■鷹硯寺の緑丸の石とは--------------------------

お寺に伝わる緑丸の石は、二寸(約6.6センチ)ばかりの小石で、
硯とは受け取れぬ形態であると。

鈴石みたいなのかな?

『昔、百合若大臣が後言により陸奥に流されたが、
夫人は大臣の愛鷹緑丸の足に、便りと小さな硯を結んで大臣のもとに放った。
鷹は千貫松まで飛んで来たが、重さに耐えかねて落ちて死んだという。
里人は、これを哀れに思い葬ってやったのが、千貫山の上にある緑丸の石である。』


ということなので、伝承によれば、ここで鳥か人か、
誰かが息たえたような話し。


なんとなく、名取老女を導いたヤタガラスに似ているなぁ。
このような伝承には、鳥やある人物が何かを告げに、
陸奥へやってくるのだけど、県南の地域、特に岩沼あたりで亡くなったや、
別れた、殺された、といった話が多いのです。

おそらく、大日堂など尼寺があったように、
「かくまる里」で有名だったからと思います。
また、分岐している街道も多い。

 


東は海なので西側、峠を越える街道分岐にあたる場所が陸奥街道沿いにあるのだから、
このような伝承が多く残されているのも、当然かもしれません。

緑丸のある場所の説明をするのは、むずい~。
街を歩くのとわけが違う。

 

(大雨で崩れた土砂)


「八えん(やえん)」のラーメン屋のとこを右折して道なりにいくと、
集積所だったか看板あるので道なりにすすみ、山の方へ入って登ると、
集積所付近に2,3台止められる駐車スペースがあります。

そこから山に入る道があるので、歩くこと20分くらいで、
山の中に大きな石があります。
この説明だけで行けたら大したもんです。笑

 

(赤い矢印が石碑)

普通は見つけられないです。
わからなすぎて素通りしてしまうでしょう。


小野さんに教えてもらえなければ、まだまだ登っていて、
山頂について、何もなかったという事になるのでしょう・・・。
目印も何もないです。

また、これから草が生い茂る季節は隠れてしまうので、
もっと見つけられません。

■蔵王の花崗岩?-----------------------------------

緑丸の石碑
横2m50cm、幅35cm、高さ2m10cm。

大人の身長より高いので、近くでみると迫力があります。
これだけ大きな石碑は、なかなかないですね。
山中にぽつんと忘れられたようにあるので、
石が大きいだけに、余計に孤独感が募ります。

岩沼史の資料より、
石碑にキリークがあり、「真言五仏」の、
大日如来バン・阿閔如来ウン・勢至菩薩サク・阿弥陀如来キリーク・観音菩薩サ」

の梵字が刻まれています。

「1724年、新田宗右衛門・南条○○・鷹硯寺」

と書いてあります。

 



自然の巨石は、花崗岩。
皆の意見では、蔵王噴火の時にふっとんできた花崗岩だろう。
という事です。

石にこれだけの梵字を刻むのは、花崗岩だから、という理由もありますが、
埋まっていた石を掘り起こしたら大きかったので、
貴重な石だという事で、供養碑としたのかもしれません。

ちょっと上にあがった所にも巨石が。

 

 

プロは、メジャーで測る。(横2.60cm、幅60cm、高1.60cm)

素人は、それを見守る。

 

 

小野さんの三種の神器は、カメラ、メジャーと折たたみ傘。笑
千貫・深山は巨石がごろごろ埋まっています。

 


はるか昔の蔵王の噴火で飛んできた花崗岩であるとすれば、
相当な噴火の威力ですな~。

 

この道を下りてきてもOK.

だぶんこの道をあがって右へいくと、深山山頂だと思います。


■タタラのユリ--------------------------------

百合若大臣の話しから、黒百合、白百合とも言えるし、ユリ=タタラ用語となる。
秋田には由利十二党、名取には閖上の地名もあります。
山伏が舞楽として伝えてきた背景がみえ、
羽黒修験により「黒百合姫」伝承としてもたらされたと考えます。

ユリを使って巫女が舞う神社は、率川神社にあります。
祭神・媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)がササユリを愛した
という伝承にちなむ伝統行事。

これもタタラを継承する神事でしょう。
なぜか、日本ではタタラが、マリア信仰(クリスチャン)として結びつけられている気がする。
仏教にとっての異教徒は、タタラ場にいると?


※毎日新聞(率川神社のユリ神事)
https://mainichi.jp/articles/20160618/ddl/k29/040/538000c

大高山神社については、『四天王寺の鷹』という本からの参考ですが、
「四天王寺の堂塔に物部守屋の怨霊が悪禽となり襲いかかるのを、
聖徳太子が白い鷹になって追い払う」
伝承から始まる本です。

 

(四天王寺)

四天王寺の舞楽は、天台宗や林家により山形県に伝わっているし、
砂金に関係する慈恩寺、マタギの山寺、林家が伝えた熊野神社に広まっています。

また、千貫山麓にあった尼寺の痕跡に、「長谷山」の額が残されてます。


嵯峨天皇の申し子」ともいわれた百合若大臣なだけに、
ここに「長谷」の地名があるのは、不思議なことでもなく。


長谷寺は、奈良から三重県・伊勢へ続く初瀬街道を見下ろす初瀬(はつせ)山
の中腹にたちます。(長谷観音)
「こもりく(隠国)の初瀬」という万葉集の歌があるように、
古代から奥深い山に隠れた里であり、聖なる場所でした。

奈良県・長谷寺
※旅ぐるたび
https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2430/

■東北の隠国---------------------------------

東北は、迫害された天皇家(皇族)をかくまってきた地であり、

百合若大臣伝承は、アジール的な辺境地からの復讐劇として語られることになります。

救われた安倍宗任・一族は、四国(伊予国)へ流れ、
最終的には壱岐島へ行っており、松浦・彼杵二郡と壱岐島の司頭職となっているそうです。

助けられたのは、源氏側についた清原氏がいたからと言われ、
安倍宗任の母か妻だったか、清原氏だった為、
安倍氏の母or奥さんのおかげで源氏が勝利したことがあるのです。

なので、壱岐島で生き延びた安倍氏の松浦党が、九州の海民となり、
現在の安倍首相の先祖となって、日本を背負い、再び生き延びていくことになると?


安倍頼時(宗任の父)の長男?(良宗)は、盲目だったそうです。
宗任の兄弟に、盲人がいたのだね。
だから、「あさひ」なんです。

東北地方の歴史には、大きな影があるし、密かに生き延びてきた一族はたくさんいます。
たとえ、差別を受けても、敬意をもって伝えるべく、
出羽三山や熊野修験たちが力になっていたことを考えると、
もう一度、東北の歴史を読み解き、放つ時にあると思います。

緑丸の石碑も、長い間、静かに千貫山の中で呼吸をしていました。

緑丸の石碑に会えたので、これから、どんどん影が光になっていく予感がします。
そのうち「逆転」すると思います。

岩沼における意味を考えれば、
壱岐島から故郷の陸奥に思いをはせる百合若大臣とは、阿部氏一族の
人生の歴史が重なり、誰かが、ここで命を落としたのかもしれません。
鷹はここで、何かを伝えたかったでしょう。

なぜなら、この峯続きに、阿部氏八代目が居住していた城があったのだから。

ということなので、まだつづく。

安倍氏が居住していた川上城跡へ。
いい山だった~。

次は、大舘山に登った話し。