古歌や源氏物語に出てくる「湯桁」という言葉があるが湯の圍、橡框とされる説、湯舟や温泉の数という説もあり、未だ確たる結論は出ていない。
道後の歴史講座を前に何度も何度も源氏物語を反芻するうちに一つの答えへと導かれた。
江戸時代に綴られた「伊豫湯下駄」という書があり、湯桁の表記で今日知られる。
今日までただの当て字題目かと思っていた「伊豫の湯下駄(江戸時代)」をそのまま湯下駄をイメージして考えてみるにつれ、慣習や生活様式、沐浴の歴史構造等を鑑みると平安時代当時、泥濘みの著しい湯場に裸足で赴く事や熱めの岩盤に足を直に置く事は物理的に考えにくく、何かしらの敷物又は履き物があったとして雪駄や布地等の水を含みやすい材質は無論不都合であり、板下駄が最も近いと考えられる。
板製の履物は弥生時代の水耕田では当たり前のように履かれており、湿地、泥地を歩く時には現在でいうところの下駄もしくは木板を敷いて歩いたと考えられる。
熱を持つ湯場なら尚更と思われ、平安期における「湯桁」は木板又は下駄数による浴人の数を表す単位もしくは算桁と考えられる。
古代より昭和の中頃まで五右衛門風呂というのがあったがこれも板を敷いたり風呂下駄を履いて入るもので同じメカニズムによるものと考える。
さらに道後温泉においては板による圍、または貴賤男女を分かつ仕切りのものは寛永期あたりに設された事が史要には明確に記されており、それ以前は全く違う光景であったと想像できる。
源氏物語による「伊予の湯」が道後温泉であるか否は「伊予介」(国司制における「守」の次の役職)と和気郡の表記があり、道後温泉で間違いなしの結論とする。
したがって源氏物語に記された『伊予の湯桁』は浴人の数桁を宮女たちが想像の中で別天地への憧れと共に膨らませつつ、今でいうところの温泉動員数や活気を板下駄の数をもって数え歌的に詠したと考える。
AIが闊歩する世となり、五感における音が物足りない昨今、活気の象徴として道後温泉界隈に浴衣の擦れ音と無数の木下駄の歩音が溢れ響く日を待ち焦がれる今日此の頃であります。