道後水月焼、二六焼、楽山焼と称される陶芸彫刻。その定説や歴史については未だ綴られたことがないので私の資料及び典拠を基に今回は記させていただく。
先ず『道後水月焼』、江戸時代後期、全国で人気を博した高橋道八・青木木米作品は鑑賞陶器として広まり、やがて地方の窯でも有志たちによって引き継がれていく。
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そんな過程の中でいち早く取り組んだのが当時から観光及び養生再生の地であった伊予道後。
浅川主水、二名拜山が試行錯誤し、さらに好川馬骨がこれに加わりいわゆる『天神蟹』と呼ばれる「水の神様」「長寿」「再生」等を縁起に当てている陶彫刻。(浅川文書)
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当初は道後鷺谷の大禪寺の北谷に窯を構え「道後焼」として種蒔き権兵衛や羅漢、菩薩などを焼き上げつつも道後土産・物産の主力として天神蟹をモチーフにした茶碗やぐい呑等の器を手掛けていく。
道後焼と印して現存しているものはやはり道後地域からの蔵物が圧倒的に多いが明治後期に入り、瀬戸内各地にもその名残りが見られる。
(明王院文書綴)
その後、道後焼は好川恒方により水月焼と名を改め陶細工の頂に君臨していく。
初代水月焼が好川恒方とされる由縁でもある。
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時系列で鑑みていくとこの辺りから玉井楽山、佐々木二六等の陶彫刻へ派生していく過程で定義付けられてなかったが故に様々な憶測喧伝や眉唾伝承が存在していることも否めない。
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ここで一つ、伊予市郡中における槙江山による陶彫刻はこれらの影響を受けずに当時の海軍や伊藤博文等の庇護の元、特定の受注生産等で発展してきたことは付け加えておく。(伊予郡中二百年史)
一昨年、この天神蟹が彫られた器が中国や二六愛好家を中心に大流行し、恐るべし高値を付けたのはコロナ禍による閉塞的社会に於いての「蟹」の縁起担ぎによるものと推察する。