知識をもたらした人もあるのですが、

実は、スクナヒコはとても小さいので、細菌(微生物)のこととも言われます。

人の体内に入って自然治癒力をもたらす菌です。

中国では天女という女性が薬草の術をもっていた話しは多く残されています。
「ハリサイニョ」も朝鮮からもたらされた信仰、牛頭天王の妻と言われ、やはり女性です。
日本では温泉治療と薬草があわさって、スクナヒコを祀るようになります。

古来、出産や幼児の死亡が一番多かったのです。
婦人病に効くといえば、その施しは女性にしかできません。
神功皇后も、そんな人だったと思います。

三韓征伐で「出産を遅らせた」伝承があり、石を腹帯に入れたとか。
後の「オブ石」になります。(安産祈願に石を敬う)

そんなことで、今起こっていることと、繋がっているな~

と思う淡島神社探訪でした。

■おまけ(村田町の八幡神社)-----------------

ここも洞窟~。

 

 

 

 

「牛石」伝説がありました。(↓)

 

 



村田町「民話のふるさとおとぎ苑」の先に行った所にあります。

 


 

道途中にあるので、通り過ぎてしまいそうですが、
鳥居がみえるのでわかると思います。