三島事件(裏側2) | たけさんのブログ

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「人はなぜ治るのか」不調からの脱却

 自由人

三島由紀夫(=ペンネーム、本名:平岡公威)は、

1961年 「憂国」

1966年 「英霊のこえ」、「十日の菊」の2.26事件3部作を著作している。

1965年には、憂国の映画の脚色・監督・主演・美術・制作をした。

(1966年、ツール国際短編映画祭2位、日本では話題を呼び大ヒットした)



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「英霊のこえ」を書き上げ、三島は母(平岡倭文重 1905-1987)にみせている。一読して全身の血が凍る思いがした。どういう気持ちで書いたか聞き(手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべり、止めようにも止まらない。真夜中に部屋の隅々から低いぶつぶつという声が聞こえる。耳を澄ますと2.26事件で死んだ兵士達の言葉だと分かった)、三島に何かが憑いている様な気がして寒気を覚えたと語った。



「英霊のこえ」のラスト数行に、鍵が隠されてあり、「何かの曖昧な顔に変貌」した川崎青年の死に顔、この変容した顔が、天皇の顔であるとを三島は、読み解り問おた瀬戸内寂聴さんに、返事をだしています。



「楯の会」は、天皇のため楯となって、天皇を守り、勇敢な兵士と無数の英霊、その鎮まぬ怒りを天皇の身代わりとなって一身に引き受けるためにつくられたと思われる。



三島由紀夫(享年45歳)と森田必勝(享年25歳)は、神となることを目指していた、その霊は祟らない!!

(二人は、昭和の偽りの繁栄にうつつを抜かし、精神性より金銭という「物質的幸福」だけが、物をいう世界に成り下がった神国を、守るために尊い命を捨てた無数の英霊達の怒りは、行き場を失うと思っていた)



1962年 福島次郎は、東京に三島を文学のことで訪ねている。その後、文学のアドバイスや近況報告のやり取りがあったが、4年で辞めてしまいます。それは、三島の家族が厳しく三島の(同性愛浮気を)管理していたから、三島に配慮するかたちからという。


1966年8月 三島(42歳)は、元愛人の福島(36歳)のいる熊本に1週間ほどきて、熊本を案内してもらう。ホテルでかつてのように、肉体関係を結んだ。

私(福島)が抱きついてゆくと三島さんは急に体の向きを変えて抱き返してきて
小さな声でささやいた。
「しばらくぶりだったね、会いたかったよ。」
、、、、懸命に三島さんの首から、胸、腹に、強いキスを浴びせかけていった。
、、、三島さんはこちらが驚くほどの、甘えた子供のような声をほとばしらせた。

その時、自分が東京で急死したとき、すぐ駆けつけてくれるか三島は福島に聞いていた。



1970年11月25日:三島事件:自決前「天皇陛下万歳」三晶している。

天皇の心を我がものにすることに成功したんでしょうか。



三島事件の他の3名が、刑務所から出るまで待ち伊藤(同郷秋田県の古賀と小賀を楯の会に誘い入れた人物)は、秋田へ帰り3人で呑んだ。介錯(切腹の補助)した古賀に伊藤が、「あの事件は、何が残ったか?」と聞いた。古賀は「右手の平を上に向け、何かを持つようにした」だけで、一言もなかった・・・・・・。



三島事件のこの3名の内、2名は、「生長の家」のメンバーでした。

三島は、「生長の家」には一目置いていた。谷口雅春先生を尊敬していた。

オウムと違い、親子で入っている場合もあるようです。

初期の「楯の会」メンバーの半分が、「生長の家」入会者だった。

以上のような純粋で、理想に近い人達だったのでしょうか?

三島の理想に近かったのでしょうか!!

介しゃく人は、名をかえ、創始者の娘さんと結婚し、北海道支部長をしているようです。



三島と森田の首の重さ・・・・・、古賀が森田の真の友人として森田から介錯を頼まれていた・・・・首を一度で落とした。・・・・・古賀は、二人を安置した・・・・・。





1971年 映画憂国の原ネガを、瑤子(1937-1995)未亡人が焼却処分する。

(後の自決を予感させるような切腹シーンがあるためといわれる)







続く、



三島事件の裏側 3 は、



日本男児;

森田と三島の行為