秩父の後は、宇都宮のお墓参りのために栃木県へ。

宿泊地に佐野を選んだのは、単に埼玉に近いから。

そしたら、とても深い繋がりになってしまった。

やっぱり、お盆はいろんな先祖が(霊統も)繋がってきます。おばけ

いつも東北探訪や奥州藤原氏のことを調べているため、
藤原秀郷はよく知っており、何度も登場してきます。

(奥州藤原氏の祖ともいわれる)

 

ほとんどの東北の藤原家は、関東の藤原とされ、

そのルーツとするのが「秀郷流」

俵(田原)藤太とも呼ばれます。

 

というように「流」となって

いろんな氏族と枝分かれしている。

名前が違っても祖を辿ると、藤原家でそのルーツは秀郷流となる場合が多い。

 

※平将門と藤原秀郷(手前)

ただ、大蛇(百足)退治の伝説が有名なだけで、あまりよく知らない。

その伝説は、滋賀県に伝わる「瀬田の唐橋」


藤原秀郷の存在は、無視できないほど歴史上の人物では最強の武将です。

 

※滋賀県大津市の瀬田の唐橋にまつわる大蛇退治の伝説

かなり前に、また不思議な夢の話ですが、(前にも書いたと思うけど)
(私の本当の先祖は誰なんだろう?)と

眠っている時に勝手に問いかけてしまった。

すると、「藤原秀郷」と言われた、

というかその名が現れた。

でも、この時は、奥州藤原氏の藤原秀衡(3代目)のことを
ずっと調べていた時だったので、秀郷では嫌だな、

と思ってしまった。
なぜなら、平家の敵(平将門を討伐している)

と思っていたからです。

その秀郷は、あの世の世界をみせてきたのです。

丘に平安時代の貴族の衣服をきた人や牛車が
列を並んで歩いている風景。

 


https://ise-monogatari.hix05.com/6/ise-099.html

 

※夢のイメージ図(もっと長い行列になっていた)

その牛車の中をのぞくと、大きな人(顔)で
その夢でも巨人のようにとても大きかったのです。

実はその姿がちょっと残酷で…
戦乱で戦った後のお顔でした。

だから、

その秀郷と思われる武将は亡くなったので、
あの世に向かう世界であることを写す絵巻のようでしたが、
ああ、これが平泉の毛越寺なのか、と思った夢でした。

 

 

 

 

 

「藤原秀郷」の伝説は、
栃木と群馬の戦場ヶ原、
福島県飯坂温泉がある飯坂の信夫佐藤兄弟の祖とも言われ、
(藤原秀郷の子千常を祖とする)

多くの始祖伝承があり、「藤原北家」というものが関わる系譜をもつ

藤原家なのですがすべての男子の子に「千」の名を付けているのが気になる。

 

あれから何年も経っての「秀郷珈琲」だったから、

関東の秀郷に出会えることが、珈琲だったのが意外だ。笑

 


まったりした~~。

まさか、その近くに秀郷が陣をはった城跡があったなんて…

まず先に城跡と神社参りを。

 

 

唐沢山城

 

 

築城は平安時代の延長5年(927年)に、
藤原秀郷が
従五位下・下野国押領使を叙任、
関東に下向し唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。 

 



天慶3年(940年)平将門による天慶の乱

が起こったが、秀郷らの活躍で乱を鎮圧した。

この功績により秀郷は従四位、武蔵・下野両国鎮守府将軍を拝領した。

 

戦国時代に佐野氏が居城し、交通要衝の地にあるため、

本城をめぐって何度も戦いがあった唐沢山城。

 

 

「関東一の山城」と称され、

城跡は国の史跡に指定されている。

 

そのため、攻撃に備えるいろいろな工夫が随所に見られます。

 

避来矢(ひらいし)とは、
平安時代中期の武将藤原秀郷が百足退治の礼として

龍宮の王からもらったという伝説のある大鎧の名称。

 

(まだこの時平家の家紋とは気づかず)

この鎧を着用していると飛んでくる矢に当たらなかったという。

 

「平石」とも記される。

「避」の漢字が、あれと同じ。

 

藤原氏子孫(下野国の佐野氏)に伝えられたが、
江戸時代に浅草に保管してあったところ火災により焼失し、
兜鉢、障子の板、壺板等の金属部分のみが残った。



出流山千手院という寺院に保管された後、
1869年(明治2年)に栃木県唐沢山神社に移され、
大鎧初期の形式を現代に伝えている(国の重要文化財)。

甲冑師明珍家の宗家第二十五代目当主明珍宗恭により復元された。

 

 

 

 

 

 

 

今では、ネコちゃんたちが門番。

 

 

本丸の神社までしか行ってませんが、

かなり広い範囲にあった大きな城だったと思います。

 

 

本丸の神社には、藤原秀郷を祀る。

 

 

鳥居をくぐると池がありました。

 

 

 

竜神宮

 

 

瀬田の大橋の伝説から。

 

 

 

この池の底に、八角形の松材の木枠が3段積まれていたと。

 

 

・・・八角形は祈りの形として神社には多いですよね。

 

 

 

 

瀬田の唐橋の由来

 

 

唐橋から唐沢山になっていると思うのですが、

この「唐」について、

 

かつて架けられた橋は、丸木舟を横に何艘も並べ、
フジの木を利用し、その蔓(つる)を絡めた橋で「搦橋(からみばし)」とも称された。

 

※瀬田の唐橋

この「からみ橋」から「から橋」に転訛し、また、架け替えられるなかで、
中国や朝鮮半島の様式を模した唐様が取り入れられたことにより、
唐橋のほかに辛橋、韓橋とも記された。


辛橋については辛労して架橋した説もある。

そのほかにもヤナギの木のように流麗であったことから別名として
「青柳橋」とも呼ばれた。

201年(神功皇后摂政元年)、香坂皇子と忍熊皇子(おしくま)が反乱。
忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、
瀬田の渡しで入水して自害したという。

 

 

ああ、そうか、なるほど。
ここで織田信長が繋がってきたんですね。キョロキョロ

群馬県太田へ行った時に、妙に織田信長が気になったのは、
「忍熊皇子」のことだったんですね・・・

福井県丹生郡越前町の劔神社(式内社論社、伝越前国二宮)では、
忍熊皇子が「劔御子神」の神名で同地開拓の祖として祀られている。

ということだから。

思いだしてみれば、太田へ行った時に
偶然(間違えて)新田義貞の菩提寺(墓がある)所へ行った。

そこで織田信長が気になったのは、
新田義貞の最期は、日本海の敦賀市の氣比神社の由縁があり、
氣比氏が新田氏を迎えたという。

でも織田信長は氣比神社を焼き払ってしまったと。

その織田氏が崇拝するのは、劔神社の方だ。
ここに忍熊皇子が祀られている。


大和朝廷側(日本書紀)では、神功皇后の話にのせて、
九州のまつろわぬ民、忍熊皇子を倒したという話に→織田氏の祖


同じく、九州王朝から出た氏族が、
藤原秀郷の一族と婚姻を結び、平家を倒している→平将門の乱。


えーと、つまりは、
平将門と織田信長の「境遇が」似ている。
劔神社は、「敗者の霊」を祀るというから。

しかし、「平家」というものたちは、源氏と対立していたけど
「藤原家」はそうでもなかったことがわかりました。

後でこの話を書いておきます。

 

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ちなみに、「百目鬼(どうめき)」というのが

栃木県にあり、鬼退治なんですけど、

藤原秀郷が退治した際に矢を射ったとか、

※百目鬼(999の階段伝説:男鹿半島のなまはげと同じ)

 

ムカデ退治に使った剣などは、坂上田村麻呂と関連づけられています。
名前の由来は、藤原秀郷がムカデ退治したという時に由来する

愛用の刀(蜈蚣切)を斬ったという伝説からなど、

 

「集古十種」(しゅうこじっしゅ)に筆写された銘文と一致し、
銘は模写されたと。
それは、征夷大将軍「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)が佩用した
「楚葉矢」(そはや)の剣を写した物とされ、
現在の所蔵先は「伊勢神宮」(三重県伊勢市)です。

 

坂上田村麻呂→藤原秀郷→藤原清衡(初代奥州藤原氏)→伊達政宗

 

というのは、いったいなんのメンバーなのか?

Gメン75なのか。www

 

ひとり昭和ネタが寂しい・・・

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橋がありましたが、この奥の森がちょっと気になった。

 

 

 

 

(気になる・・・)

 

白い風鈴。

 

 

この城には猫が多いんです。

 

 

城ですから何かの跡なんでしょうけど・・・

 

 

 

 

少し参道を歩くと本丸近くへ到着。

 

 

階段あがると本丸(神社)

 

 

 

明治時代に鎮座?

 

 

ご祈祷の後。

女性の宮司さん。

 

 

このような大陸っぽい獅子の狛犬は、

栃木県の神社に多いです。

 

 

 

ここは、城なので、神社という雰囲気はないのですが、

意外にも、私には心地良かったのです。

 

 

まだ新しいようですね。

 

 

 

 

 

 

 

驚きの揚羽蝶の家紋

 

さて、参拝した後に社務所で御朱印を買うかどうか

いろいろ吟味していたところ、これをみつけて驚いた。

 

結果、これを買ったんですけど。

 

 

平家の家紋!びっくり

 

関心ない人は気にしないのでしょうけど、

この揚羽蝶をみたら、平家と思うでしょう。

 

なんたって、栃木には、平家と源氏が和解をしたという

「平家の里」があります。

 

 

湯西川!

とても良い温泉地です。

 

湯西川温泉にある平家の里

 

 

 

平家一族が隠れ住んだところ。

 

 

奥州平泉征伐も。

 

 

 

ということがあり、2020年9月に行ってました。

 

 


なんで藤原家なのに平家の家紋がっ!!??

社務所の人に

「これは平家の家紋と同じではないですか?」
と言ってみたけど

「・・・いえ、うちは藤原家です。」

と、言うので、

「そうですよね、
でもこれは平家の家紋では・・・?」←しつこい。

「蝶もいろいろですからっ」むかっ

と、ぴしゃっと言われた。

はい、撤収~。

佐野、つよし。


主人が、
「そりゃそうだよ、ここは藤原なんだからっ」と言われ、

しょんぼり平家。

 

猫と遊ぼうと思ったら、

 



寝てるし・・・

狭いところで寝てますなぁ。

 

 

城跡から遠吠え。

が、雲っていた・・・。

 

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まあ、なんでもいっか。と思ったけど、
腑に落ちないな・・・

ということで、帰ってから調べた。
しつこい秩父人は、調べる。

 

この平家の象徴とも言える揚羽蝶の家紋は、

源氏や藤原家も使っており、特に平家のみに限ったわけではなかった。

 

すると、藤原平家がいたことを発見。

よーし、狙った獲物は放さない。
猫と一緒。
お魚くわえて逃げる(それサザエさん)

だって、藤原秀郷と平将門は対立していたよね?

福島の半田沼なんて、
桔梗姫が(平将門妻説)藤原秀郷に近づいてスパイやってんだから。

そんな伝説、誰がもたらした?

桔梗とはわかりますか?

明智光秀の家紋が「水色桔梗」なんです。


五芒星ですよね。

この形。

 

 

だから織田信長。

なんで?

 

でも、本当は「和解」の意味。

 

藤原秀郷がそういう人だったことがわかる。

 

そんな昨日、仙台駅で桔梗まんじゅうを売ってた。

なんのフェアなんだ?

この時は、お盆でしたから、
平家がきたんだな・・・と思いました。

 

なぜ、藤原秀郷は、

平家が用いていた揚羽蝶を

継承したのか?

 

やっぱり、娘さんたちでした。

 

母方の女系が平家の家紋を

継承した藤原家の話。

 

平家とはなんだ?

 

 

つづく。