富(お金)がない、
というわけではないんだけど…

でも使って無くなっちゃったり、
無駄遣いして後悔しちゃったりが怖くて使えない…

という人、多いと思います

「その恐れを手放さない限り、
大きな富があなたのもとに入ってくるというのは難しい」

スピリチュアル界隈で、
聞いたこともある人いらっしゃると思います
昨今のスピリチュアリズムの進歩で、この考え方も広まりつつあります

とはいえ、
「わかっているんだけど、怖いものは怖い!」
っていう人のほうが多いですよね。

大丈夫です。それは普通です。

あるいは、
「恐れがどうかしたって?そんなことが、自分の収入と何の関係があるんだ?」
という人もいらっしゃると思います

もちろんそういう方にも聞いていただけるお話です

「富というのは消えることはない」

今日は恐れを手放すための、
「富というのは消えることはない」というお話をしたいと思います

っていうか、富だけじゃなくてすべてのものは「消えない」んですけどね
物質だけでなく、意識や感情などもです
仏教的に言うと「不生不滅」ってやつですね
でも、今日は「富」の話だけ

手近なところから話したいと思います

誰かがまず、
2000万円する車を購入したとしますよね

このとき、たいていの人はこの出来事に対して、

「車を入手する代わりに、2000万円失った」
「2000万円あれば1万円の食事が2000回出来たが、そのくらいの金額が失われた」

といったような思考を抱くかなと思います

この思考は、実際には誤りなんです

まず、人が車を買うとき、その目的は「車そのもの」ではないですよね

車に乗ってどこかにいくこと、
誰かを乗せること、
あるいは単に「所有すること」であるはずです(レアな車とかね)

となると、例えば数年後などに車を売却してもいいですよね
売るまでの期間、乗り回したりして、車を買った目的を達成したことになります

ここで、仮に2000万円で車が売れたとします
そうすると、おかしなことが起こります

売るまでの期間、2000万円もする高級な車を所有していて、
その人はその車でほうぼうに走り回ったり、知人を乗せたり、
あるいは場合によってはその車を自慢したりしたでしょう

しかし、その対価が払われていないんです

2000万円で買った車が2000万円で売れていて、
お金は減っていない...

これはどういうことなのでしょうか?
高級車を買って乗り回すという「体験」は、
努力して高給を勝ち取り、然るべき対価を払って初めて得られるものではないんでしょうか?

ここで、あなたが今考えていることを当てます(笑)
「2000万円で買った車が2000万円でそのまま売れるわけがない」
「時間がたった分だけ価値が目減りして、その分が『対価』なのだから、なにもおかしいことはない」と

しかし、2000万円で買った車が2000万円でそのまま売れることは、

「あります」

事実としてあるんです
車業界では車が買ってから、どのくらい値下がりしにくいかをその車の「リセール」という言葉で表すんですよね

一部の車種やプレミアムな車はリセールが大変に良いので、
条件がそろえば売値が買値を上回ることがフツーにあります

また、例えば高級時計なんかでも、このようなことは起こりえます
世界限定〇本といったようなめちゃレアで高価な腕時計なんかは非常に値下がりしにくく、買ってからぐんぐんと値上がりすることなど、しょっちゅうあります

これで、たいていの人が正しいと信じているある法則がガラガラと崩れてしまいます

「何かを得るためには、対価として何かを失わなければならない」

実際に世間一般の価値観からしたら、羨まれるような高級車、高級時計を購入・所有していながら、結果的に
「お金は一切減っていない」
そんな経験がこの世に実在しちゃってるんです

「それはごく一部の例外だ」「もともとお金を持っている人だけの特権だ」
そう反論したくなった方もいますよね

しかし、その反論に意味はないんです
法則とは、あまねく適用されるからこそ法則です
こんなボコボコと例外が出てくるようでは、もはや法則とは呼べません

これらの例外を説明することのできない古い法則を手放し、
新たな法則を導入しなくちゃですね

それは、こんな法則です

「富は消えない、ただ変化するのみ」

つまり、先ほどの例で言えば、
単に2000万円という金額は車に「変化」しただけなワケです

ですから、その車がお金という別の富に「変化」したとき、
そこに金額上の変化がなかったり、逆に金額が増えて戻ってきたりすることは、なにも不思議なことではないんですね

そこでここに、新たな疑問が生じます

「富が消えず、ただ変化するのみであるなら、
なぜ富が消えているかのような体験をすることがあるのか?」

富が消えたかのような体験というのは、いろいろありますね
例えば昨日食べたラーメンの代金を支払ったりだとか、先月行った旅行の代金を支払ったりなどがそれでしょう
もう食べちゃったんだから、なくなっちゃってるじゃん、というわけです

また、ある人は競馬で大量のお金をスッてしまったとします

このような場合、端的に言えば富は「体験」に変化しています

おいしい食べ物を食べたこと、知らない場所に行ったこと
それはかけがえのない財産であり、やはり富は消えてなどいないのです

「いやいや、競馬の例はどうなんだよ」
「競馬で大金をスッた経験に富が変化したとでもいうのか」
「そんなもの、富が失われたも同然ではないか」

これも当然の反応ですね

もちろん、競馬でお金をスったとしても、
そこで身に着けた馬の知識とか、人とのつながりとか、一言で言い表せない「体験」への変換が起こってはいます
したがって、富は消えていないっちゃあ、消えていないです

しかし、それで納得なんてできないですよね
それに、どれだけお金をスっても「勉強代だ、ありがたい」なんてノー天気に生きろと言うつもりもありません

第一、競馬で50万円をスろうが100万円をスろうが、
先に例で示した「体験」の内容にさほど違いはないわけですから、
異なる金額の富が変化した結果として、つじつまが合いません。

変化とは、すなわち「流れ」である

これを説明するには、「流れ」の話をする必要があります。
変化とは、すなわち流れなんです

変化というからには、何か(A)から何か(B)に変化するわけです。
このとき、AからBへの変化は、AからBへの流れであるということができます。

さっきの話でいうと、車を買ったとき、その人が持つ「お金という富」が、
「車という富」に流れたということです

ここで、富の流れは大きく分けて二種類あります

① 自分を通って、他人に流れていくもの

② 自分を介さず、直接他人に流れていくもの

これらの違いは端的に、あなたの
「好み」という直感に従っているかどうか
で分類されるんです

例えば、あなたが車が好きで、本当に欲しい車を買ったとします
そうすると、お金という富は車に流れ、そのことによって自分を満たします
このとき、富は自分に流れたのです

そして、車を買ったことによってそれを売った人や、
作った人という他人に富が流れていきます
これが一つ目の流れです

車好きでないのに見栄で車を買ったり、
執着や、あるいはストレス発散ができそうだからという理由で、競馬でお金をスったりすると、その富は自分を満たさないため、
自分を介さず直接他人に流れていきます

これが二つ目の流れです

この「流れ」の違いにより、
富は消えていないにもかかわらず、その「体験」に違いが生まれてしまうんです

なので、あなたは「富をどこに流すか」のみを考えればよいことになるんですね

しかも、あなたはすでに
「どうしたら自分に富が流れるか」を知っています
それが「好み」です。「好み」って、自分でもなんでそれが好きなのかよくわからないときありますよね
その感覚が、「あなたは既に知っている」という感覚なんです

なんなら、何もしなければ「富」は自分に勝手に流れます

何か好みのことに没頭するとき、
気づいたら時間が経っていたり、体がひとりでに動いていたりする感覚を覚えることがあると思います

あれは、「富」が自分に流れている状態こそが自然であり、
もともとその力がいつでも存在していることの証明なんです

あなたはただ、流れを止めなければいいだけなのです

ここで、冒頭の「富を失う恐れ」を手放すこととつながっていきます

もしあなたが、本質的には失われるはずのない「富」が失われることを恐れ、
何にも使わないでいる(何にも変化させないでいる)と、
それは自分への富の流れを止めていることになるのです

お金を使わずに抱え込むことと、
お金を執着から雑に浪費することは、
「自分を介した富の流れを妨害する」という意味で、
根っこがおんなじ、なんですね

なので、あなたが恐れを手放し、
富の流れを止めないというただそれだけのことで、
あなたはどんどん満たされていっちゃいます

なぜなら富は失われず、
ただ変化するのみ、流れるのみだからです

その流れに身を任せてください。

たったそれだけのことで、あなたの富の流れは大きく動き出します


おわり