ブログ作成から早5日がたつんですね~時間たつのが早いです (ノ゚ο゚)ノ
巨商伝のメンテ中ということもあり、ペンをとっておりますw
昨日は私の●●回目の誕生日でありました。
だからといって、特筆すべき事はトクニ何も無かったんですけどねw (≧▽≦)
(それって悲しすぎw
あ、巨の何人かからプレゼントもらいましたね^^;ありがとねー
まぁ誕生日という事もあって、今までの人生をちょっと振り返って見たりしたんですが
まぁあれですね。。。うん、結局、
後悔しま栗!
・・・の人生だったなぁ としみじみ思っちゃたりしております。
それと。。。結構
何してたかを忘れてる!
ことも判明w
これを機会に少々思い出してみよっと。。と思ったり思わなかったり・・・
題 《私的史記的な物語》
(誰も読む奴いないかと思いますが、自己確認的に記してみるw ちなみに「史記的」の部分に意味はありませんwごろがよかったのでw
第1章 幼少期
神奈川県横浜市●●区海側・・・ここが私が少年時代すごした土地です。
京浜工業地帯の中核で、平坦な土地に無機質な安物住宅が立ち並び、ところどころに小さな町工場が点在する灰色の町でした。
同区でも山の手側は、緑も多く閑静な高級住宅街を形成しておりましたが、私の住んでいた地域は思いっきり「ブルーカラーの方々の住まう町」よろしく「柄の悪い地域」のレッテルを貼られるぐらいの場所でありまして、小汚くはなかったですが、下町といえるほど粋でもなく、華やかさのない土地でした。
また、戦後の高度成長期に工業地域の労働力の担い手として、朝鮮の方、沖縄の方が多く移住されていて、それぞれにコミュニティを形成し、先住の日本人との間で色々といざこざがあったりして問題の多い土地柄だったようです。
※当時私は子供で「子供の視点・記憶」で回想しております。実際と違うかもしれませんがご了承ください。
実際私の母は、沖縄の人たちを良く思っておらず、侮蔑する言葉をよく聞いた覚えがあります。
(実際色々あったようです。機会があれば記しましょう・・・
学校の友人に沖縄の子がいた事もあり、偏見を持っていなかった私は、よく母に意見したのを思い出します^^
朝鮮の方は一部地域に集まって部落を形成し、私たち日本人とは一線を画す生活をされておりました。
日本人との接点を持たず、仲間内だけで固まってひっそりと生きてる!ってイメージですかね・・・。
という感じだったんで、ある種の別世界がそこに存在しており、子供の中では近寄っていけない危険な場所となっておりました。
実際子供の世界では、「映画パッチギ」そのままに、朝鮮人をからかいじめた子が、後日朝鮮学校へ拉致られ総がかりでボコられる事もあったりして、ちょー危険な場所でありましたw
(鼻鉛筆って知ってますかぁ^^;;彼らは集団になると大変危険ですw今なら大騒ぎでしょうが、当時はたいした騒ぎになりませんでしたねぇ・・・笑)
まぁ、そういった土地で人に対する差別等に触れながら育ちましたね・・・うん。
そんな町でひっそりと暮らしていた私の家族は、4人家族でした。
父母子供2人・・・ではなく、母、祖母、兄と私という構成です。
そう、母子家庭でしたね^^
当然瓶ぼーだったのですが、母の頑張りにより最低限の生活は出来ていて、
欲しいものを余り買い与えてもらいませんでしたが、何の不自由・不満を感じることなく育ちました。
(うまく教育されたのかな^^;母のがんばる姿見てたので先にあきらめちゃう事が多かったのかもしれません)
当時は男尊女卑がカッコたる常識として社会に認識されており、そのような状況で、一家の主として不当な扱いを受けながら必死に働き、子供2人を育てあげました。本当に心から尊敬できる良い母親です。
そのような母から私のような者ができあがるとは・・・w すまそですToT
子供の頃の私は、どんな子だったかというと、
容姿はかわいい子だったようで、よくおねえさん達から可愛がられたのを覚えてますw
至って利発w なんにでも興味を示し、実際に行動を起こす子供でしたね。
そういった感じですから当然落ち着きがなくおっちょこちょい、
小学校6年間の通信簿に、「落ち着きをもちましょう」と書き続けられた実績がありますw
色々やってるうちに知恵がつき、それが転じてくそ生意気なガキになっていたようです。
同世代の仲間が子供に見えて(自分も子供ですが^^;;)自然年長者と良く遊ぶようになったのを覚えています。
・・・時間がなくなった^^ また、気が向いたら続きでも書きましょうかね・・・ 一旦ここまで、、、
(〃∇〃)