嫌々始めた野球であったが、いつの間にか生活の中心になり、他の習い事は全て辞めた。
水泳、ピアノ、習字、英会話、学習塾…と、小さい頃から大量に習い事させられていたのだが、小四の時には野球以外の全てを辞めた。
本当に野球一色になった。
高学年になると、どこの高校へ行って甲子園へ出たいか、友達ともよく話すようになった。
当時の大阪では、PL学園、上宮、近大付属が「大阪三強」と言われ、凌ぎを削っていた。
僕が四年生の時、1993年の春のセンバツでは、上宮が全国制覇を成し遂げた。
地元の代表校の快挙を、僕はテレビに噛り付いて見ながら喜んだものだ。
その夏の大阪大会は、やはり三強を軸に激戦が繰り広げられた。
吉川、牧野の左右の好投手を擁するセンバツ覇者の上宮。
エース松井稼頭央、一年生スラッガー福留孝介、大村三郎、などオールスター軍団のPL学園。
金城、藤井の二年生バッテリーを擁する近大付属。
この三校を軸に、たった一枚の甲子園切符をかけ180校以上が火花を散らした。
最後は、近大付属がPLを決勝で下し、二年連続の夏の甲子園を決めた。
甲子園では、金子誠がいた茨城代表の常総学院に敗れたが、相変わらず甲子園でも強さを発揮する大阪代表校の活躍は、僕たち野球少年に感動を与えてくれた。
だから、大阪の野球少年にはこの三強が、やはり人気だった。
うちのチームでは上宮高校が人気で、僕も、上宮に行って甲子園に出たいと思っていた。
しかし、その事を母親に言うと、こう言われた。
「俺は上宮行きたいねん。」
「上宮行くんやったら、勉強せな入られへんで!」
「そ、そうなんや。。。」
実際は、上宮の野球部はスポーツ推薦で選手を獲るので勉強は関係ないのだが、親としては、野球強豪校へ行くよりもきちんと勉強させたいとの思いからそう忠告したのだろう。
さて、僕が四年生の秋、我が檜少年野球部でひとつの快挙が成し遂げられた。
1993年の秋と言えば、世間では、パリーグ四連覇の西武VSセリーグ二連覇のヤクルトによる日本シリーズで盛り上がっていた頃だ。
西武ファンの僕はもちろん日本シリーズも気になっていたのだが、我が檜少年野球部は五年生以下のチーム編成で争われる、秋の新人戦を戦っていた。
ここで、僕たちは予選リーグを圧勝して、決勝トーナメントに進んだのだ。
創部以来、どうしようもない弱小だったうちのチームでは初の快挙だ。
五年生の先輩達が中心のチームだが、四年生では僕と仁志ユウキの2人がレギュラーに抜擢され、毎試合スタメンで出場していた。
予選リーグ突破を決めた時は、厳しい練習に耐えた日頃の努力が報われた気がして、本当に嬉しかった。
そして、いよいよ迎えた決勝トーナメントの初戦。
相手は、強豪の香田ジュニアファイターズ。
相手エースは、目を見張る程の快速球に、落差の大きいチェンジアップを混ぜる頭脳派の好投手だ。
なんとか食らいついていったものの、結局点を取ることはできず、僕たちは敗れた。
しかし、チーム唯一のヒットを放ったのが僕だった。
速球を狙いすまして、レフト前へ会心の当たりのヒット!
無安打に抑えられた先輩達の前で自分だけがヒットを打てて大きな自信になったことを覚えている。
さて、この新人戦で我がチームは快進撃を見せたわけだが、その原動力となった五年生の先輩達について少し触れておこう。
五年生は実はなかなかの逸材揃いであり、中には、その後特待生で強豪私立高校へ進んだ人も何人かいたのだ。
エースで4番の小島君は、山形県の甲子園常連校の酒田南へ進み、投手として活躍。
俊足巧打のキャッチャー永井君は、大阪の飛翔館へ進み、元巨人ドラフト一位の三木投手と同期だった。
強肩強打のセンター野原君は、岐阜県の強豪、大垣日大で4番打者になった。
このように、有望な五年生達を中心にチームはどんどんと力をつけ、大会で結果を残し、活気づいていった。
次回へ続く。