よくご当地映画とか言いますよね?
規範?というか決まりはあるのでしょうか? 場所の設定とかなら判りますが、それ以外でも何らかの関わりが有ればいいのでしょうか? そういう意味で関わりのあるご当地映画を見ました。
因みに、私の住む町の御当地映画といえば『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』という有名な映画が在りまして、出てくる場所は40年以上たった今も誰でも皆が解るという場所で撮影されました。
たまたま昨年、寅さんの故郷の柴又に行った時に、寅さんサミットというイベントが開催されていて、全国の撮影地がたくさん集まったお国自慢の様な催しに出会い遠く離れた場所で地元の商工会の人とも歓談し、他の地方の飲食を楽しみました。中々の盛況でした。
主役を始め出演者の多くが故人になっている今も繋当地映画繋がりの功績をとても嬉しく思いました。
さて、今回の映画『キセキの葉書』は、兵庫県の武庫川団地に住む女性の母との関係を再生した実話の映画化です。やっぱり実話の力は半端無いです。障害児を育てながら田舎に住む母のウツからの痴ほう症を葉書による語り掛けだけで治した女性の努力?愛の話で、13年もの間に毎日毎日葉書を書き続ける力は愛しかない凄いパワーです。愛が通じたのですね。
何よりも、高齢者の痴ほう症が治るなんて驚きです。この人の場合に限らず痴ほう症になるにはきっかけがあるはず、この人の場合にはそれがうつ病な訳で、そのきっかけを治癒出来たので痴ほう症も治ったという嘘のようなキセキの様な話なんですね。主人公の主婦の努力は確かに驚きですが、私が一番感動したのは彼女の背中を押した御近所の老女の一言、本当に的確で力になったと思ったわ。それが普通に言える素敵な人でしたね。
助けて欲しいとすがった母に断られた事を愚痴った時には、『人は自分が一番ですからね』の一見冷たい様な言葉に救われ、励ます言葉だけで救えるのか不安な時は、『それ以外に何があるの?』と言って励ましてくれる本当に的確な助言だと思ったわ。一人暮らしの老女なのに良い人生を生きて来られたんだとその優しさに感動した。
もうひとつは、無声映画の上映会があったのでもの珍しさだけで見に行ったところ、当然古く80年も前に撮られた作品ながら、この町で撮られたという映画は、観光芋掘りを記録したNEWS映画的な『秋は酣』(←タケナワと呼ぶ)と、本格的な時代劇『錦旗の下に』の短編2本、これを御当地映画と呼んでよいと思うし、散失や焼失を逃れて残っていたというキセキの様な映画でした。
映ってるのは普通に田舎の野山なので場所を特定出来るものでは無いが芋掘りに出てくる地名が今もあるし、フィルムの缶に確かに住所と社名があるという本当に珍しいもの、そして何よりなのは特別な場所でもない地方でも映画を撮っていたという事実は他の場所でも有り得るという話に、映画の歴史に繋がる話になっていました。
東京から来た若い弁士とピアノ演奏の女性だけのイベントが既に珍しいものであるという時代の現実と、映画がパソコンから簡単に上映出きる時代になったという科学の進歩で、取材のTVカメラまで来ていた。若い弁士を主役にした映画が有名な監督によって来年公開される話と連動しているのかも知れないけれど十分楽しめました。
上映された映画は、芋掘りとはいえ観光なので綺麗めの和服をきてるお母さんにビックリ、汚れる事を心配した。時代劇の方は、桂小五郎の奪われた密書を取り戻す話で、アマチュアの作品とは思えないマジで普通に時代劇でした。お口直し的にもう1つ大手の作品で『実録忠臣蔵』を上映したけど、松の廊下から始まって討ち入り後の行進までを描ききる中々の大作で一時間は無かったと思うが、今ならエー?って驚きの場面もあったりして珍しかった。
隙間なく言葉が出続ける弁士の口元はスゴイ技術だと思ったし、上映のトラブルを一人語りで繋いだのが漫談のはしりとか、確かに娯楽の少ない時代には十分楽しめる娯楽だし勉強になります。
その上、何か自分との微かな繋がりを感じれる御当地映画というジャンルは嬉しさもちょっぴり感じる良いものですね。