問題文(段落番号は便宜上付けたもの)

 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 

1 詩におけるさりげないひとつの言葉、あるいは絵画におけるさりげない一つのタッチ、そうしたものに作者の千万無量の思いが密かにこめられたとしても、そのように埋蔵されたものの重みは、容易なことでは鑑賞者の心に伝わるものではあるまい。作品と鑑賞者がなんらかの偶然によってよほどうまく邂逅しないかぎり、アその秘密の直観的な理解はふつうは望めない。
2 しかし、そうした表現と伝達の事情において、やはり比較的深くといった段階にとどまるものではあるが、例外的と言っていい場合もいくらかはないわけではないだろう。そこでは、時代と個人的な作風との微妙な緊張関係がうまく永遠化されているのだろうが、たとえば17世紀前半のオランダにおける巨匠レンブラント・ファン・ラインの晩年のいくつかの作品に眺められる重厚な筆触の一つ一つは、今日のぼくなどにまで、そこにこめられているにちがいない経験の痛みのようなもの、言いかえれば、人生への深沈とした観照の繰返された重さをひしひしと感じさせるようである。「レンブラント、呟きに満ちあふれた悲しい病院」と歌ったのはボードレールであるが、そうした呟きの一つ一つに、こちらの内部に谺する、いくらか暗く、そしてはげしい人間的な哀歌を感じるのである。
3 レンブラントのそうした作品の中から、有名な傑作ではあるが、ぼくはここにやはり、『ユダヤの花嫁』を選んでみたい。彼の死に先立つ3年前に描かれたこの作品のモデルは、息子のティトゥスとその新婦ともいわれ、またユダヤの詩人バリオスとその新婦ともいわれている。さらに旧約聖書の人物であるイサクとリベカ、あるいはヤコブとラケルをイメージしたものだともいわれる。しかし、そうした予備知識はなくてもいい。茶色がかって暗く寂しい公園のようなところを背景にして、新郎はくすんだ金色の、新婦は少しさめた緋色の、それぞれいくらか東方的で古めかしい衣装をまとっているが、いかにもレンブラント風なこの色調は、人間の本質についての瞑想にふさわしいものである。そうした色調の雰囲気の中で、いわば、筆触の一つ一つの裏がわに潜んでいる特殊で個人的な感慨が、おおらかな全体的調和をかもしだし、すばらしい普遍性まで高まって行くようだ。この絵画における永遠の現在の感慨の中には、見知らぬ古代におけるそうした場合の古い情緒も、同じく見知らぬ未来におけるそうした場合の新しい情緒も、イひとしく奥深いところで溶けあっているような感じがする。こうした作品を前にするときは、人間の歩みというものについて、ふと、巨視的にならざるをえない一瞬の眩暈とでも言ったものを覚えるのである。
4 ところで、この場合、問題を集中的に表現しているものとして、新郎と新婦の手の位置と形、そしてそれを彩る筆触に最も心を惹かれるのは、きわめて自然なことだろう。なぜならそれは、夫婦愛における男と女の立場の違い、そして性質のちがいを、まことに端的に示しているように思われるからである。男の方の手は、女を外側から包むようにして、所有、保護、優しさ、誠実さなどの渾然とした静けさを現わしているし、女の方の手は、男のそうした積極性を今や無心に受け容れることによって、いわば逆の形の所有、信頼、優しさ、献身などのやはり溶け合った充実を示しているのだ。
5 ぼくが嘆賞してやまないのは、こうした瞬間を選びとったというか、それともそこに夥しいものを凝縮したというか、いずれにせよ、狙いあやまらぬレンブラントの透徹していてしかも慈しみに溢れた眼光である。暗くさびしい現実を背景として、新しい夫婦愛の高潮し均衡する、いわばこよなく危うい姿がそこに描きだされているのである。
6 ぼくは今、「危うい」と書いた。それは過酷な現実によって悲惨なものにまで転落する危険性が充分にあるというほどの意味である。その悲惨は、人間が大昔から何回となく繰返してきた不幸である。しかし、この絵画にかたどられようとしている理想的な美しさは、ウ人間が未来にわたってさらに執拗に何回となく繰返す希望といったものだろう
7 先ほどボードレールの詩句を引用したせいか、彼の『覚え書き』の中のある個所がここでふと思い出される。もっともそれは、レンブラントとはまったく関係なしに書かれた言葉で、男女の愛について述べられた抽象的な一つの感想である。彼はこう言っている、「恋愛は寛容の感情に源を発することができる。売春の趣味。しかし、それはやがて所有の趣味によって腐敗させられる。」
8 いかにも『悪の花花』の詩人にふさわしい言い廻しであり、世俗の道徳の権威に反抗して、性愛における「自我の蒸発と集中」の自由をのびやかに擁護しているものだろう。ぼくもまた、快楽主義と言うよりは一種の潔癖な独立の趣味を想像させるこのアナルシーに、爽やかな近代の感触をおぼえるものである。しかし、レンブラントの『ユダヤの花嫁』のように時代を超えて人間の永遠的なものに啓示している絵画を前にするとき、ぼくは、そこで成就されている所有の高次な肯定――エ純粋な相互所有による腐敗の消去法とでもいった深沈とした美しさの定着に、より強く魅惑されざるをえない。その美しさは、先ほど記したように、危うく脆いものであるかもしれない。しかし、幸福とは、いずれにせよ瞬間のもの、あるいは断続的な瞬間のものだろう。また、この世の中に、絶対的な誠実というものはありえない。ある一人に対する、他の人たちに対するよりも多くの誠実が、結果としてあるだけで、しかも、主観的な誠実が必ずしも客観的な誠実ではないという、困難な状況におかれることもある。したがって、問題は、幸福と呼ばれる瞬間の継起のために、可能なかぎり誠実であろうとする愛の内容が、相互性を通じて、結婚という形式そのものであるような、まさに内実と外形の区別ができない生の謳歌の眩ゆさにあるのだ。

設問

(一)「その秘密の直観的な理解」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(二)「ひとしく奥深いところで溶けあっているような感じがする」(傍線部イ)とあるが、「ひとしく奥深いところで溶けあっている」とは、どういうことか、説明せよ。

(三)「人間が未来にわたってさらに執拗に何回となく繰返す希望といったものだろう」(傍線部ウ)とあるが、「執拗に何回となく繰返す希望」とはどういうことか、説明せよ。

(四)「純粋な相互所有による腐敗の消去法」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

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