日曜日

 晴 寒暖計四十六度(注・=摂氏7.8度)

 

 

 午前、曜変天目第四篇を訂正して時事新報に送る。

 

 同十一時、向島徳川邸評議員会に参席す。出席者は徳川侯、家職福原修、評議員室田義文、石河幹明、西野元、井坂孝、吉見輝、高橋皣、菊池慎之助なり。家令手塚任氏は数日前腎臓炎より尿毒症を発して火鉢の中に卒倒して火傷を負ひたる由、其後元気は回復したれども静養の為め本日は欠席せり。

 

[山下、山本両大船成金]

 午後五時、築地新喜楽に催されたる金子子爵の晩餐会の出席す。子爵は日本美術協会新築計画に就き熱心奔走の結果、宮内省より五千円の御下賜金あり。爾後三井、三菱、赤星鉄馬各三万円、藤田男(爵)二万円等の寄付ありて今日までに既に十八万円を得たれば、猶ほ近来時運に乗じて所謂成金の列に入りたる人々をも勧誘し、多きは五十万少くも三十万位の基本金を得たしと、本日は船成金山本唯三郎、同山下亀三郎を主賓として早川千吉郎、団琢磨、加藤正義と余の六客を招邀【しょうよう】せしなり。此外安田善三郎、中村清七郎其他数名を招きたれども差支不参の由、扨て山下、山本両人は当時船成金として最も有名なる者にして、山下は二千五百万円、山本は千五百万円乃至二千万円の身代と称せられ、時局に依て不時の幸運を得たりとは云ひながら、此機運に乗じて斯くまで立身するに至りたるは決して平凡の人物に非ず。而して余は已に数回山本に面会したれども山下に逢ふは実に今夜が初めてなり。山下は年の頃四十五、六、中肉中背にて米屋町の番頭の如く風采の甚だ揚らざる男なり。金子子爵の紹介にて彼は余に挨拶して曰く、明治十八年と記憶す、拙者は初めて東京に出で初めて演説と云ふものを聴きたるが其演説は即ち貴下のにてありき、処は見た慶應義塾演説館にて貴下の演題はハンス専制の伝と云ひ、同時福澤先生は養子論と云ふを演じ、満場の学生等はサッサッと養子に行け、土台の出来たる身代を引受けて基礎を造るまでの時間を節約するは自他共に好都合にして、最も手早く成功する方便なりなど論じたり、但し先生は一寸皮肉の言葉を使ひて君達を養子にする者もあるまいが、若しあつたら行くが好いと云ふのが結論でありました、其後貴下と面会する機会なく今日に至りたる次第なり云々と弁舌中々達者なりき。山下は既に飛行機、潜水艇に対して政府に百万円を献金し、其他公共事業に寄付したる事少からず、されども自身は今猶ほ非常に質素なる由にて、過日金子子(爵)が山下氏の高輪の宅に訪ねたるに、氏は九年前一万幾千円にて買取りたる屋敷に住みて自働車が門内に入らず、三尺に足らぬ梯子段より二階に上れば毛利、島津邸の間を占めて風景は絶佳なれども、建具もボロボロにして非常に予想に反したりとて、金子子(爵)は頻に之を賞揚すれば、山下氏は得意に為り、金子さんおお出での時は生憎雨が降らざりしが、若し雨が降れば実は二ヶ所程雨漏りする所あれば、頭の上に雫が垂れしならんに惜き事をしたりとて呵々大笑せり。此時金子子は山下氏の大富豪と為りながら破屋に住みて磊々落々たる意気を感賞しつつ自身が日露戦争の際米国に使節たりし時、有名なる電気発明者エヂソン(注・エジソン)の工場を見舞ひたるに、停車場にはエヂソン夫人が美麗なる二頭立の馬車を以て迎へに来、頓て工場に着するや身に青き職工服を纏ひ髯蓬々として髪も櫛らざる一人出で来りて金子子を出迎へ隈なく工場を案内せしが、説明頗る要領を得て十分に参観の目的を達しければ、頓て工場の控室に帰りたる時、金子子は其案内者に対ひ御好意誠に辱し(注・かたじけなし)、就ては工場主エヂソン君に面会して親しく御礼を申上げたし、願くは拙者をエヂソン君に紹介せられよと言ひたるに、案内者は微笑を洩らしながら其エヂソンとは即ち拙者なりと言ひたるに一驚を喫したり、などの珍談も出でぬ。程なく山本唯三郎氏来着、氏は大兵にして色黒く常に体を左右に震動する癖あり、又上目を使ひて天を仰ぐ癖あり、動物園の虎が檻の中に居て始終体を左右する相貌に似たるは虎狩と何かの因縁あるやうに思はれぬ。着席は主人が指図せしには非ざれども、山本氏が上席となりて山下氏は其次に坐したり。余興はかね金子子が今度新に松風軒と云ふ名を与へたる二十五六歳の浪花節語にて栄楽という云ふ、其親も同く浪花節語にて栄楽と云ひたる由、金子子は浪花節語の奈良丸(注・吉田奈良丸)を贔屓【ひいき】して彼が米国に出稼ぎする時、紹介状を与へたるに依り奈良丸は之を徳として個人の宴席には一切出演せざれども、金子子に限りて其招きに応ずる由なり。然るに折悪しく奈良丸が東京に居らざるに依り非常に美声なる栄楽を其代りに招きたりとの挨拶あり。斯くて成金に浪花節は如何にも相当の余興なれども、或は無礼なりとの感覚を起さざるやと思ひ居りしに、山下氏は浪花節に深き趣味を有ちて至て聴き巧者なる由、扨て栄楽は最初に堀部安兵衛高田の馬場、次に南部坂雪の別れを演ぜしが、山下氏の説に、年若き為めに未だ沈着せざる所あれど美声は他に比類なく、之れに落着きさへあれば必ず一流の大家と為るべしと言へり。此浪花節の後に芸妓の手踊あり、遅れ馳せに講釈師典山(注・錦城斎典山)が入り来りて加賀騒動の一節を演ぜしが、講釈後挨拶に出でければ余は金子子と共に彼を相手に講談に就き種々物語りせしに典山は過日金子子が大学連を招待したる時、文学博士三上参次氏が徳川初代の言葉使ひに就き注意する所ありたりとて頻に感謝し居たり。又余が先刻浪花節の南部坂の一節に浅野の後室が大石良雄を款待せんとする時、今日は十四日先君の命日と云ふに「運び出でたる酒肴」と云ふ文句あるは甚だ不穏当なりと言ひたるに、典山は之を遮りて否とよ、浪花節は文句に於ても事実に於ても道理に適ひたる事は禁物なり、若し吾々講談者の如く理窟に箝る(注・すがる=ぴたりとはまる)やうに演じたらば聴聞者は大に減ずべく、浪花節は場当りさへ好ければ夫れにて事足る者なれば講談に比較して遥に気楽の者なりなど言ひ居たり。斯くて金子子は山下、山本両人に対して美術協会拡張は天皇陛下より直々に御沙汰を蒙り、会長久邇宮殿下よりも令旨を賜はりたる事業なれば、成るべくは便殿若くは一室を引受けて受付せられ、山下館、山本館などと云へる別館を造り呉れまじきやと懇談せり。知らず彼等は何を以て金子子の好意に報すべきや、他日今夜の御馳走の効果如何を知るの時あるべし。

 

 

 

 

 

 

 

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