今年は暖かいので、もう前倒しで山開き。
足慣らしに、近くて登りやすく展望のよい鹿狼山(かろうさん)へ。

 

 

昨年の秋は、蔵王展望コースを歩いてみたのですが、
数年ぶりに今回は眺望の楽ちんコースへ。

 

 

しばらくこの道から登っていないので行ってみたら、
おおー、なにかいる!

 

 

新しい狛犬ならぬ、狛鹿と狛狼がおりました~。

 


平成31年3月とあったので、最近できたばかりですね!

 

 

この山の神様には、「撫る(なでる)」を示す言葉があるので、
足を撫でたり手を撫でたりして癒す神様。

鹿と狼を、なでなでしまくり、いざ、お山へ。

 

 

 

この日は、とても風が強かったのですが、
山の中は静かです。

 

 

 

ところで、私は何度もこの山に登っているのに、
「養蚕神」とは知りませんでした!

 

 

『丸森町ふるさとの伝説』によると、


「標高430.1mの山で山頂に神社が祀られていて、
海の人たちからは航海上の目印となっていました。
また、山の人たちからは養蚕の神様として仰がれた信仰の山でした。

 

鹿狼山は養蚕の神としても有名で、昭和30年代までは、
陰歴3月25日のお祭りに多くの参拝客でにぎわい、
この山の萩を折ってきて蚕室や神棚に置くと、
お蚕様が喜んで多くの繭を作るといわれています。」

 

 

手長明神さんがサンタクロースみたい。。。

 

 

このあたり福島~丸森や角田では養蚕が広く伝わっており、
猫碑も多いことから、養蚕の信仰深い地域であるとわかります。

 

 

山頂には、手長足長明神が祀られており、
すぐ下には貝塚があったことから、ダイダラボッチ(巨人)が
山から長い手をのばして貝を食べて貝を捨てていた伝承があります。

 

 

鹿狼山の伝承について、昔、手長足長という神様が住んでおり、
老鹿を愛し、白狼を飼いならしていた。


食べ者は眼下に広がる太平洋の貝類であったとされる。
大海に長い手をのばしては貝をとり、その貝殻を山の下に投げ捨てる毎日であった。
この貝殻がたまったのが新地町の小川貝塚であるという。

 

(今年は暖かいから芽がでてきてる~。)

 

 

そういえば、昨年秋に登った時に書いていたブログで、

 

手長足長明神は、『大日本国一宮記』によると、
壱岐(長崎県)では天手長男神社が国の一の宮であったとされ、

天手長男(あめのたながお)神社と天手長比売(あめのたながひめ)神社
の2社が存在していた。

 

 

その天手長男神社は、天忍穂耳尊(オシホミミ)、天手力男命、
天鈿女命(あめのうずめ) なのですが、「天手長比売」のヒメ神社には、
栲幡千々姫命、稚日女命、木花開耶姫命、豊玉姫命、玉依姫命・・・・。

 

 

と、宗像系の海民ぽい。
霊統の女性たちが勢ぞろいしており、栲幡千々姫命(タクハタチチ姫)
の機織姫が祀られていたので、やはり養蚕の信仰があった山でした。

 

 

しかも、帰りにそのことを伝える場所に立ちよることになりました。
道を間違えるという偶然の導きには驚きです・・・。
そこに寄らなければ、養蚕神だと気づけなかったからです。(後で書きます)

 

※蔵王眺望コースはこちらを参考に。
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/26a5b882be1c23acbc0d8a74100a79fa

※鹿狼山の歴史 
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/d2da4fb675bcd5b456767b693d65e667

 

 

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また、この山は海で死んだ人の霊魂が火の玉となって山頂に集まるといわれ、
その火の玉を「モウレン」と呼んでいるという。

モーレン?

 

手長足長明神の話しは、相馬市山上、会津の磐梯山にもあります。

漁師には航海安全。


農民には養蚕満足という、ワタツミ・ヤマツミの文化が
融合されている山が、鹿と狼なんですね。

 

(しれ~っと、おのくんも登頂)

 

標高は低いのだけど、奥深い山だと改めて実感しました。

機織というと、車輪と機織・タタラから中央アジアの騎馬民族を想像してしまいます。


車輪と機織は、中央アジアの文化が由来していて、日本にも伝わりました。
鹿をトーテムとする民族がいますが、

マタギは、猪と鹿肉をよく食べていたので、山神にささげる「肉=シシ」神の方

の意味になると思います。
そこに、渡来した文化が混じり、養蚕神として祀られたと思います。

 

相馬の海

 

奈良県に糸井神社というのがあり、3世紀~4世紀頃、
国産の鏡を包んだ袋が発掘されたそうです。


その袋が、青の絹織物や柔らかな兎の毛で織られた物で、
高級品として7世紀には重宝されたいたそうです。

しかし、それが3,4世紀にはすでにあったものであり、
古くから織物が伝わっていたことがわかっています。

 

※糸井神社(玄松子より)
https://genbu.net/data/yamato/itoi_title.htm

 

さて、南相馬に痕跡を残す阿波忌部。
倭文織をもたらしたとされる古代の氏族ですが、
大嘗祭の麻を代々、奉納している旧家があります。

 

南相馬も秩父も機織の歴史があり、妙見信仰です。
妙見信仰には、阿波忌部が重なると思うのですが、
南相馬から先の阿波忌部の痕跡はありません。

 

 

それは、陸路ではなく阿武隈川の水路を使って海から北上したのでは?
そんな妄想をしたくなるワタツミの旅を堪能したくなってきますが、
不思議なことに、帰りにたちよった神社が、鹿狼山の里宮だったのです!

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新地町の昔話がおすすめです。

 


他にも鹿狼山には、「三本の犬杉」という話しもありますし、

近くに「狼沢」の地名も。

 

 

 

※新地町ノート
http://shinchi-note.com/shinchi-machi/

 

「狼沢」という地名にある右近清水
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/ecb6899dc2a656141cc8166165667c3b

 

鹿狼山の里宮はこちらを。